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2004/09/25

日々是好日

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日々是好日」は、どう読むか。
 答えはどうやら、「にちにちこれこうにち」のようである。小生は、恥ずかしながら、想像の付くように、「ひびこれこうじつ」と読んでいた。その正解を知って、日の浅い小生である。
「中国の唐未から五代にかけて活躍された大禅匠、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉」だとか。
 読み方において、誤解していた小生だが、語義の理解でも、勘違いしていた。意味合いは、「その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地」を示すのだとか。
 小生はというと、言うまでもなく、「毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味」で理解していたのだった。
「その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地」…、なかなかそうはいかない。そんな境地に達していないことは勿論だが、近い将来においても、到底、達する見込みもない。
 ただ、それでも、あれこれジタバタしてきた挙げ句の今の自分はというと、自分について高を括っている気配もないではない。別に悟りを得たというわけじゃなく、自分に対し、世の中に対しても、極端に失望もしないかわりに過剰な期待も抱かない。
 所詮は、一人一人の人間の集合なのだ。自分のような取り留めのない人ばかりではないのだろうけれど、立派で眩しい存在ばかりがいるわけでもない。自分ができることをコツコツ、やっていくしかない。できるのは、それだけだとは思っているだけなのである。

 ところで、24日の「小夜時雨」に掲げた花の名前を教えてくれた方がいる。日々草だとか。そう、単純明快な思考回路の持ち主である小生、そのあまりに素直な連想で、この「日々是好日」という表題を思いついたのだった。ここまで分かりやすい奴も、今時、少ないのではなかろうか、なんて。

 手元不如意で本を買えない小生、貰った本、拾った本、昔、買って読んだ本などを読んでいる。七月・八月は藤沢周平、ついで、池波正太郎だったが、今は、五島雄一郎著『死因を辿る』(講談社α文庫)を読んでいる。サブタイトルとして、「大作曲家の精神病理のカルテ」と付されている。
 多くの天才的作曲家が、存命当時において原因不明の神経や精神の病を抱えていて、一生、苦しみ通しだったことが分かる。無論、そうではない作曲家(天才)もいたのだろうが。病の亢進が創造力を萎えさせることがあるが(それだったら、分かりやすい)、時に、逆に病が憎悪した時に創造力が高まり、爆発的なばかりに作品を生み出す作曲家がいたりする。
 癲癇だったと言われるドストエフスキーのあの作品群。小生は、ドストエフスキーの全集は二揃え持っていて、両者ともに読破している。読み始めたら止まらなくなる、あの一つの世界をとことん、しかも、一気に駆け抜ける描写力は凄まじい。「罪と罰」は英語版も含め五度は読んだし、「カラマーゾフの兄弟」も四回は読んでいる。「白夜」という小品は、七回か八回か。
 ドストエフスキーなど、今時、読まれているのだろうか。もう、古臭い作家に過ぎず、図書館でも埃を被るだけになっているのだろうか。病と創造性、その神秘を最初に痛感させた作家がドストエフスキーだったような気がする。そしてやがて幾多の創造者が、それぞれの病(やまい)、あるいは居たたまれない精神の葛藤や焦慮に突き動かされていたことを知るのに、時間は掛からなかった。
 好きな作家の一人である、夏目漱石もそうだった。今、たまたま漱石門下の寺田寅彦の随筆集を読み始めたので、つい、漱石を思い出してしまった。彼についても、全集を二つも持っている。座右において、常に叱咤され励まされたりしている。
 自分などを偉人に引き比べるのは、野暮だし、おこがましいと思うのだけど、徹底して書くという営為を続けてくると、自分の中にも何か、駆り立てるものがあるのかと、顧みたくなったりもする。書くことは楽しいと思いつつも、年間掌編百篇なんて企てを自分に課してみると、無謀な試みに喘いでいる自分って、一体、何? と思わざるを得ないのだ。
 それでも、やるだけのことはやる。やってどうなるというものではないのだが、持続している間だけが自分なのだという感覚は、もう、病膏肓の域にあるのかなと思ってしまう。
 世界の豊穣さを自分なりに感じたい。その感じ方、得方は人によりそれぞれだろう。自分は、ネタなどまるでないのに、敢えて日々、小品という形で創造することを選んでいる。生きてある世界の尽きることなき豊かさ。それを感じてならないのだ。
 が、悲しいことに、その無尽蔵さを表現する力は、まるで足りない。それは、気の遠くなるほどの断崖絶壁を見上げているような感覚だったりする。絶壁を見上げるだけ、もう、気力が萎えそうになる。自分の力が及ぶはずが無いと、呆気ないほど明確に思い知らされるのだ。数十メートルの大波に立ち向かうサーファー、なんて思ってみたり。溺れることは、海の藻屑になり終わることは、初めから知れている…。
 それとも、本当は、見下ろしても、その最下点の見えない絶壁に立っている心境なのか。そう、本気になって表現するには、思い切って、その崖を飛び降りなければならない。命を賭して、その暗黒と灼熱の世界に飛び込まないといけない。身を捨てないと、得ることはありえない。
 つまりは、そこで問われているのは、勇気なのかもしれない。掌編などを書き散らしているのは、実は、絶壁を飛び降りる勇気が無いから、崖の上の岩場の壁面を、ちろっ、ちょろっと、掻き削って、そうして創造の真似事をして、目先を誤魔化しているだけじゃないかと、つい、思われてしまうのだ。
 存在というのは、不可思議極まるものだ。その存在を問わない限りは、そこにとても自然に、さも当たり前のようにして、在る、居る。が、一旦、その意味を問い始めると、もう、波の引くように、その体躯が消え去っていく。後ずさりしていく。遠ざかっていく。この<オレ>を置き去りにしていく。
 巨大な闇。真っ赤な口を開けた灼熱の世界。隔絶している、それでいて、つい、隣りにある際限のない世界。自分はその世界にいるらしい。あるいは、もう、とっくに溺れてしまっているのかもしれない。溺死しているのに、気付いていないだけなのかも…。
 豊かな世界をこれほどに、ヒシヒシと感じているのに、何一つ手出しができないというのは、あまりに悲しい。やはり、ドンキホーテを気取る訳じゃないけれど、幻の風車を追いかけていくしかないのだろう。

