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2004/12/14

ポインセチア

s-DSC01171

 掲げた写真は、画像にもあるが、セイタカアワダチソウ(背高泡立草)である。但し、花の盛りは10月で、ここに示した画像は今の惨状。10月18日のこの徒然日記「秋麗」に載せた写真と見比べて欲しい。変化の大きさが分かるだろう。
 けれど、この植物の名前「背高泡立草」というのは、背丈が2メートルにならんとする背の高さと、秋の終わりから冬にかけての、実が綿のような、まさしく泡のようなようすに見えることから、付けられたとか。
 この草、花粉が飛びそうで、実際、一時期は花粉症の原因植物として悪名を轟かせたこともあったようだ。実際には、濡れ衣だったのだが。

 さて、今日の表題は、ポインセチアにした。ホームページの画像掲示板にこの植物の画像を貰い、また、あるサイトでこのポインセチアが冬の季語でもあることを知ってもいたので、たまにはハイカラな表題を気取ってみようと思ったのである。

 画像を見てもらうと分かるし、師走の頃ともなると、花屋さんに限らず、窓辺や玄関先などに花を飾る家などでは、しばしばこの植物の姿を見ることができる。
 いまや、すっかり12月の風物詩の一つになっているようだ。
 この別名をショウジョウボク(猩々木)というポインセチアの真っ赤な花だが、花というのは実は、真っ赤なウソのようである。「赤いのは花ではありません。冬が近づいて日照時間が短くなると,枝の先の方の葉が赤く染ま」るのだという。
 なるほど、よく写真を、あるいは花屋さんなどの店先で実物を見ると、花びらではなく葉っぱなのだということが分かる。葉脈などの筋がくっきりと浮かんでいる。
 真っ赤に色付いている葉っぱを花だと思い込んでいた、そんなうっかり者の小生、実は、ポインセチアのホントの花をじっくり、見たことがない。で、上のサイトを見ると、ポインセチアの花の画像も載っている。なんだか、一言では表現し辛い形や雰囲気を持っている。
 敢えて表現すれば、色は黄色で、寿司ネタのウニに筋というか亀裂を刻んだような形をしている、ということになるのか。
 原産地は中央アメリカ(メキシコ)だとか。熱い地方だ。なのに、冬の植物。高地で育つ植物だったのだろうか。ネットで調べると、本来は寒さに弱い植物だと、書いてある。可哀想に、ホントは、葉っぱが真っ赤に色付いているのは、寒さでかじかんでいるのかもしれない。それで紅いのかもしれない。
 そう、霜焼けで手や足の先、鼻の頭などが赤くなるように…。
 それにしても、何故、ポインセチアはクリスマスシーズンの花(植物)として広まってしまったのだろう。真っ赤だから? でも、冬に深紅の花を咲かせる植物は、寒椿に限らず、あるような気がする。冬に咲く薔薇、冬薔薇も最近は珍しくなくなっているようだし。
 どうやら、寒さに弱いというのが、ミソで、暖かな部屋の片隅に、それこそ天然のクリスマスツリーのように、飾っておけるというのが売りなのかもしれない。暖かさを保ち、水も乾き始めたら与え、肥料(えさ)はそんなにやらなくても大丈夫なのも、人気の秘密なのかもしれない。結構、怠惰な人も、まあ、年内くらいなら、育てられる、というわけか。
 小生としては、イルミネーションに使われる灯り同様、クリスマス以後のポインセチアの運命が懸念される。もしかしたら、使い捨て? そんなこと、ないよね。
 あるサイト(株式会社ライン)のポインセチアの頁を覗いてみる。
 そこには、「1825年当時メキシコ駐在でアメリカの公使だったポインセット氏がメキシコに自生していたポインセチアを発見。この功績がたたえられて氏の名前から"ポインセチア"と命名されました。」など、ポインセチアのあれこれが書いてある。
 どうやら、原住民には医療用の植物だったらしい。
 さらに貴重な情報が書いてある。さすがに全文は転記しかねるが、とにかく、「クリスマス時期に苞葉の赤色が最高に美しくなり、それが下葉の緑との調和がよ」いこと、「花の中にある蜜腺の黄色が、鈴の金色の役割りを果たしていること」などが、ポインセチアがクリスマスに用いられるようになる理由のようである。
 花言葉は「私の心は燃えている」だとか。まるで小生のようだ、なんて言うと、顰蹙を買いそうなので、密かに納得しておこう。
 笑っていいのかどうか、分からないが、小生、ポインセチアの別名がショウジョウボク(猩々木)であることが気になっていた。まあ、真っ赤な花(実は葉っぱなのだが)ということと、猩々、つまり、オランウータンの真っ赤な顔ということで、なんとなく見当は付くような気がしているのだが。
[ところで、余談だが、ショウジョウボク(猩々木)とは別に、ショウジョウソウ(猩々草)なんて、植物があるとか。こちらも、「枝の先の小総苞が赤く」なるので、赤いのは花びらではないようである。]

