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2004/12/26

西鶴の感情:世間胸算用

 季語随筆なのに、突拍子もなく西鶴の『世間胸算用』を表題に選んだのは、「大晦日という時間的に限られた状況の中で年越しに追い詰められた民衆の様子をあから様に書き表した物語で当時の民衆の生活が伺」ってもらおうという思惑があってのことではない(「人で見る日本と文化 井原西鶴に学ぶ知恵と才覚 柳原範夫」)。
 実際、今年ほどに年越しの苦労を強いられて年も今までにないのだが。
 実は、昨夜、車中でラジオを聞いていたら、ある番組で本の紹介などをしている。本を買えない小生には耳の毒な番組だが、つい、聞きかじってしまったのである。
 五冊だったか紹介されていて、それぞれに興味が湧いたが、中でも、富岡多恵子氏(以下敬称略)による5年がかりの労作『西鶴の感情』(講談社刊)が、特に気になった。著者の富岡多恵子は、詩人として文学活動を始め、やがて小説家として活躍していたが、近年は、『中勘助の恋』(平凡社)、『釈迢空ノート』(岩波書店)など、評論に力を入れておられる。
『富岡多恵子の好色五人女』(集英社)や『好色一代女』(集英社文庫)もあるようだが、これは富岡多恵子による現代語訳であり、大きくは評論活動の一環ということになるのかもしれない。
 本書での試みの特色は、「通常の作家論では作家の思想や哲学、作品構築の方法論などに論点が偏りがちだが、「専門家でない、同じ書き手である私は、あえて西鶴の感情を考えてみたかった」と語る。」点にあるようだ。
 間違っていないとすれば、夕べの書籍紹介は、『永遠に来ないバス』(思潮社)で第十五回現代詩花椿賞を受賞された詩人の小池昌代(こいけ まさよ)氏によるものだったと記憶する。
 詩人というが、翻訳もされ、「04年、初めての小説「木を取る人」を「群像」4月号に発表。04年6月には初の短篇集『感光生活』(筑摩書房)が刊行された。 」ということで、今や小説家でもあるようだが。
 

 ところで、勿論、西鶴の作品群(『日本永代蔵』や『世間胸算用』『男色大鑑』『武道伝来記』『好色一代男』…)にも興味があるが、西鶴に改めて関心が向いたのは、彼の「矢数俳諧」と呼ばれる凄まじいまでの俳諧の業のゆえである。
 そう、小生、今年の七夕直前の頃から川柳や俳句の実作を試み始めている。今のところ、暖機運転中であり、この季語随筆日記を書いているのも、川柳や俳句(できれば和歌・短歌や詩も含めて)のイロハを勉強したいということもある。
 その中で、万句を生み為した西鶴は、もしかしたら芭蕉や一茶や正岡子規らを大事と思う向きには、鬼門なのかもしれないが、川柳にしろ俳句にしろ、作る上で即興を大事とする小生には、彼は気になる存在なのである。
 句を捻るにも(頭の中で最低限の推敲はするが)、一分以上という時間を掛けるのは、抵抗がある。句の本来的な在り方に紙背すると考えている。
(即興を大事と思うが、あくまで幾つかの大切な要素の一つである。即興だが、自然風物を目にし心に感じて、即座に句にするにも、一定の決まりもあれば、先人の営みもあるので、勉強は怠れない。その勉強も俳句や川柳だけでは物足りない、文学もそうだが、哲学も自然科学も風俗も現実も、幅広く接しておきたい。その蓄積と、同時に虚心坦懐に人事や事物に接する心のありようも大事だと思う。が、このことは、まだ、語るのは早計だろう。後日を期したい。)
 高校生の頃だったか、現代国語の授業で、西鶴の一夜で万を越える句を読んだという話を聞いた時、小生のような文芸に縁のない者にも強い印象を西鶴は残した。
 一体、西鶴はどんな句を詠んでいったのか。ネットで探したが、見つけることが出来なかった。数多くを詠んだ、その営みの凄さには言及されても、彼の俳諧作品そのものは評価されていないということか。

