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2004/09/18

汗駄句駄句

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 金曜日であり、多くの人には三連休を控えているということもあって、必ずしも暇というわけじゃないけど、信号待ちの時などに、寸暇を惜しんで(?)川柳などを捻ったりして:

 行く夏を命の限りと蝉の鳴く 
 悲しみを千筋に分けて行く雲よ 
 ダダダダダ!これがサンバだ!ダダダダダ! 
 鈴虫は涼み松虫は待つ虫かも
 俳人は かなかなかなと 鳴くのかな

 帰宅して、掲示板などにも、性懲りなく駄句に駄句を:

 秋の夜 何をするにも 楽しくて   弥一
 柿を食い 虫の音聞いて 書を開く   michio
(狐火や この世を夢と 知らすごと   弥一)
 狐火は 鬼火を知らす 先行きか michio

 狐火は、雨模様(天気雨)の夜に見えるという。つまりは、土中の燐(動物の屍骸から発生するものなど)が雨(水)に反応して、青白い炎のようなものが上がる。それが狐火の正体だと言われる。完全に雨降りだと、狐火(鬼火)は鎮火させられるし、雨に煙って見えないのだろうね。
 ということで、鬼火は、狐火と同じモノだと思うのだけど(同じ対象の別名?):

 狐火や 未練の思いを 火に変えて   弥一

 白猫と 黒猫合わせ 斑(まだら)猫?   弥一
 斑(まだら)猫 出生の謎 問うて鳴く   michio
 斑(まだら)猫 相手求めて 鳴きしきる    弥一


 添付した画像は、昨年の味の素球場でのブラジルデーでの一齣。
 子供ポルタの勇姿!

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2004/09/17

文章と絵のコラボレーション

kitune-yomeiri
 このところ、エッセイや小説に挿画を使わせてもらう機会が増えている。前から、少しずつは試みていたのだが、絵と文章との相乗効果を期待しての試みは、ますます増えていきそうである。
 エッセイもそうだが、特に小説を書く場合には、自分の脳裏に虚構の空間を描いている。それは、小説のドラマの場面でもあるけれど、もっと抽象的には、物語のイメージを象徴するような、ある意味、現実にはありえない(非日常的な)光景だったりもする。
 自分に絵を描く才能や情熱があれば、時間を掛けてでも可能性を探ってみたいのだが、それより、実際に日々、絵に携わっている方に、なんらかの世界を描いてもらうほうが、的確に表現してもらえる。
 九月に入ってからだけでも、エッセイ「猫と扇風機の思い出」になずなさん、掌編「狐の嫁入り」などにkeiさんの手になる絵を載せることができた。

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2004/09/16

天高く…意気低く

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 池田小事件の宅間死刑囚(40)が、14日、死刑執行された。「主任弁護人に送った手紙でも刑事訴訟法475条で規定された「6カ月以内」の執行を訴えていた」とか。つまりは、本人の望みどおりに死刑が執行されたということか。
 死刑の執行が早すぎるという意見がある。小生もそう、思う。場合にっては、今は謝罪の気持ちも、罪の意識もないとしても、一定以上の死刑を待つ刑務所生活の中で、後悔の念に見舞われる可能性があるからだ。
 一方、早くはない。早い執行は当然だという意見もある。彼のために、貴重な税金が使われるのは無駄だ、とも。
 小生は、死刑の執行が早いか遅いか、という問題よりも、むしろ、そもそも執行をどの段階を行うかに関して、裁量の余地が国(法務省?)にあること、そして、どういう判断で死刑の執行が早められたり、何年も遅らせられたりする、その判断の根拠の曖昧さに危惧を抱く。
 法務大臣や法務省の役人等の裁量に任される…。当然のように見えて、どうも、釈然としないものがある。
 そもそも、本当に宅間死刑囚の犯行は、彼の個人的な事情によるものなのか。何か背景があるのでは。そんな闇の部分が、全て葬られてしまったという気がするのだが…。

 さて、昨日も仕事が閑散。悲しいかな、またまた、駄句の嵐となった:

 考えて考えた挙げ句の居眠りさ 
 待たされて待った挙げ句の待ちぼうけ 
 鶏頭やこの世萌やして咲くなるか
 水銀の 白々として 淋しけり
 夜明け前 悲しみまでが 目覚め待つ
 夕暮れを 黄昏(誰そ彼)と呼ぶ 今宵かな
 夕暮れを 黄昏(誰そ彼)と呼ぶ 伊達男
 後れ毛に 息吹きかけて 武者震い
 川下り 腹下りに 聞こえるね
 幽霊さん アンヨもなしに 出歩くな
 リンゴ一個 二人で分けて 喧嘩する
 ブランコや 揺れて軋んで 誰を待つ
 公園に 忘れられたか 靴一つ
 砂場にて 掘り起こしたる 夏日かな

 掲載した写真は、小生が仕事で朝帰りすると、近所で出迎えてくれる(?)猫。体毛は白。もう、老いていて、ほとんど身じろぎ一つ、しない。先日、道路をのそりのそり渡る姿を見て、感激したものだった。

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2004/09/15

汗顔の極み

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 またまた今日も駄句のオンパレードとなった。いつまで続く、駄句の嵐よ、である。
 以下の句の数々は、いずれも、掲示板にレスとして書いたもの。経緯は、掲示板を御覧下さい。

 いいんです 楽しく美味しく いただけば
 赤トンボ 燃えて灰までの 恋心
 赤トンボ 身を粉にしても 夢叶え
 火のように 恋い焦がれての 紅い空
 熾き火より 埋み火のごと 恋う我か
(↓この句は、画像掲示板に、のり巻きさんから、胡蝶蘭の写真を戴いたので、その返礼に付したもの。胡蝶の逸話については、画像掲示板を参照のこと)
 夢うつつ 蝶の舞う空 見下ろして

 以下の句は、いずみさんサイトの掲示板に書き込んだもの。
 あまりの駄句ぶりに、汗顔に耐えないが恥を忍んで掲載しておく:
「珈琲館Good Day Web SITE」
 http://homepage2.nifty.com/good_day/

 鍵が無い! ないはずだよね 差したままじゃ
 傘が無い! ないはずだよね 差してるじゃん
 金が無い! ないはずだよね 稼いでない
 運が無い! ないはずだよね 運の尽き!
 品が無い! ないはずだよね ヒヒーン!(午年なもので)

 さて、一週間ぶりとなるが、メルマガを配信した。参考までに、目次だけ示しておく:

   目次:●1.鶏頭となるも
      ◎ 我がリベルダージのパレード情報
      ●2.小島英煕著『ルーヴル・美と権力の物語』
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 表題の中で、「鶏頭となるも」は、わりと楽しい駄文系かも。

 添付した写真は、今朝、仕事で朝帰りした際に、近所で撮らせてもらったもの。
 花の名前は分からないけど、ご婦人が毎朝、丹精篭めて世話されている。

 最後に、即席の句を一つ:

 夜明け前 木の葉までもが 夢の中

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2004/09/14

茜空

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 夏も終わりなのだろう。蝉時雨も何処か間が抜けているような、焦っているとでもような感を受ける。
 といって、秋になったとも言い難い。季節の狭間。夏の終わりと秋の始まりとが混在している。
 会社の倉庫では、コオロギが鳴いている。会社の人の話だと、例年通りなのだとか。鳴き声を聞いて驚き、姿を探し求めたが、とうとう、見つけられなかった。鳴き声はすれども姿は見えず、である。
 一方、車で何処かの深い緑の木立を抜けると、蝉時雨が凄まじい。仕事が暇だったこともあり、駄句をついつい捻ってしまう。

 月の裏見つけちゃったヌイグルミ(ナンセンスな句。ヌイグルミ…。勿論、ウサギちゃんのだよ)
 しんちんと暮れゆく空にはぐれ雲  
 君が身に我が身重ねて更けていく(町角で見た若い男女。羨ましいね)
 蝉時雨沁み入る岩の眩しくて  
 風に揺れ憩う木の葉の緑濃く

 帰宅して、掲示板に寄せてくれたメッセージへの返事として書いた句の数々。
 こうした句を作った事情などは、掲示板を御覧下さると、分かります。

(michioさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 赤トンボ 夕焼け空に 負けるなよ
 トンボ追う あの日の空は 彼方へと
(emilyさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 石舞台 悲劇の歴史 内に秘め
 明日香村 棚田のごとく 積む歴史
 ヒガンバナ 思い出さえも 紅く萌え
 赤トンボ ヒガンバナとの ツーショット
(のり巻きさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 夢うつつ 蝶の舞う空 見下ろして
(マルさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 どなたでも ユズティー作って 譲ってぃー
 果汁はね いのちのエキス 詰まってる

