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2004/12/13

枯尾花

 今日の季語随筆のタイトルは何にするか…、外は冷たい雨が降っている。冬の雨…。
 あれ、確か、冬の雨って季語じゃなかったっけ。確かめてみたら、そうだった、12月の季語に間違いない。
 では、冬の雨を表題にするかと、この言葉についてネット検索したら、最初のところで、引っ掛かってしまった。あるサイトを覗いたら、そこに「枯尾花」という季語が使われているのを目にしてしまった。目に飛び込んできてしまったのだ。痛い! って、本当に枯尾花が目に飛び込んできたら、困る。
 そのサイトとは、「俳句レロレロ ★  AAKO & AYA's favorite things 」で、「蒼天に雲刷く如し枯尾花」なんていう句が載っていた。
 枯れ尾花を近所や都心などで、簡単には目にすることができない。先週だったか、タクシー稼業という仕事柄、お客様を台場や有明の辺りへお連れしたことがあるが、その時、何処かの空き地で萎れたような、薄くなった頭髪のようにも感じられるススキの原を見たような気がする(曖昧な言い方で申し訳ない。仕事中で、しっかり眺める余裕がなかったのです)。
 それなのに、枯れ尾花が気になるというのは、何も、時折、「俺は河原の枯れススキー♪ おなじお前も枯れススキー♪」と口ずさむことがあるからではない。これでは、あまりに、リアル過ぎる。我が事を髣髴と、させすぎる。