 さて、掲げた写真は、一昨日の朝、仕事帰りに近所で撮ったもの。可憐な花ばかりが小生を迎えてくれる。あと、小生を迎えてくれるものというと、先日、掲げた老いた白猫。昨晩、買い物に出かけたら、その白猫は、同じ場所に鎮座していた。ほぼ、一日中、坐ったままなのだ。別に小生などを気にかける風もない。でも、小生は、勝手に、奴は小生を見守ってくれていると思っている。
 ほかに誰もいないのだから、せめて奴だけは、と思ってしまうのだ。奴がいなくなったら、さぞ、寂しかろうと、今からもう、戦々恐々の心中なのだ。
 そういえば、小生には、「月と老い猫」という作品があったっけ。

 老い猫の 招き待つのは 闇だけか

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2004/09/24

小夜時雨

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 小夜時雨という言葉に出会ったのは、めるがっぱさんサイト「美術館のある町で」の掲示板でのことだった。岩波文庫の「蕉門名家句選」の上巻を時間を掛けてじっくり読まれていた。その読解の一環で、次の句を紹介されていた:

 小夜しぐれとなりの臼(うす)は挽(ひき)やみぬ   野坡

 名前だけは知っていても、ことさら時間を掛けて志太野坡の作品に接することはなかっただけに、この句に出会ったことを契機に、彼の他の作品も味わってみた。
 改めて、「小夜時雨」という言葉を紹介するに当たって、正確な語義を示しておこうと、「小夜時雨」をキーワードにネット検索してみたら、冒頭近くで興味深いサイトを発見した。そこには、子規の句が示された上で、「小夜時雨」という言葉などについて説明してある:

 小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん   正岡 子規

「季題は<小夜時雨>で冬。「小夜」は夜の美称。冬のはじめの頃、さっと降りだしては止む雨を時雨という。」以下、上掲の句の読解が示されている。
 この句に応じる形で、虚子の句も紹介されている:

 すぐ来いといふ子規の夢明易き   虚子

「これは昭和29年の作。子規が逝って既に半世紀の歳月が経っているとは思えぬほど、精神の呼応が感じられる句ではないか。『子規句集』所収。」は、まさに同感だ。
 どうぞ、紹介したサイトを覗いて欲しい。簡潔的確な文なので、一気に読める。

 この「小夜時雨」という言葉を紹介しようと思ったのは、昨夜半過ぎ、まさに「小夜時雨」を経験したからである。もっとも、正確には、「冬のはじめの頃、さっと降りだしては止む雨を時雨」というのだが、暑過ぎた夏が終わって、秋の到来を真夜中過ぎにそぼ降る雨に実感していたので、公園の脇に車を止めて、雨に濡れる木の葉などを眺めていると、つい、この言葉を思い出してしまったのである。

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2004/09/23

秋の雨

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 掌編のこと
 小生は、あまり考えないで川柳(と称していいのかも分からない)を作っている。風景を見たり、写真を見たり、何かのメッセージを読んだり、時に、思い出の中の光景を脳裏に思い浮かべたりして、そのイメージを句に置き換えている。
 そこには、もしかしたら、思わず知らずの作為が働いていないとは言えないのだろうけれど、小生としては、ほとんど考えもしないで、せいぜい語数(5・7・5)だけには多少、神経を払う程度で、即興でひねり出す。
 その意味で、所謂、創作というには、ちょっと安易過ぎるものなのかなと、感じている。
 しかし、それでも、ひねり出す一瞬の作為の中に、創作というのは大袈裟なのだとしても、何かしらの創造の作用がないとは言えないようだ。
 小生は、掌編を相当程度、書いている。今年も今のところ、73個、作った。全て、基本的には創作。実話に基づいているように見えて(読まれる方に、実話に見えてくれるなら作者冥利に尽きるのだが)、実際には、実体験から端緒(契機)を戴いているだけ。
 実際のところは、徹底して虚構の営為であり、虚構空間での現実空間の創出を懸命に企図している。その、あるようでいてない光景を叙述するのは、なかなかに難しい。目で実際に見た光景ではまるでないのだから、ない世界をあるかのように描かねばならない苦労は、並大抵でなかったりする。

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2004/09/22

日傘の女…

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 七月の上旬から罹った川柳熱が、二ヶ月あまり経った今も、亢進したままである。
 そんな小生に付き合ってくれる人もいる。大変だろうけど、お相手してね。
 尚、表題の「日傘の女」というのは、意味深そうだが、昨日、車中から見かけ、印象的だった女性がいたので、つい、表題にしてみただけ。なーんだ、だが、まあ、床しくてならないので、仕方ないね。

> かなかな・・シリーズ3      なずな
>
> さかなは はるかな かなたへ いった
> かなしみ かなたへ はこんで いった
> ひぐらし かなかな なく ひるま
> かならず かなう ねがって ごらん
> ゆめみた こころ ゆたかな おもい

「俳人は かなかなかなと 鳴くのかな」から、ここまで来るとは凄いね。さすが、なずなさんだ。あっしは、詩は書けないので、ナンセンスな言葉遊びを(早口言葉じゃありません!)。

 かなた は たなか
 さかな は なかさ
 かなかな は なかなか
 さかなかな は なかなかさ
 なか は かな
 かな は なか
 なかのかな
 なかなかな
 かなうなか
 なかろう と うろかな 
 はかない は いなかは
 となかい と いかなと

(余談だが、小生、このナンセンスなる言葉遊びに二時間も費やしてしまった!!その努力に免じ、これらの平仮名言葉に漢字を当て嵌めてみて。他にも、「かな」を使った言葉遊び、誰か試みて欲しいな。)

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2004/09/21

猫と睨めっこ

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 猫と睨めっこ
 月曜日の夕方、買い物に出かけた際、そろそろ半月に近付いているはずの月影を求めたけれど、夜空には見当たらない。マンションや工場(こうば)が建てこんでいる一角だから、仕方ないのだろうか。それとも、空が曇っていたのだけなのか。

