虫の音
木曜日、内田康夫著『透明な遺書』(講談社文庫)を読了(以下、原則として敬称を略させてもらう。いずれも高名な方だと思われるので)。過日、書いたが拾ってきた本。テレビのサスペンスシリーズで有名な浅見光彦が活躍する小説。ゴミ箱で見つけ、パラパラ捲ると、舞台の一つに我が富山、特に富山城近辺が登場しているらしいと分かり、持ち帰り、早速、読んだ。
内田康夫の本にしては、できがいい作品と言い難いような気がする。富山が舞台となっていなかったら、読まなかったような。事件が政界のスキャンダルに絡むものだが、悲しいかな内田に限らず、多くの作家は政治も経済の実際にも通暁しているわけもなく、政治の世界の汚れを憂えるのはいいとして、政治や経済、闇の社会の奥に分け入っているという実感を与えてくれないので、読後感がちょっと空しい。
急いで、図書館で借りてきた松浦寿輝の本に手を出す。図書館では、佐伯啓思の『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』(講談社新書)と松浦の『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』(新潮社刊)とを借りてきた。前者は車中でボチボチ読んでいる。後日、扱うかもしれない。
松浦の本は、『花腐し』(講談社)以来で、数年ぶりか。悲しいかな、『花腐し』の印象は薄いのだが、図書館で彼の本を目にして、即座に選んだというのは、読んだ時に受けた感覚が未だにモヤモヤしていて、それを多少なりともスッキリさせたいという思いがあるからなのか。
さて、まだ、読み始めて間もないので、感想文は後日、改めてということにして、この短篇集の中で、気になる俳人を見つけた。「虻」というタイトルの短篇でのこと。俳人の名は、河原枇杷男。
俳句の世界に馴染んでいるものには、知悉している名前なのだろう。小生でさえ、名前だけは聞き及んだことがある。が、彼の作品にまともに向き合ったことはない。
先ずは、当該の箇所に見出される彼の句を列挙させてもらう。
死ぬや虻死のよろこびは仰向きに
或る闇は蟲の形をして哭けり 河原枇杷男(『密』昭和45年刊)
身の中のまつ暗がりの蛍狩り
ほととぎす死へ七曲七峠
野菊まで行くに四五人斃れけり
語り手は、「虻みたいなつまらない虫けらだって、仰向けに死んで、恍惚として、悦びとともに、何かに自分を捧げているいるんじゃないですかね。何かにね、自分自身をね……。」と思う。なのに、子供を作らぬままに齢五十を越えた自分は何に自分を捧げたらいいのか、などと述懐する。
「いや、虻の死骸を見てこの句を思い出したっていうわけじゃありませんよ。その逆で、この句を覚えていたからこそ、その仰向けの虻の死骸をまじまじと見つめてしまったわけだ。」と語り手は言う。
このことは、松浦氏自身の経験の一面を現しているのか。
小生、河原枇杷男のことを調べてみたくなった。
ネットで、彼の名前だけをキーワードに検索。驚いたことに、84件!
