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2004/12/27

茶の湯とキリスト教と

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 いつもながら、表題には迷う。表題を何にするかで迷うとは、つまりは何について書くかで迷っているということでもある。というか、大概は画面に向かってから書くテーマを決めるのである。
 小説を書くのも、川柳や俳句を捻るのも、エッセイなどを書くのも、基本的には即興で行う。
 実のところ、優柔不断さと意志の弱さがこういう体たらくを齎している。たまに、このテーマで書こうと思っても、冒頭の数行を書いてみると、その僅か数行が何か存在感を主張し始め、その文章の雰囲気やちょっとした言葉遣いに影響され、最初の高邁な(?)意図は何処へやら、体裁よく言うと気随気侭なのだが、実情はと言うと、引き摺られ流され、文章の行方は文章に聞いてくれという惨状だったりするのである。
 今日の表題は、ふと、「冬の月」にしようかと思った。土曜日の営業も、夕方過ぎから満月に恵まれて、お客さんに恵まれない分、月影の齎す艶福感に慰められていたりしていたし、日曜の夕方、買い物に出かけた際も、真ん丸なお月様とお散歩するような気分を味わえた。
(但し、「月齢カレンダー」によると、本当の満月は27日の月曜日のようだが。満月の前後は、危険が予測される度合いが高い。まして月末の27日が満月ということになると、今日、月曜日は交通事故も含め、いろいろ注意したほうがいいようである。)

 が、その「冬の月」、12月の季語(冬)でもあり、まことに相応しいのだが、生憎、小生、12月2日のこの季語随筆日記で既に早々と使っている
 思えば、その数日前が満月だったのである。その日記の冒頭には、「昨日の仕事も、暇だったお蔭で、公園の脇に車を止め、冬の月を幾度となく眺めていた。春の月、夏の月、秋の月、それぞれに趣があるのだが、冬の月はまた格別なものがある。」などと書いているが、土曜日なども、同じようなことを感じていた。
 ただ、月末で且つ年末なので感懐も多少は深まっているが、感興の傾向は似たり寄ったりである。なかなかこの年齢になると人間的成長ははかばかしくない…、というか、望みがたいようである。
 冒頭に掲げた幾つかの写真のうちの一つに「冬木立(冬木)と月」とでも題目を付したいような写真がある。仕事の暇さを嘆きつつ、何処かの公園の傍に車を止め、改めて冬の月を愛でていたのだったが。
 肉眼で見る月は、もっと真ん丸だし、もっと大きい。「海」と呼ばれる文様もじっくり見ることができたのに。
 ちなみに、土曜日の仕事が終わり、会社へ帰る途上、環七(環状七号線)を走行していた時、悲惨な売り上げに涙する小生を慰めるかのように、オレンジ色のでっかいお月様が、緩やかに起伏する路上の先すれすれに浮かんでいて、それだけが労働の報酬であるかのようだった。
 せめて、少しは違った趣向をということで、夜の空を駆けて行くモノレールの勇姿などを撮ってみた。言うまでもないが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をイメージしたかったのだが、小生の腕前では、夜空にぶちまけた紛い物の水晶のネックレス…といった風情のようである。
 残りの一枚は、ある方から寄せていただいた、「神戸光の都」が今年のテーマだという、神戸ルミナリエの画像である。
 
 クリスマスイブもクリスマスも大過なく過ぎた。小生は、今年も仕事だったり、自宅でまったりだったりと、例年通りのぼんやりした過ごし方。せめては、クリスマスにちなむエッセイか小説を書こうと思ったが、小説はともかく(「雪だるま」)、エッセイは書けなかった。
 その代わり、一昨年、書いた(メルマガに掲載した)「「茶の湯とキリスト教のミサ」に寄せて」という小文をエッセイ掲載サイト(「無精庵明月記」)にアップしておいた。
 まあ、クリスマスはキリスト教のイベントだということで、キリスト教と日本との関係を扱った一文だということもあり、この際、改めて読み直してみたかったのである。
 この小文は、表題にあるように、茶の湯とキリスト教のミサとの一筋縄では行かない関係を扱っている。深読みといえばそうなのかもしれないが、茶の湯に限らず、当時、キリスト教に相当に影響され、やがて海外でのキリスト教徒らによる(結果的かもしれないが)植民地支配的現実の悲惨を知った秀吉ら施政者側が危険を察知し、利休の切腹に至ったのかもしれないことを示唆している(利休自身がクリスチャンだったとも)。
 やがて茶の湯は換骨奪胎されて、徹底して日本的な侘び寂びの世界へ無害化されていく。
 そんな野暮なことより、今はただお茶をじっくりゆったり味わえばいいのだろうが。