「寛文十三年(1673)三月、当時は井原鶴永と名乗っていた三十二才の西鶴が生玉神社南坊で行ったのは「万句興行」。」その「西 鶴 と 生 玉」というサイトが、西鶴の俳諧の逸話などを紹介してくれている。
『西鶴大矢数』の序における西鶴自身の記述によると、彼が俳諧に取り組み始めたのは十五歳の時であり、二十一歳の頃には点者となっていました。点者とは、人の作品を採点して点料をもらう、いわば俳諧のプロです。」というのだ。
 が、彼の句は、少なくとも芭蕉や一茶などに俳味を感じられる向きには、抵抗がある、破天荒すぎる、そもそも俳諧を貶めているという評価が下されてしまうのだろう。
 例えば、「軽口にまかせてなけよほととぎす」は、八年後の延宝三年(1675)に刊行された『大坂独吟集』の発句らしいのだが、この軽口は、決して「軽み」とは言えない。「軽み」と言うとき、少なくとも人生の重みや深刻さ、濁世を前提にし、その浮き世から蓮の花を摘み取るように句をいかにも軽く抓んでみせたかのように芸術の精華を創出するというものだろう。
 が、西鶴のは、文字通り軽口(と他人には思えたの)だったろう…か。どうも、実際の作品を目にしないと、うっかりしたことは言えない。いずれにしても、俳句を一晩にたくさん作る様を興行で大々的に行うなど、それだけで顰蹙モノなのだろうが。
 また、西鶴は、『生玉万句』の序文で、「「或ヒト問フ、何とて世の風俗しを放れたる俳諧を始まるゝや。答ヘテ曰ク、世こぞって濁れり、我ひとり清り、何としてかその汁を啜り、其糟をなめんや」「朝于夕べに聞うたは耳の底にかびはへて、口に苔を生じ、いつきくも老のくりご と益なし」などと伝統的な俳諧のあり方を痛烈に皮肉っている。
 「そんな西鶴の創作活動を活発化させた大きなきっかけは、貞門に代表される古風な俳諧から脱する軽妙洒脱な新興俳諧「談林」の先駆、西山宗因との出逢い」だったという。「貞門の中ではさほど高い評価を得ることができなかった西鶴は、自らの居場所を反貞門という立場に見出したと」いうことなのかもしれない。
「『西鶴大矢数』が刊行された頃、西鶴は俳諧師の余技として、『好色一代男』を執筆し始めたと言われています。」
 余技! であの散文作品群を生み出した! しかも、僅か11年間の間に。
 でも、西鶴ならば、さもあらん、なのかもしれない。
 いずれにしても、西鶴の俳句は評価が低かったようで、「西鶴自身もそのことに全く無頓着というわけではありませんでした。没後九年目にあたる元禄十五年(1702)に刊行された、轍士撰『花見車』には西鶴の矢数俳諧に対する結論めいた句が収録されています。」として、以下の句が紹介されている:

 射て見たが何の根もない大矢数   西鶴

 昨夜の小池昌代氏の話の中で幾度も強調されていたのは、西鶴が自らを語ることの少なさ(皆無に近い?)という点だった。そもそも(彼に限らないが)、彼が大阪で生まれたという点も、明確な根拠があるわけではないという。あくまで俳句にしろ散文作品にしろ挿絵の形を選んだにしろ、彼は表出した作品そのもので自らの存在を誇示したということなのだろう。
 松岡正剛の「井原西鶴『好色一代男』」から、若干、引用すると、一晩で4000句を独吟してみせた場合、「計算してみると、1分間に2~3句を連発したことになる。信じがたい高速連射砲。ぼくも速吟を仲間遊びで試みたことはあるのだが、いかにわざわざ駄作を連打しようとしても、1分間に1句ずつを休まず100句、200句と続けることすら尋常ではなく、どうしても途切れてしまう。腕立て伏せやスクワットを1回やるたびに1句ずつ俳句を詠むようなもの、それを300回、1000句、2000回、4000句に平然とむかって次々に発するというのは、まったくもって狂気の沙汰なのだ。いまの吉本芸人には5人、10人が束でかかっても無理なことである。」となる。
 が、西鶴は、これでも飽き足らず、一晩で25000句を独吟してみせる!
 一分間に数句のペースで一晩掛けて25000句(!)を溢れ出させる西鶴は、ある意味、俳句も散文もイベント興行でさえも器が小さすぎたのかもしれない。自らのことを語らなかったのではなく、語る暇などなかった、それほど、凄まじい勢いで横溢するエネルギーを持て余していた、ということではないか。
 つまり、必ずしも、自らを語らないストイックさ、という理解(やや現代的で凡人には理解しやすい)では、到底、足りないものが西鶴にはあるということなのではないかと感じる。

 さて、上では、「余技! であの散文作品群を生み出した!」としたが、その余技、もう少し、掘り下げる必要がありそうである。同じく、松岡正剛の同サイトから引用すると、「西鶴が突如として「仮名草子」の述作に着手した。
 思いつきや慰みに書いたのではない。そこには数々の挑戦的な意味がある。それがますます空恐ろしい。西鶴編集工学の極め付けのスタートなのだ。」と、いかにも松岡正剛らしい切り口を示したあと、「西鶴は俳諧では省略してしまった「あいだ」や「余計」を文章にしようとしたのである。物語にしてしまおうと思ったのだ。西鶴が2000句、4000句の矢数俳諧を詠んだあげくに、こうした小説様式を選んだということは、まさに俳諧と俳諧の僅かな間隙をすら埋めたくなったというわけで、これこそが恐ろしい。」
 そう、余技とは、一晩で数千句を生み出してしまう奔騰する創造力の、凡人には到底窺い知れない透き間を、さらに埋め尽くす、自らを人間という器の小ささを嘲笑するような営みだったというわけだろうか。