 掲載した写真は、仕事中、未明に撮ったもの。東京の某町の茜空。
 せっかくなので、この空を見ての句を捻っておこうかな。

 茜空 胸の思いの 萌えるごと
 茜空 忘れた思い 炙り出す

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2004/09/13

夏が去っていく

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 今日の日曜日は、前にも書いたように、ひたすら休養に充てた。少しは疲れが抜けたような気がする。掌編を書く元気が出たのも、休んだお蔭なのだろう。HPの更新も多少は出来た。やり足りないことをあげれば切りがないけれど、無理はせず、のんびりやっていこう。
 今日も、方々で駄句をばらまいてきた。

「K君や 言葉少なく 静かなり 秋の夕べに 愛の言霊」 さくらえび
  
                言の葉は 問わず語りに モノを言う   弥一

「K君の 時折見せる 別世界 脳をかき分け 我れ入りたや」 さくらえび

                心とは 世界を入れる 器かも    弥一

 さくらえびさんのサイトは:
 http://homepage3.nifty.com/AKO

 安見さんが、画像掲示板に、ひまわりの写真を載せてくれた。そのお礼というわけではないが:
 
 ひまわりの 視線の先に 何がある
 まっすぐに 眩しいほどに まっすぐに

 安見さんのサイトは:
 http://homepage3.nifty.com/narumi~46-47/

 他にも、付け句ということで、サイトに載せられている俳句に付するコメント的な寄せも試みてみたり:
 http://www.h6.dion.ne.jp/~nazuna/index.html
 ↑の中の「投稿掲示板」にて。

 掲載した写真は、我が家のもと田圃の実情。そう、昨年までは田圃だったのだ。が、稲作に携わる手もなくなり、今では、こんな有り様なのである。そういえば、そんな光景を思って、こんな句を捻ったものだった↓:
 
 去年(こぞ)の田は夢かとばかりに飛ぶトンボ


 

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2004/09/12

まったりの一日

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 仕事のほうがスケジュールが厳しい。その合間を縫って、サンバパレードにギャラリーしに行くので、このところ、体への負荷が過剰気味。そこで、今日は、完全休養に当てた。とにかく、ひたすら何もしない。
 秋の日を感じさせる散歩日和の今日を、ホコリ塗れの部屋の中で過ごすのは、勿体無い。一昔前の自分なら、バイクに跨り、秋風を一杯吸うために、多摩川の土手か、今のように整備される前のお台場などへ向かったものだ。
 部屋の中では、ひたすらロッキングチェアーで居眠り。合間には、池波正太郎の『雲霧仁左衛門』を読んでいる。未明に上巻を読了し、下巻に突入。藤沢周平の時代小説とは違う世界を堪能している。
 さて、小生の本分というと、書くことだけ。
 というわけで、このところ遅れ気味だった掌編作成に勤しんだ。先月までで68個。今月は、月初めに、「案山子とボクと」を書いただけだった。そこで、この休みを使って、一つは朝方に「真夏の夜の出来事」(仮題)という得体の知れない掌編、もう一つは、書きかけだった黒猫ネロモノ第六作となる、「イチジクのネロ」(仮題)を書いた。
 これで、今年に入っての掌編は、通算で71個となる。年掌編百篇という目標に向って、道はまだまだ遥か。いよいよ、胸突き八丁という感じもある。読まれるかどうか分からない、というより、ほとんどが見過ごされていく掌編の数々の山を築いてどうするという気も起きたりする。
 でも、「創作の意味?」での反省で思ったように、書きたいから書く、表現の可能性を自分なりに尽くす、真冬の雪の朝の雪原を一人歩くように、誰ひとりいない薄明の領野を何処までも歩いていく。書くことは楽しみである以上に、ただただ生きる証しであり、さらには、ただ歩くその一歩一歩、大地を踏むその感触を確かめるため、ただそれだけのために書いている。
 小生は絵を描きたいという欲求はあるが、当面はその機会を持てそうにない。その分、数知れない絵画作品を見てきた。これからも見ていくだろう。油絵、水彩画、墨絵、ペン画、と手法だけでも絵画の世界は多彩だ。その中で、一番、静謐さと魂の透明なる緊張を覚えさせるのは、銅版画のようだ。
 今、自分は、虚構の空間という画面に向って、虚構の銅版画を、虚構のペンを使って刻み付けている。その筆舌を尽くしがたい快感。我が魂の輪郭に刻み込まれていく線描の示すものは、一体、何なのだろう。自分でも分からない。分からないけど、歩けるところまで歩いていく。ただ、それだけ。