 さて、季語随筆日記を標榜しているので、それらしいことを少々。クリスマスという言葉も、冬の季語だという(勿論、12月の季語だ!)。正岡子規にも「クリスマスの小き会堂のあはれなる」や「八人の子供むつまじクリスマス」という句があるようである。
Chistmasのトリビア」という頁を覗いてみる。
 このサイトによると、クリスマスの風習は日本では戦国時代に始まり、「キリシタンの武士達はクリスマス休戦をした」とか、「日本で最初に発刊されたサンタクロースの名前は「三田九郎」」だとか、「俳句の季語で、外来語のカタカナ季語の第1号は「クリスマス」」であり、「明治29年(1896年)正岡子規が句集『寒山落木』の中で、初めて外来語の季語を用いた。」ことなどが紹介されている。
 しかも、「銀座で、初めてイルミネーションを点灯したのは明治時代の明治屋。」だってことも。
 それにしても、キリストの誕生日というわけでもないクリスマスを祝う…。一体、何を祝うのか。訳が分からないが、まあ、家族の繋がりの再確認、新しいカップルの誕生(土曜日から日曜日の朝、タクシーを流していて、夜陰の隅などに、どれほどの数の若いカップルを見たことが。どのペアも、出来たてのホヤホヤという感じに火照っていて、羨ましい限りだったぞ!)などもあって、目出度いということか。
 さて、今日の日記は、いつも以上に変てこな随筆になってしまった。ま、こんなこともある。気をしっかり持って、さらに精進しよう。
 最後に駄句で厳粛に締めておきたい:

 クリスマス未だ来ないかなあれ終わったよ
 クリスマス苦しみますと読む我か
 クリスマス来年こそはと何十年
 神も人も共にこの世に臨在す
 クリスマス神を肴に寿(ことほ)ぐか
 罰当たりもっと真剣に生きろよな
 クリスマス祈る心を思い出す
 子規の夢叶えることなきクリスマス
 目覚めには枕元なるプレゼント
 プレゼント何もないの?私じゃダメ?

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コメント

こんばんは。
今日東京ミレナリオを見物してきました。
なんともはかない人工の明かり。
午後九時と同時にぱっと消滅。
人出がすごかったからタクシーもものすごい数でした、弥一さんもいたりして。
クリスマスのイルミネーションといい、日本人はライトアップが好きですね。明かりを消して自然の星空の明かりでも眺めたほうがと思いますが。

投稿: oki | 2004/12/27 23:44

題名のキリスト教に反応した・・
日本くらい宗教のない人の多い国もないそうだけど・・

そして・・キリスト教の一大イベントXmasにMerryXmas・・というのも 日本だけなのだそうだ・・

どこの国も宗教はたくさんあるが それぞれちゃんと信心してたりするから・・Xmasにはキリスト教特有のMerryXmasなんていわないのだ・・
なんていうかって言うと・・
happy holiday だそうです・・
(* ̄- ̄)ふ~ん 

投稿: tanu | 2004/12/28 18:05

okiさん、丸の内のミレナリオ、我々タクシー族にも影響が大きい。昨日の夕方、お客様を乗せて日比谷から大手町方向を走ったけど、大渋滞。大変でした。
 人工の灯りより星空の方が素敵なのは納得。でも、恋人同士だと、そんな作り事めいた綺麗な世界がロマンチックなのでしょう(目新しいし)。okiさんも恋人と歩いたら違う感想を持ったりして。あっしも、ね。

tanu さん、MerryXmasじゃなく、happy holidayなどと、ある意味当たり前のことを今年の暮れになって突然、言われるようになったのは、アメリカの(イラク戦争による)国内事情(更にユダヤ教徒への配慮)があるからだとか:
http://blog.livedoor.jp/eastcoast98/archives/10842277.html」を参照のこと。

 

投稿: やいっち | 2004/12/28 22:47

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