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2004/12/12

火鉢

s-DSC01170

 今日の表題は、「寒椿」にするつもりだった。掲げた写真の花は、恐らくは寒椿だろう。だから、寒椿にちなむ雑文を徒然なるままに綴ってみよう。もう、ほとんどそのつもりでいた。
 が、悲しいかな、素養も教養も栄養も足りない小生のこと、今一つ、花の名前が「寒椿」でいいのかどうか、確信が持てない。さすがに山茶花だと称するほど、ひどい野暮天ではないのだが。
 従って、「寒椿」という言葉を織り込んだ句を、ひねれなかった。 
 というか、いざ、写真を見て、捻ろうとした瞬間、いいのか、このままで、もし、寒椿じゃなかったら、大恥だぞ、という囁きが胸の中に洩れ聞えてきたのである。天使の囁きか、それとも、ただの臆する気持ちの為せる業に過ぎないのか、それは分からない。
 よって、掲げた写真に句を付すに際しては、花に留める:

 吐く息を暖め返す夜の花

 なんだか、中途半端な句だし、それ以上に煮え切らない気分でもある。
 念のために、写真を撮った状況を説明しておくと、金曜日の営業も、あと残すところ二時間余りに近付いた頃、お客さんを、とある高級住宅街にお連れした。しとどに飲まれておられて、ぐっすりと寝入られ、幾度か起こしながら、ようやく辿り着いたのだった。
 お客さんを降ろして、さて、邸宅の前を行き過ぎようとしたら、ヘッドライトに赤い花が浮かび上がっている。夜に咲く花も驚いただろうが、小生も、花の咲きっぷりの見事さに感動したりして。さすがに冬の気配が濃厚になってきた東京の市街地の一角に咲く花。
 都内を走らせていると、昼間も目にすることが往々なのだが、夜は一層、ショッキングピンクとでも表したらいいのか、鮮やかなピンクの花がライトに照らし出させて、浮かび上がってくる、そんな場面に幾度となく遭遇する。
 赤い花(紅い花)というと、小生の大好きな作家・ガルシンなどをつい、連想してしまう。学生時代など、神西清訳や中村融訳で読み浸ったものだ。今、彼の人気はどれほどのものなのだろう。戦争に志願して参戦し、戦争という現実の悲惨を見尽くす。彼は十代後半に既に狂気に陥ったりする。やがて、33歳に自殺して果てる。あまりに早熟な天才作家。もっと、注目を浴びていい作家だ。
 余談が過ぎたが、都内で見かけるこの赤とも言い切れない紅色の花の雰囲気は、彼の世界とは、やや違うのかもしれない。いずれにしても、寒椿は、詩人でなくとも、感興の心をそそる花で、映画小説のタイトルに選ばれるのも、あるいはテーマを象徴する花として呈されるのも、無理からぬものがあると思う。

 そこで、というわけではないが、薄ら寒い気分を少しは癒そう、そんな表題を探そうと思った。
 といっても、内側から暖めるには、この花は寒椿ですと、言い切れる自信が湧く以外にない。
 12月の季語からあれこれ物色して見つけたのが、例えば、炭関連の言葉の数々。過日も紹介したが、「炭、消炭、炭団、 炭火、埋火、 炭斗、炭竈、炭焼、炭俵、炭売、焚火、榾、炉、囲炉裏」であり、あるいは、「炬燵、置炬燵、助炭、火鉢、火桶、手焙、行火、懐炉」などである。
 炭関連の言葉を列挙したのは、何も炭で己の無教養ぶりを塗り潰そうと思ったわけではない。
 単純に体を暖めて、気持ちの寒さを和らげようと思っただけである。
 で、選んだというか、先方様から飛び込んできた言葉が、火鉢。
 今、小生の脇には電気ストーブがある。電気代を節約するため、傍に置いてあるだけである。傍にあるだけで暖かくなるような気がする。いよいよ寒さが切羽詰ってきたら、スイッチをオンにすればい。そう思えるだけで、贅沢の極みとまでは言い辛いが、まあ、安心なのである。
 遠い昔(だろうか)、高校時代には、石油ストーブと足元には足温器。田舎の屋根裏部屋で、受験勉強を口実に漫画の本を読み浸っていたが、田舎の木造家屋の伝で、隙間風が凄い。まして、屋根裏部屋である。暖めても、暖気が太り梁の走る天井からドンドン逃げ去っていくのが実感できる。蝋燭など立てると、焔が揺れるのが分かるのである。無論、戸も窓も締め切っているのに、である。
 火鉢。今となっては、風物詩には登場しないのだろう。和室を気取った居間等の、気の利いた小物の家具として置かれたりするのか。田舎の我が家にも、まるで使われはしない火鉢が座敷に鎮座している。
 チンザという語感で連想したが、火鉢というと、ある年代以上の男なら、きっと、局部を温めるのに、使ったことがあるに違いない。
 そう思って、確か、有名な句か短歌があったはずと、ネット検索したら、やはり見つかった。「新樹滴滴(12月) 茂吉の俗語ほか 永田和宏」という頁に、次の短歌が載っていた:

 俗にいふ睾丸(きんたま)火鉢もせずなりてはや三十年になりにけるはや

 斎藤茂吉のこの歌の評釈は、上掲のサイトに見ることができる。ここでは、「睾丸火鉢」というのは、 火鉢の上にまたがって、暖をとることを言う」という点だけ、引用しておく。
 ついでながら、「普通は「金玉火鉢」と書くのではあるまいか(『広辞苑』では、そうなっている)。」も転記しておくか。
 体を芯から暖めるには、やはり芯を中心に炙るのが一番、いいのだろう。医者である斎藤茂吉も、そのことを弁えての、我々への忠告の歌だったのか(無論、冗談である)。
 ところで、女性もこういうことをされるのだろうか。あまり、見たことはないが、恐らくは…、さて。
 話は佳境に入りつつあるが、小生らしく、高雅に風雅に、火鉢の歴史など、覗いてみたい(さすがに、女性が火鉢をまたいでいる光景を覗いてみたいとは、書けないし)。
 例によって、「日本文化いろは事典」の「火鉢」の項を検索でアップさせる。「江戸時代や明治・大正時代は炭が主な燃料でしたから、火鉢は重要な暖房器具でした。」とある。
 我が田舎の家では、昭和の半ば過ぎまで健在だったので、この説明は、ちょっと引っ掛かる。
 が、「現在は石油やガス、電気が普及しているので、暖房器具としてはほとんど使われず、主にインテリアとして和室の引き立て役に用いられています。」というのは、さもあらん、である。
 この頁に書いてあることで、そうだなと、一番、納得したのは、「火鉢を挟んでお茶を飲みながら会話を楽しむというような、二次的な役割も大きかったようです。」という点だった。
 現代では暖房器具も発達しているし、床暖房もある。部屋ごとに暖房されているのは、当たり前なのだろう。
 が、一昔前までは、暖房器具というと、火鉢か囲炉裏であり、炭なども貴重だったから、火鉢などは貴重な暖房の場である以上に、同時に家族の誰もが集まる場所・空間でもあったのだ。
 火鉢の説明で、道具の項に、「一番下から、小砂利、大きめの砂、ワラを燃やした灰を入れ、一番上に炭火を置きます。全体の3分の2は灰が占めます。」とある。小生は、火箸などで灰を突っついたこともあったのだが、灰の下の砂などには気が付かなかった。田舎の火鉢には、灰が残っているのだろうか、灰の下に砂や小砂利などを覗き見ることができるのだろうか。
 ところで、この日記は、季語随筆と銘打っている。自称するのは勝手とはいいながら、内容が伴わないので、ちーとばかり気が引けるが、それはさておき、季語随筆らしく、句など、物色しておきたい。
 火鉢という言葉を織り込んだ句は、さすがに少ないようである。なにしろ、「火鉢 句」をキーワードにネット検索したら、その筆頭に、先に紹介した斎藤茂吉の歌が登場するくらいなのだから、間違いない。
 どちらにしても、風物詩としては、近年は見られがたいのだから、一昔前の世代の方の句に垣間見られるだけなのは、致し方ないのかもしれない。

「立子俳句を読む」第14回という頁に、以下の句が見つかった:

 春火鉢一つあり皆ゆづり合ひ   星野立子

 どうやら、「石田郷子コラム 星野立子の俳句を読む」の中の一句のようなので、星野立子の句のようだ。
 火鉢ではなく、「春火鉢」となっている。
 火鉢だけだと、例えば、中村幸子の下記の句など(「藍生俳句会会報 からふね 第一〇三回」から):
 
 饒舌の客の抱へる火鉢かな   中村幸子

 どうも、「火鉢 句」でネット検索しているのに、ヒットするのは、「春火鉢」絡みの句が多い。
 例えば、「日刊:この一句 バックナンバー」に見出される「春火鉢二輪の薔薇に似たる火を    長谷川かな女」のように。
 あるいは、「HARMONIA Ave 仲間の俳句」に見出された、「待つ人の思ひこがして春火鉢   上保匡代」など。
 火鉢は、冬には当たり前すぎる風物であり、春になり、そろそろ火鉢の存在が疎ましくさえ感じられ始めた頃に、ふと、寒さがぶり返し、春火鉢に絡む感興が湧いてしまう、ということなのか。
 ネット検索していて、おや、という句があった。「芭蕉全句鑑賞 ー田中空音ー」というサイトの以下の句である:

 小野炭や手習ふ人の灰ぜせり    芭蕉

 特に秀句だとも思われないが、鑑賞文の中にもあるように、「小野炭」という言葉が気になったのである。「小野道風の名前にゆかりのある小野炭」という。
 サイトを巡ってみると、「消炭に薪割る音かをのの奥」という句の鑑賞文に、「小野  京都西北の山間部、葛野郡小野郷。小野炭の産地。」とある。
 ネット検索してみると、「永承四年内裏の歌合に初雪を詠める」として、「都にも初雪ふれば小野山のまきの炭がまたきまさるらむ」という歌が見つかった。
 どうやら、小野炭というのは、古来よりのブランド炭だったようだ。
 また、「藤原佐理・藤原行成とともに「三蹟」の一人だった小野道風の出身の地だったのだろうか。
 小野道風の生れたとされる地には、「春日井市道風記念館」があるというが、その近くに炭が採れたというのだろうか。「小野道風神社」は、別の地にあるようだけど。
 小野道風というと、蛙の逸話にも触れておきたいし、他に、炭絡みで「枕草子」にも言及しないと寂しい気がするが、既に長く書きすぎた。
 今回は、これまでにする。気随気侭の季語随筆も、ほどほどにしないと嫌われそう。
 一応、日記らしいことを書いておくと、今日の午前、今月では二つ目の掌編を書いた。タイトルは、「メデューサ」である。年内にあと、六つ。いよいよ、切羽詰ってきた。
 ついでながら、先月半ば頃に書いた、「ディープスペース:デルヴォー!」も、やっとアップしました。
 疲れた。飯にしよっと。

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