 西鶴の句がネットで見つからないと書いたが、全くというわけではない。まず、「西鶴の女みな死ぬ夜の秋」は、句に西鶴が詠み込まれているが、西鶴の句ではなく、長谷川かな女の句だった。
「ししししし若子(わこ)の寝覚の時雨かな    西鶴」を見つけたが、別のサイト(「掬泉俳句」)だと、若干、表記が違う(違う句なのか?):

こと問はん阿蘭陀広き都鳥   西鶴
ししししし吾子の寝覚の時雨哉    西鶴
枯野哉つばなのときの女櫛   西鶴
世に住まば聞けと師走の砧哉    西鶴

(ちなみにだが、「こと問はん阿蘭陀広き都鳥」の中の「阿蘭陀」は、オランダ(阿蘭陀)のことだが、西鶴の俳諧は、旧派(正統派?)により、「阿蘭陀流」(変なものの俗称)、「文盲」などと酷評されていた。)
 それにしても、「俳諧の息の根止めん大矢数    西鶴」などと詠うようでは、異端の目で見られるも無理はない。 俳諧の息の根が、、例えば油田の火災が爆発での、爆風による瞬間的な酸素欠乏で鎮火されるように、彼のあまりの創造力の果てに行き着いた散文の横溢という形で止められたということなのかもしれない。
 西鶴の研究家として有名だった睴峻康隆氏には、俳号「桐雨」として、「銀河系まだあるのだよ蝸牛」などがあることをネット検索していて、偶然、知った(「日刊:この一句 バックナンバー  2003年5月20日
 小生は、同氏が西鶴の俳句についてどのような見解を持っておられたのか、興味津々なのだが、もう、今日はこれでやめておく。
 ただ、「西鶴忌」が秋の季語としてあることはメモしておきたい。定着しているのかどうかは分からないが。
 このこと、西鶴は喜ぶだろうか、それとも、ケッとばかりに、相変わらず人間様の世界はバカなことをするものだと、小さく笑うのみだろうか。
 西鶴は1693年に52歳で亡くなっている。昨日の小池昌代氏の話で触れられていたが、西鶴自身、あまりに長く生き過ぎたと述懐しているとか。
 あるサイトを覗くと、「元禄6年8月大坂で死亡。その年の冬、門人の北条団水が西鶴の遺稿『西鶴置土産』を刊行し、その巻頭に西鶴の辞世の句と7句の追善発句を載せている。」として、「辞世 人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに ましてや 浮世の月見過しにけり末二年」が、紹介されていた。追善の発句は当該サイトを覗いて欲しい。
 西鶴には52年は長すぎたのか、それとも百年生きても短すぎるのか。

 最後に、駄句で小生流に阿蘭陀的締めくくりをしてみたい:

 汗駄句で句をひねるなよ無精さん
 西鶴の才覚に我比べんや(比べるな、でもいいけど)
 冬の夜の底を覗けば髑髏かな
 西鶴を才欠くと読む我が身かな
 西鶴を最悪と見る風流人
 西鶴は西方浄土も望まぬか(西鶴は法華経徒だった?)
 散文も句も即興命の弥一かな
 白紙にはいのち短しと綴るのみ

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コメント

弥一さん、こんばんは。
記事へのコメントでは無いのですが、私の撮った写真で弥一さんのイメージで使えそうなのは使って下さい。
イメージに合わせて加工していただいても構いません。
私も弥一さんの句をイメージして撮ることが、最近少なからずありますので。
流石にリクエストにお応えなんていう芸当は出来ませんので撮れた中からと言うことになりますが(^_^)

投稿: td | 2004/12/26 22:46

追伸
使って頂いた場合にはお互い引きずらないように(他からケチが付いたり、後腐れを残さない為にも)、ご連絡頂ければこちらからトラックバックするということでいかがでしょうか。

投稿: td | 2004/12/26 22:53

tdさん、コメントありがとう。
写真を使わせていただく場合は、当然ながら、参照元を明示します。トラックバックは、嬉しい限りですよ。月曜日の営業、多分、繁忙期も過ぎて暇だろうから、使い方をじっくり考えてみたい。エッセイがいいか、小説がいいか、考え迷うのも楽しい!
 加工は、自分の写真だと好き放題にしますが、人様の写真となると、躊躇う。ま、これも、考えてみまーす。

 

投稿: 弥一=無精 | 2004/12/27 02:04

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