 さて、この季語随筆は、日記である。今日の夕刊に、具島兼三郎氏の死が報じられていた。同氏は、戦後、読売新聞論説委員も務められたことがあるとか。昔は、読売新聞もイデオロギー的に、そんなに偏ってはいなかったのに、どうして、あんなふうに変化してしまったのだろう。
 勉強嫌いの小生、別に同氏に薫陶を受けたわけではない。
 ただ、高校入学当時だったか、鈴木博雄著『高校生運動』(福村出版)や、著者は忘れたが『安保闘争』、渡辺洋三著『政治と法の間』(東大新書)、やはり著者は忘れたが『人間と政治』、『70年への対話』、遠山茂樹著『昭和史』(岩波新書)、ジュリアス・レスター著『奴隷とは』(岩波新書)などと並び、具島兼三郎著の『反安保の論理』(三一新書)を買って読み、しかも、二度まで読んだのだった。
 高校入学当初は、中学時代以来の傾向で、政治や経済、社会への関心を深めていた。水俣病、イタイイタイ病、安保、苛烈な受験戦争(特に富山は当時、ひどかった)などの社会・政治状況が、ぼんやりな小生をも叱咤しているようだった。
 が、高校二年になると、小生の関心は、哲学や文学などに移っていく。政治や経済・社会の根底には人間が居る。その人間の存在が、そして存在そのものが不可思議の対象に感じられていったからである。そこには、失恋なども絡むのだけど。
 とにもかくにも、また、反骨の人、気骨ある人が消えていった。闇夜の灯台の灯りのような存在が、次々に消えていく。寂しい限りだ。

 日記なので、メモ程度に、小生の活動を。この週末の連休に、掌編を「メデューサ」「猫じゃらし!のネロ」「テラコッタの夢」と、一挙に3篇、書き上げた。これで、今月初めに書いた「ディープスペース:ベルメール!」と併せ、今月は4篇となる。年内の掌編百篇という目標に、あと4篇。
(「ディープスペース:ベルメール!」以外は、「無精庵方丈記」にアップ済み。「…ベルメール!」も、近く、アップするつもり)
 なんとなく、峠越えができそうな予感がしてきた。でも、油断せず、頑張り通したい。
 それにしても、このブログ日記、二つのサイトで一日、四百のアクセスがあった。びっくり! 一体、どんな方たちが覗いているのだろう。

 読書のほうも、内田康夫の『透明な遺書』(角川文庫)や松浦寿輝著『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』(新潮社)を読了。後者は感想文を書くかもしれない。
 ということで、よみさしのカサノヴァの回想録を手に今夜は寝入るつもりでいる。
 じゃ、寝。
 
 あれれ、駄句がないじゃんと、嘆いているあなた!のために、一発、捻っておこう:

 秋の日は夢かと惑う泡の花
 星を追い走りつづけて今の我
 背高泡立草句にされずただ萎れゆく
 クリスマスポインセチアと祝うのか
 クリスマス誰かオイラも呼んどくれ
 書きつづけ言の葉の露地に染みん

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