冬ざれ
今日の表題(この季語随筆日記の場合、季語ということになるが)をどうするか、例によって迷う。というより、いつも画面に向かってから考える。12月の季題(季語)は、前にも書いたように、非常に多い。
もう、目移りしてしまう。
掲げる写真に合うような、当然ながら、今日のこの頃の(東京の)天気に齟齬しないような季語を探したい。
物色しているうちに、「冬ざれ」という言葉に目が止まった。
この言葉、歌の好きな方なら、ピンと来る物があるに違いない。そう、小生の好きな歌手(今時、使われるかどうか分からないが、シンガー・ソングライター)の一人である、五輪 真弓の歌「冬ざれた街」のことである。
「少女」で鮮烈なデビューを果たした彼女の初期の頃の歌のはずだ。調べてみると、「1973年渋谷ジャンジャン録音盤」が74年に発売されている。小生が、大学に入って間もない頃の曲だ。部屋には、テレビなどなくて、ラジカセが唯一の音源だった。もしかしたら、まだラジオだけだったか。
小生は、彼女のこの歌で、「冬ざれ」という言葉を知った。が、侘しげないい言葉だと思いつつも、使いこなせるはずもなければ、使うような場面にも遭遇しない。
というより、遭遇していたのだろう。あるいは、今とは比較にならないほど仙台の街を歩き回っていて、冬ざれの渦中にあったものか。
無論、一人で。何処へということもなく、闇雲に。春、夏、秋、冬と、季節を問わず、やりきれないもやもやと茫漠たる思いに駆られながら、一時間や二時間どころではなく、数時間もほっつき歩いた。
仙台では10月の終わり頃には、例えば夜などに外出すると、不意を打つように突然の冷たい空っ風に見舞われる。昼間は、穏やかな日和だっただけに、夜の外気の豹変振りに圧倒される。風も、息も継げないような厳しさだったりする。杜の町の表情が一変してしまう。街路樹も何もかもが、木枯らしに生気を一瞬にして奪い去られてしまったようになる。誰もが気持ちをウチに篭らせてしまうようで、若い人間には道行く人のよそよそしさが寂しく思われるものが、一層、冷たく感じられたりしたものだった。
冬ざれ。不思議な語感を持つ言葉である。あるサイトでは、「土石や草や樹のあれさびたさま」とも説明されていた。
この「冬ざれ」の類語には、「枯れ野」とか「冬枯れ」という季語があるようだ。東京など、この数日も、どうやら三日も日中は比較的暖かいとか。が、夜はどうなのだろう。真夜中などに、都心の何処かの公園の脇に車を止めて、休憩しつつ、冬の空など眺めたりする小生には、じっとしていると背中がゾクゾクするような悪寒さえ覚えそうである。
公園の植木も、多くは恐らくは、桜の木なのだろうと思われるが、さすがに葉っぱが落ち尽くした木も見受けられる。掲げた写真も葉桜の末期の姿のようだ。
一方、同じ公園で、花の名前は分からないのだが、桃色の花を今を盛りと咲き誇らせている樹木もあって、冬ざれと言いながら、光景は複雑なのである。
「枯れ野」というと、小生など、すぐに芭蕉の「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」という辞世の句を思い浮かべる。
では、「冬枯れ」というと、どんな句があるのかと脳裏を巡らせても何も出てこない。ネットで探したら、「道後公園」というサイトなどで、以下の句を見出した:
ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影 子規
何故に「鏡」なのだろう。病臥していて、直接には雲など子規には見えない。けれど、病床の脇か壁にある鏡に雲の影が映っている、その影に冬枯れを感じ取っているということなのだろうか。なかなか、鑑賞するのは難しい。
ネットでは、「冬枯れ」なる言葉を織り込んだ句は、数々見出せるが、一句だけ、「テーマ別俳句 冬 一」で見つけたものを(評釈もその頁で読める)」:
冬枯れや平等院の庭の面 上島鬼貫
さて、肝心の「冬ざれ」を織り込んだ句は、どうだろうか。
例によってというべきか、「日刊:この一句 最近のバックナンバー 2001年11月1日」で見つけることが出来た。詠んだ瞬間、気に入ってしまった(評釈もその頁で読める)」:
冬ざれのくちびるを吸ふ別れかな 日野草城
ちなみに、この句、評者の坪内稔典氏のお気に入りなのか、「2001年11月1日」のみならず、「2003年1月29日」でも選ばれている。両者で評釈(評価ではない)がまるで違うのが面白い。日野草城(のこの句)に対し、語りたいことが多いということなのだろうか。
冬ざれや禰宜(ねぎ)のさげたる油筒 落梧
これは、「阿羅野脚注」で見出した。なかなか見られない光景を詠っていて興味深いので挙げておいた。
さて、最後だが、季語随筆と銘打っていても、本来は日記サイトなので、それらしいことを。
今日も、ご飯炊きでドジ。お米をとぎ、電気釜にセット。電源をオンに。しばらくして炊き上がったのだが、今日は妙に炊き上がりが早いし、湯気も立たないな、と思っていたら、そりゃそうだ。電気釜に二合のお米をセットしたのだが、水を入れるのを忘れていたのだ!
読書の方は、相変わらず、車中ではカサノヴァの回想録やら、坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌」を、自宅では、堤隆著の「黒曜石 3万年の旅」と並行して、今週から内田康夫著「透明な遺書」を読み始めている。
前者は、もしかしたら書評エッセイを書くかもしれない。
後者は、拾ってきた本。小生、内田康夫のファンなので、こんな本を拾えて嬉しい。早速、就寝前などに読んでいる。面白いので、寝付くが遅くなりがちになるのが困る。
水曜だったか、営業中、ラジオ(J-WAVE NISSAN FUGA THE DAYS)を聞いていたら、ハービー・山口という方へのインタビューが聞けた。もう、詳しくは書く余裕はないが、こんな写真家がいたんだと、興味を持った。そのうち、機会があったら、再度、言及するかも。
小生、これまで「無精庵徒然草」(この季語随筆サイト)、「無精庵方丈記」(虚構作品サイト)、「無精庵万葉記」(書評エッセイサイト)などを設けてきたが、今度、過去の駄句川柳・俳句の蔵置サイトである「無精庵投句の細道」を設ける。
こうなったら、新規のアップは(メルマガを覗いて)全てブログにするかも。そうしないと、書き下ろしの作品が溜まって、気が付いたら執筆して一ヶ月以上も経てからやっとアップ、などという事態を回避できないのだ。
あれ? 何か忘れてる。そうだ、「冬ざれ」を織り込んだ句を作っていない!
冬ざれて今日も一人の夜の果て
冬ざれて身を縮ませる木の葉かな
冬ざれて砂場の隅のやもめかな
冬ざれて軒端の窓の影恋し
冬ざれて梢の先に揺れる葉よ
冬ざれて裸木の枝間の月の影
冬ざれを口実にする添い寝かな
冬ざれた樹幹に憩う蛹かな
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