青みどろ
最初に断っておくが、表題の「青みどろ」は、夏の季語である。決して、冬の季語ではない。「青みどろ」というのは、「水田、池、沼などに繁茂する緑色で糸状の藻」のことである。「ほとんど流れの止まった淵などに発生する細毛状のみどり草」と説明しているサイトもある。
では何故、季節外れもいいところの「青みどろ」という言葉を表題に選んだかというと、今、読んでいる円地文子著の『朱を奪うもの』(新潮文庫)の中に、青いみどろという言葉が出てきたから、その言葉を目にしたのが久しぶりで、新鮮だし、まあ、一言で言ったら、気になったから、に過ぎない。
来年の夏になったらまた、思い出して採り上げられる自信もない。
ちなみに、円地文子の本は、女流作家を読み漁った頃に読んだ『女坂』以来、二十年ぶりで、本書で二冊目である。最近の作家の本を読むと、表現方法に(よく言えば)優れて方法的であり自覚的で、それはそれでいいが、何か高くにピンと張られたロープの上を歩かされているようで、読了して疲れてしまったりする。
例えば、過日、読み終えた松浦寿輝著の『そこで ゆっくりと 死んでいきたい 気持を そそる場所』(新潮社刊)などがそうだった。詩的な文章、絵画で言えばマニエリスムのような叙述。いいとは思うけれど、いい作品を読み終えたという充実感というより、何処か異境へ迷い込まされたような徒労感と紛うような彷徨感が残った。
何処か、見知らぬ場所。居心地が今一つ、定まらない場所。小生は、なんとか少しでも早く、馴染みのあるような世界へ戻りたかった。
だからといって、円地文子の文学世界が小生にとって居心地いいわけではないが、それでも、かって親しんだ世界の一つではあるのだ。
この「青みどろ」という言葉、あるいは青みどろのある光景を詠った句は、予想に反して多かった。結構、この言葉や実際の光景の持つ、青臭さや生臭さ、過剰な生命感は、俳人ならずとも想像力を喚起されるのだろう、か。
散見した句を羅列してみると、「レーサー集めて北は鳥葬の青みどろ」「沼それは孔雀啼く青みどろかな」「倒産の連鎖反応青みどろ」(浩伊知)「
青みどろ平安閣をこぼしつつ」「クローンの人魚鰓まで青みどろ」「青みどろみどろに染まり巡礼す」(阿部貴美)「少年のまなこするどし青みどろ」(高木喬一)「聞かぬ子のそばで色づく青みどろ」など、まだまだ見つけることができた。
誰の作か分からないが、「青みどろ夢解(ほど)かずに迷いけり」という句は印象的である。
久保田万太郎には、『青みどろ』と題された句集があるらしいが、「菖蒲湯のあけてありたる湯殿の戸」という句をたまたま見つけることができただけ。「青みどろ」を織り込んだ句があるのかどうか、それとも、表題は何かを象徴させているのか、その辺りのことは分からない。
興味深かったのは、作家もこの「青みどろ」という言葉を使っていること。ネットでは、例えば、「「司馬遼太郎を読む」は『企業家・ベンチャー市場』店長であり、『企業家倶楽部』副編集長の高橋がお送りするコラム」に、司馬遼太郎の青みどろ混じりの一文が引用されていた:
そこに、巨大な青みどろの不定型なモノが横たわっている。その粘膜質にぬめったモノだけは、色がある。ただし、ときに褐色になったり、黒い斑点を帯びたり、黒色になったりもする。割れてささくれた爪もそなえている。両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は、折れている。形はたえず変化し、とらえようがない。わずかに息づいているが、言えそうなことは、みずからの力ではもはや人里には出られそうにないということである。君はなにかね、ときいてみると、驚いたことにその異胎は、声を発した。「日本の近代だ」というのである。(「“雑貨屋”の帝国主義」から)
(転記終わり)
このサイトの書き手によると、「日露戦争に勝利した1905年から太平洋戦争に敗戦した1945年までの約40年間を、司馬氏はこのようにイメージしている。」という。詳しくは、上掲のサイトを見て欲しい。
司馬遼太郎は、小生が二十歳代の頃に『竜馬がゆく』を始め、ポピュラーな作品を立て続けに読んだ。今、読んでみたいのは、『街道をゆく』である。