この少なさはどういうことなのだろう。何を意味しているのだろう。
ま、気を取り直して、とにかく、彼の句を列挙しよう。
抱けば君のなかに菜の花灯りけり
空蝉の両眼濡れて在りしかな
淵に来てしばらく水の涼むなり
昼顔や死は目をあける風の中
月天心家のなかまで真葛原
昼顔や死は目をあける風の中
野遊びの二人は雨の裔ならむ
夢殿出て又こがらしの身に戻る
実忌や手帖に貘の住所など
(末尾の句は、「《吉岡実の詩の世界》 編集後記(小林一郎 執筆)」という頁で見つけたもので、この頁には、他に、「薄氷のしづけさ表現論として学ぶ」、「濁世の灯恋しと来しやげじげじも」、「冬深む鱶の泳法夢みては」などを見つけた。ホームページは、「吉岡実の詩の世界」である。この詩人・吉岡実のこともいつか、探ってみたい。ところで、「実忌や」とは、一体、誰の忌(いみ)なのか。)
ネット検索を続けると、「増殖する俳句歳時記検索」の「河原枇杷男」に先に紹介した「或る闇は蟲の形をして哭けり」のほか、「死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ」「我も夢か巨勢の春野に腹這へば」「蛇苺われも喩として在る如し」「枇杷男忌や色もて余しゐる桃も」などが、清水哲男氏の評釈を付された形で見つけることができた。
この「或る闇は蟲の形をして哭けり」は、掲げ鑑賞してみたくなる句のようで、「枇杷男の俳句と放哉の『入庵雑記』と」でも、触れられているが、無断転載無用とのことなので、敢えて転記などしないが、梅原猛のコメントや河原の「自作ノート」からの引用が載っていることだけ、メモしておく。
さらに、ネット探索を続けると、「清水正研究室」というサイトの「魂を揺さぶる言葉、黒井千次と松浦寿輝の作品(2004年06月03日)」という頁に松浦寿輝の「虻」の短評が載っている。「死ぬや虻死のよろこびは仰向きに」の俳句を引用しつつ、さすがに学者(文芸評論家?)らしいシャープな評である。
小生には、河原枇杷男の作品や世界を評釈する準備はまるでないので、ここでは深入りはしないが、もっと、注目されていい俳人だとは感じた。
さて、実は、本題にはここから入るつもりだった。虫の音や虫の骸などについて、若干のことを書きたかったのである。が、河原枇杷男の句のインパクトが強く、取りあえずは、彼の句を一緒に鑑賞してもらえたらと思うだけである。
ただ、小生には「秋に鳴く虫、他」というエッセイがあることだけ、宣伝しておきたい。
虫の音も、虫の骸も、我々に告げることは、なかなかに豊かで奥深いのである。
ついでながら、上掲の「秋に鳴く虫、他」には、「早生まれの意味、生きることのなつかしさ」も併載されている。早生れとか、年齢を満年齢で数えることの意味を皆さんは考えたことがあるだろうか。ここにも、浅からざる問題が潜んでいる。それだけは示唆しておきたいのだ。
さて、本日、久しぶりにメルマガを配信した。載せた小文は一つだけ。今回のメルマガでは、小生の書き下ろしの文章を今後は、ブログで公表していくということ、さらに、メルマガでは、公表した文章のURLを示し、場合によっては携帯電話でも読めるような工夫を考えていること、などをお知らせしている。
徐々にその態勢に向けて準備が整いつつある。近いうちに(年内には)態勢が整うものと思う。これまで、文章を書いても、ホームページにアップする時間がなく、せっかく書いても公表した頃には、出来たてではなく、すっかり冷めたピザになっていた、という状態だった。
それが解消される。なんとしても、解消したいのである。
あれれ、駄句が載っていないとガッカリされたかな。では、軽く一発。まずは、既に公表済みのものから(虫関連のもの):
ジリジリと蝉も干上がる夏日かな
赤トンボ孤影揺らして川の面(おも)
夕暮れに草露はじく蛙かな
夏の日に負けず駆けゆく蟻の群
夏の蚊や一寸の魂ここにあり
処暑の雨蝉の骸を叩くかな
去年(こぞ)の田は夢かとばかりに飛ぶトンボ
(以上は、「無精庵投句の細道」から)
蜘蛛とても共に語らん冬の夜
蟻の群れ踏み躙っても癒えぬ傷
蜘蛛の巣を近くの他人と見遣る我
絡み合う蛇のごとくに何処までも
最後になりましたが、10日付の日記「仮の宿」の冒頭に掲げた写真の花の名前、分からないと書いていましたが、教えてくれた方がいます。ありがとうございます。
名前は、「日々草」だとか。七月の季語としても登場する花だけど、どうして今ごろ、可憐に、しかも目一杯に咲き揃っているのだろう。不思議だ。
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