 半月の 片割れ探し 夜の旅
 
 ところで、買い物を終え、我が邸宅もそのうちにある団地に入り、階段を登ったら、目の前に猫がいた。その猫は、向かいの工場のブロック塀の上に立って、じっと、こっちを見ている。
 警戒しているようにも見えるけれど、なんとなく、瞳の中に、好奇心でこちらを眺めているような感じも見受けられる。小生も、猫ちゃんと目が合っていて、その目を逸らすことができないでいる。しばし、階段上で立ち往生。
 猫は、淡い茶色の雑種の猫。仔猫とは呼べないが、大人にもなりきっていないようだ。
 仔猫の無警戒とも違う、といって、警戒して、場合によっては、フーと毛を逆立てようという気も、ないらしいその猫、一体、どういうつもりで我輩を眺めていたのだろう。

 猫よ猫 瞳の奥の 夢見せよ
 
 焦れて先に動き出したのは、小生のほうだった。階段を上がりきり、踊り場を曲がろうとしても、猫は、ずっとこちらを眺めたまま、身じろぎ一つしない。不思議な猫だ。
 なんとなく、エッセイ「猫と扇風機の思い出」を思ってしまった。

 駄句の洪水だ! 
 さてさて、掲示板にも書いたけど、駄句の洪水がやまない:

 以下は、いずみさんサイトでの書き込みに付したもの:
(コーヒーが恋しいと聞えるということで)
     コーヒーで 恋しい思い 暖めて
(財布をポットントイレに落とした思い出に絡めて)
     我が財布 今ごろ何処で 使われてる?!
(画像掲示板に安見さんより大台ヶ原の画像が。その写真を見て)
     大台ヶ原 神の吐息の 垂れこめて
     大台ヶ原 虹の橋さえ 神の道

> かなしいかな かながき かなもじ かたかなことば
> きゅうかな しゅうじょし(終助詞)のかな いまのこわかるかな
(以上の、なずなさんの言葉遊び文を受けて) 

     悲しいわ… 叶わぬ恋と 嘆くかな
     ひらがなで つづることばは よみづらい
     カナガキデ ツヅルコトノハ ヨリツライ
     け(きゅ)ふかなで つづることのは もふよめぬ

 掲載した写真は、以前にも画像掲示板で紹介した東京のとある運河の夜景。時折、小生は、この運河に沿ってある公園脇に車を止め、休憩する。風がなかったりすると、波が穏やかで、その波間に月影がちらついて、疲れた神経を癒してくれるのだ。
 ところで、その画像掲示板、また素敵な写真の投稿があった。嬉しい。特に、あるフラッシュの画像(349)は、豪華且つ可憐である。必見だ。

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2004/09/20

週末は徒然なるまま創作三昧

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 土曜日に少し無理を押して武蔵境で行われた祭りに出かけた。その後に、鍵にまつわるトラブルがあったりして、その疲労などの後遺症が、ずっと尾を引いた。今日も休みだったのだけれど、ずっと、寝たきり。昨日から、ほとんどロッキングチェアーで過ごしていた。
 それでも、週末の連休には、この夏場、ずっと読みつづけていた藤沢周平の本の十冊目を読破し、池波正太郎の『雲霧仁左衛門 上・下』(新潮社)も読了することが出来た。この夏は、両大御所の時代小説三昧だったわけだ。
 その合間には、山本健吉の俳句の本、芭蕉の「おくの細道」などをつまみ食いしながら、俳句とは川柳とは、なんて、つらつら思いをめぐらしたりしていた。
 さて、小生、今年は米百表ならぬ掌編百篇の精神で、自分なりに頑張ってきた。六月までに50篇を書き上げ、7月は8篇、8月は10篇と書きつづけ、先月末までで68篇。
 が、先月末から今月に懸けては、サンバパレードにギャラリーしに行き、そのレポート作成、さらには苦手な写真のアップ作業に時間が奪われ、肝腎の掌編がなかなか手が付けられないでいた。
 そこで、昨夜は「彼岸花の頃」を曼珠沙華(彼岸花)を狂言回しに使って書き、今日の午後は、アガパンサスという花をトリックスター的に使っての「アガパンサスの花言葉」という掌編を書き上げた。