『蝉しぐれ』などの作家、藤沢周平の作品にも、「青みどろ」という言葉が使われている。見つけたのは、「藤沢作品と鶴岡」というサイトで。
どうやら、『龍を見た男』に出てくるようで、「何かが、いる。と思った。」「池の、青みどろに隠れた深みの底あたりに、何かがいた。」「それは魚ではなかった。もっと巨大なものの気配だった。」といった会話があるらしい。舞台は、「貝喰(かいばみ)の池」らしく、その池の写真が同上のサイトに載っている。
藤沢周平の世界は、小生も好きで、たとえば、「藤沢周平著『一茶』のはずが」など、書評エッセイを幾つか、書いている。今年、知り合いに貰った同氏の本を何冊も読めたのは嬉しかった。まだ、読み残している彼の本が待っている。
さて、作家の作品で、「青みどろ」が出てくるものの中で、一番、印象に残ったのは、太宰 治の『人間失格』の中のくだりだった。見つけたのは、「下田逸郎の世界」というサイト。同サイトには、「”自分の中に音楽のジャンルは 二つ しかない。
一つは下田逸郎の音楽と もう一つは それ以外だ ”」と謳われている。小生も、惚れ込むほどではないとしても、『踊り子』を筆頭に、下田逸郎の音楽世界は好きである。
同サイトには、太宰 治の『人間失格』の中から当該の箇所が引用されている。その中から、目当ての箇所だけ、転記する:
罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通りはっと思いました。
もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?
罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬灯がくるくる回っていた時に、
「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
(転記終わり)
この箇所は、印象的なのか、拘る方がいるようで、「太宰治 青みどろ」でネット検索すると、複数、検索の網に掛かる。例えば、統合失調症で治療中だという、ある若い方のプロフィールは、実に鮮烈だったりする。
太宰治は、他の作品(「八十八夜」や「二十世紀旗手」など)でも「青みどろ」という言葉を使っているのが分かった。
余談の余談となるが、「罪と罰」で、シノニムかアントニムなのか(類語か反対語なのか)ということでは、小生も若い頃、誰かに高説を賜ったことがあったものだ。但し、太宰絡みではなかったが。
さても、何を書きたかったのか、まるで焦点の定まらない、まさに気随気侭な随筆となった。全ては「青みどろ」のせいである、などと言い切れるほど、得手勝手にもなれないが、まさに青みどろの小文とはなったのかもしれない。
冒頭に小さく掲げた写真は、土曜日の深夜、都内の某公園で撮ったもの。画面では薄暗くて分からないかもしれないが、何処かヴィトゲンシュタインの設計(と建築にも深く関与した)ストンボロウ邸を思わせるような邸宅が、ほとんど葉っぱの落ち尽くした桜の裸の枝越しに見えるはずである。
あまりに雰囲気が出ているので、二の句も継げず、駄句を遮二無二吐くだけ。こういうのを蛇足というか蛇句というのかもしれない:
冬の夜の異界に誘う裸枝の奥
最後に、今月、六個目、今年の通算で98個めの掌編を今朝未明に書き上げた。タイトルは、「おしくらまんじゅう」である。
最初は、「めじろおし」を表題に何か書こうかなと思っていたのだが、ネットで「めじろおし」を検索して資料を集めていたら、その過程で「おしくらまんじゅう」という言葉に行き当たった。懐かしい遊びだ! これだ! ということで、急遽、表題をおしくらまんじゅうに切り替え、創作してみた、というわけ。
では、何故、その前に、「めじろおし」で何かを書こうと思ったかというと、今年の秋、鎌倉の山間の地で「めじろ」を見たから、というに過ぎないのである。実に他愛のない話で申し訳ない。
あと、二つで年間掌編百篇だ。あと、一週間。頑張らないと。
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