 実は、我が集合住宅の庭の我が侭放題に生い茂っている雑草が、さすがに冬の到来に窶れ、枯れ始めているからである。
 不意に思いついて選んだ題なので、写真の準備もない。なので、ネットで見つけた写真を紹介しておきたい。「青梅マラソン 冬景色」というサイトである。
 写真の多摩川へは、十年以上前までは、転記のいい日など、しばしばバイクで土手などをクルージングしたものだ。気が向いた場所で河原に降りて、日光浴を兼ねながら、読書と気取ったものである。
 小生は、87年には青梅マラソンにも出走し、見事、30キロを完走したこともある。走る前に両膝を故障していて、悲惨な体験となったけれど、それだけに決して忘れることの出来ない貴重な体験となっている。いつか、機会があったら、ドキュメント風にあの記念すべき日のことを纏めてみたいものである。
 さて、「キラキラと光る川面や枯尾花  北舟」など詠みながら、しばし冬の多摩川の光景を眺めたところで、枯尾花の話題に戻ろう。
「枯尾花」は、「冬の雨」同様、冬(12月)の季語である。類似するような季語として、「冬木、冬木立、枯木、枯木立、枯柳、 枯山吹、枯桑、枯萩、枯芙蓉、枯茨、冬枯、霜枯、冬ざれ、枯草、枯蔓、枯蔦、枯葎、枯蘆、枯蓮、 枯芝、枯菊、枯芭蕉」などがある。
「枯尾花」のみをキーワードにネット検索したら、筆頭に、芭蕉の「ともかくもならでや雪の枯尾花」という句(の評釈)が現れた。この句については、評釈を見てもらうとして、驚いたのは、この「枯尾花」という言葉は、芭蕉の造語だと書いてあるサイトに行き当たったことだ。
「俳文学会東京研究例会」の「「枯尾花」 金田 房子」という頁を覗くと、『新編国歌大観』をはじめ、いろいろ文献を調べても、「確かにない。「尾花枯るる」「枯薄」などはあるが、成語としての「枯尾花」は見当たらない。」という。結語として、「芭蕉が初めてこの語を用いたときの新鮮な響きに、今一度耳を傾けたいものである。」とある。
 無教養な小生には、彼女の見解に何のコメントも出てこない。
 さて、芭蕉の「枯尾花」の句が出たからには、芭蕉を追悼する榎本其角の句など、詠んでみたい。「なきがらを笠に隠すや枯尾花」である。悲しいかな、この句のせっかくの評釈に誤字がある。「なきがら」の句なのに、「遺骸」と書くべきを「以外」と書いては、芭蕉や其角に申し訳が立たないのでは。
「枯尾花」というと、野暮天の小生がすぐに思い浮かぶのは、「幽霊の正体見たり枯尾花」という言葉だ。
 ビックリしたのは、ネット検索の網に、「芭蕉の「幽霊の正体見たり枯尾花」という句」というフレーズを発見したこと。
 えっ、これって俳句だったの?! 芭蕉の句だったの?! と、小生、思わず、30の「へー」が出てしまった(30連発の屁が出たのではない)。
 小生、高鳴る胸を宥めつつ、事実の確認。「話芸“きまり文句”辞典」(編:松井高志)の「」の項を覗くと、「【意味】幽霊と見ておびえた物の正体はよくみればススキであった、幽霊は恐怖心が見させるものなのだ、という川柳。(落・幽霊稼ぎ)」と説明されている。
 この「幽霊稼ぎ」という落語は、「家主が、講釈師不動坊火焔の後家と吉公を夫婦にさせるが、気に入らない独身連中が、婚礼の晩に不動坊の幽霊騒ぎを企てる。」という話らしいが、話をネットで見つけることが出来なかった。
 と思いつつも、しつこく探したら、見つかったじゃない。
「幽霊稼ぎ」は、本来は「不動坊火焔 (ふどうぼうかえん) 」と言うらしく、別名、「不動坊」とも。
 但し、覗いてもらえば分かるが、話の粗筋だけで、目当ての「幽霊の正体…」という句は見つからなかった。
 ただ、いずれにしても、芭蕉の句ということはなく、やはり川柳のようである。
 せっかくなので、ネット検索の過程で見つけた、気になる言葉を紹介しておく。それは、「杯中の蛇影」である。あるいは「杯中の蛇影のみ」だ。
 これは、ある友人が賢人のもとを訪ねた際、賜った杯の中に写った弓の影を蛇の影と勘違いし、仕方なくその場では杯を飲み乾したものの、体調を崩してしまった。が、同じ場に誘われた際、同じ影を杯に示し、その影の正体は、実は、弓だと賢人が友人に教え、友人の気鬱を治してやったという話。「疑心暗鬼を生ず」と同類の言葉として、「幽霊の正体…」の句が、このサイトでは紹介されている。
「幽霊の正体…」(や、「疑心暗鬼を生ず」、あるいは「杯中の蛇影のみ」)は、小生に、ロールシャッハテストを連想させる。これは、「スイスの精神科医ロールシャッハが創案した性格テストで、左右対称系のインクの染みの図版10枚を見せて、連想するものを言わせるもの。どのように見えたかをチェックし、総合的に被験者の特徴を診断する。」と言うものだ。心の状態が、常態、まあ平凡なる気分の状態にあるなら、なんと言うことのない画像に映るだけなのだろう。
 が、例えば、お堀端の柳が、あるいは、河原でなくとも、町外れの一角の空き地に枯尾花が、つまり枯れたススキが生えていて、風に揺れていたりすると、それも、夕暮れ時などに曖昧な灯りか月明かりのもとで見たりすると、人が悲しみに、それとも、恨みの念で俯き加減になっているかのように見えることもある、ということなのだろう。
 こんな喩えに引っ張り出される枯尾花(ススキ)も可哀想な気がする。失礼でもあるのか。
 せめて、最後に、ちょっと晴れやかな枯尾花(ススキ)の画像などを見ておこう。「枯尾花!! そう もう冬に入ったのだ!!」と、コメントも勇ましい。「月夜野に玻璃吹くひとや枯尾花」なんて句が載せられている。

 さて、我が駄文は、やはり駄句で、しっかり締めておきたい:

 枯尾花猫じゃらしのごとくすぐったい
 枯尾花明日は我が身と頭に手
 枯尾花降る雪よりも眩しかり
 枯尾花秋の柿より空に映え
 冬の雨霙(みぞれ)まじりに軒濡らす
 冬の雨お前は一人と告げるごと
 
(注):念のために断っておくが、猫じゃらしは、猫を愛玩する小道具の猫じゃらしではなく、「道ばたや畑などでふつうに見かける」猫じゃらしのことである。あるいは、金狗児 (きんえのころ)を思い浮かべてくれてもいい。

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