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2004/09/19

夏の或る日の日記から

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 以下は、八月の終わり頃に書いた、やや戯作調の日記。一読すれば分かるように、浅草サンバカーニバルが終わって、なんとなく虚脱感が漂う。夢の世界から現実に、引き戻され、戸惑っているような、何処か投げ遣りな雰囲気が漂う:

 ヒグラシ日記
 支払い期限が31日。郵便局で支払いしたんだけど、驚いたことに、窓口で一切待たされることなく処理してくれた。最速だ。これはこれで物足りなかったりするけど、贅沢な思いだね。
 ああ、それにしても、なけなしのおカネが呆気なく消えていった。自分のものでありながら、自分のものではなかった、なけなしのあのおカネ。まるで勝手に恋人と思い込んでいた人が立ち去っていったようだ。

 " 蜩(ひぐらし)よその日暮しと笑うなよ "
 支払いに行く途中、何処かの民家の石塀から緑滴る木々が。ふと、先月、スクーターで帰省し、我が郷里に付いて、高速を下り、一般道を走っていて、道路上から脇に青々と実る稲穂の田を連想してしまった。
 
 " 秋の田や大海原と競うごと "

 そういえば、北陸自動車道に入り名立谷浜近辺に近付くと海が見える。夏の海。貧しい青春を送った小生だけど、それでも、何一つ思いでがないわけじゃない。
 
 " 底深く思いを沈めて北の海 "

 浅草でスタッフとして手伝いをした。大蛇の目などの制作に立ち会ったり。その大蛇の目を見て、ふと、遠い昔、田舎の何処かの田圃で見た蛇とカエルの睨みあいを思い出した。

 " 蛇の目に竦むカエルよちびるなよ "

 それにしても、山車押しの疲労は取れたけど、今になってふくらはぎや体の節々が痛む。
 
 " 浅草の思い出詰まるふくらはぎ "

 作り物めいた日記文の転記は、ここまで。
 以下は、この一両日に作った、これまた戯作調の句の数々:

 曼珠沙華 いずみのほとりで 咲き乱れ
 曼珠沙華 秋の訪れ 寿いで
 曼珠沙華 目覚めろ弥一と 怒るよう
 曼珠沙華 お下がりの饅頭 饅頭下げ
 饅頭は 包む皮より 餡子だぞ
 饅頭食べ いのちのいずみ 湧くーってか

 木下利玄の「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎているしづかなる径(みち)」に添えて:

 曼珠沙華 彼岸を萌やして 咲く花か    弥一

 以下は、あるサイトの掲示板への書き込み

 小生、昨夜も性懲りなく、同じ失敗をやってしまった。バイクのトランクに鍵の閉じ込め。惨めー。情ないー。気のせいか、失敗のサイクルが縮まっているような…。行末はどうなることやら。

 秋の暮れ あっしのドジに 呆れてた
 小夜時雨 降るは弥一の 胸の中
 ドジ加減 これで打ち止めと 思いたい

 ああああ、涙雨が、降るーーーー!

 掲載した写真は、或る日或る場所での朝焼け。
 我が人生は傾くとも、そんな小生にお構いなく、日々に新たに日が昇る。朝日が眩しい!

 日は昇る 誰に断りなく 日々新たに……ああ、切ない!
 

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ひたすらに

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 土曜日は徹夜明けを押して、三時間ほどの睡眠をとっただけでサンバパレードを観に行った。感激もしたけど、トラブルもあって、体は疲労困憊。夜の十一時近くに帰宅し、シャワーを浴び、仮眠を取ってから、未明になって、パレードなどについてのエッセイ文を交えたレポートを書き上げた。
 いろいろ悲しい、辛い、憤懣に耐えない事件などが報道されるけれど、パレードで若い人の元気な姿を見ると、感じるものも少なくない。ひたすらに楽しさの実現に向って頑張っている。眩しいほど。以前、ひまわりの画像を貰った際に、付した句を多少手を加えて、再度、掲げておきたい:

 まっすぐに 眩しいほどに ひたむきに

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