 掲載した写真は、この七月の帰省の時に撮った我が家の庭の一部。緑豊かのように見えるかもしれないが、実は、雑草が生い茂っていて、近くで見ると、見るも無慙なのである。その有り様を見て、草むしりに励んだのも、無理はないのである。

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夜明かし

yamato-nero.png
 休みの前の日となると、椅子で夜明かしする習慣が付いてしまった。といって、ずっと起きているわけではなく、居眠りしては、ハッと目が覚める、の繰り返しである。
 正直なところを書こう。読書をと本の活字を追うと、すぐに目が疲れるもので、ちょっと目を休めようと、目を閉じると、すんなり睡魔の優しい手に導かれ、無明の境を彷徨うらしいのである。
 七月、八月と、貰った藤沢周平の時代小説を十冊、立て続けに読んだ。その流れというか、今、昨年、ゴミ置き場で拾ってきた池波正太郎の『雲霧仁左衛門(上・下)』(新潮社)を読み始めたのである。
 一昨日は、二十数年前に読んだ北山茂夫著の『万葉群像』(岩波新書)を読了した。ずっと車中で、ちょびちょび読んできて、あと僅かとなったので、自宅で残りを読みきった。『万葉集』には、学生の頃から関心を抱いてきたが、この十数年は、一層、興味深く読まれる。大伴家持という、藤原氏らにより傍流に追いやられた名門の総領が、浅からぬ思いを抱きつつ、律令国家の形成の陰で苦しむ庶民や、権力闘争などで泣き、あるいは非業の死を遂げた宮中の人々の思いを綴る歌を拾い集めた本。
 そう、普通なら消え去るべき本。立派な国家を作る過程での、闇の部分を抉り表現するような本など、あってはならない本。傍流とはいえ、一応は権力者の末尾にあって、広く言の葉を拾い集め、編集し、且つ、保存・温存・秘匿に努めることができたからこそ、奇跡的に生き延びることができたのだろう。
 無論、宮中の奥深くで、密かに(公然の秘密?)読み次いできた、そうした貴族等の思いもあったのだろう。
 一方、今は、車中では、またまた芭蕉の『おくのほそ道』を読み始めている。いろんな版で再々に渡って読み、もう、何度、読んだか分からない。
 思えば、『万葉集』のあとは、『古今集』や『明月記』などを読もうと思っていたのに、時折、拾い読みするだけで、小生は、ずっと『万葉集』に引き止められたままである。同時に、芭蕉以外の俳諧にしろ和歌にしろ、ほとんど、読んでいない。
 感性が、それらに合っているから(?)と思いたいけれど、まあ、学習能力に問題があるのかもしれない。もっと、幅広くと思いつつ、これからも、『万葉集』と芭蕉を中心の古典めぐりとなりそうだ。
 薄暗かった空も、今は薄明となり、スズメだろうか、鳥の鳴き声も聞えてくるようになった。夜明かし。ちゃんと蒲団で寝たほうがいいのだろうとは思うけれど、翌日は休みと思うと、ダラダラのんびりまったり過ごしてしまう。せめてもの贅沢がこうした生活なのかもしれない。
 かの9・11のこと、あれこれ考え、コラム的なことを書きたいと思いつつ、取り留めのないことを綴ってしまった。
 掲載した絵は、なずなさんに戴いたもの。八月一杯、なずなさんの主宰・管理・幹事により、「黒毛祭り」が行われていたが、その祭りに参加したお礼だという。こちらこそ、逆に労いの何かをしなくてはいけないのに、反って恐縮である。そのうち、肩でも揉んで差し上げたいものである。
 なずなさんサイト:
 http://www.h6.dion.ne.jp/~nazuna/index.html

 昨夜、捻った句を少々。これらは、掲示板にマルさんがコメントを寄せてくれたので、そのレスとして書いた文章に付したもの:

 急かされて 描いた世界に 茫然自失
 ない袖を 振り絞っての 一句だよ
 携帯に 虫の音入れて 風情かな
 我がライフ 最初の絵画は 蒲団にて
 川柳は いのちマルごと 手の平に


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