影絵の世界
「影絵の世界」というと、人は何を思い浮かべるだろうか。埴谷雄高の著作に親しんだ人ならば、副題が「ロシア文学と私」と付されている、昭和初期から敗戦の頃までを回顧する『影絵の世界』(平凡社)だろうか。本書には、戦後の文学・政治・思想を扱う姉妹篇として、『影絵の時代』(河出書房新社)がある。
小生は、埴谷雄高の著作は一通りは単行本などで既に読んでいるのだが、全集も揃えてしまった。無論、「影絵の世界」も「時代」の文章も全て収められている。机上には、彼の全集がデンと置かれている。なかなか壮観である。
また、「影絵の世界」というと、藤城清治に尽きると思われる方もいるかもしれない。切り絵と言えば滝平二郎をつい思い浮かべる小生、影絵というと、藤城清治なのである。
ここでは、かの宮澤賢治の名作『銀河鉄道の夜』を描く藤城清治の世界を覗いてみてもいい。
ああ、その前に、「影絵」のことを説明しておくべきか。
小生などが子供の頃は(ほんの数十年前だが)、小学校の休み時間、あるいは冬など炬燵を囲みながら、夜長の徒然に「影絵」で遊ぶことがあった。両手(あるいは片手)で何かの形を模し、そこに光を当て、手の先には障子紙があって、その紙を透かして、あるいは障子に写る(映る)影の、鳥だったり犬だったりと変幻する様を楽しむというもの。
ネットで「影絵の世界」という言葉のみをキーワードに検索してみると、筆頭には、「影絵で語る民話の世界(Granddads)」が現れた。「山口ケーブルビジョンのエンターテイメントサイトにあるこのページでは、Granddads(おじいちゃん達)のグループが各地の「ふるさとの民話」を影絵を用いて紹介致します。 」と、その頁の冒頭に説明されている。
影絵と切り絵を組み合わせた世界を見せてくれる美術館「世界の影絵・きり絵・ガラス・オルゴール美術館」【白樺湖ファミリーランド】は、ネット検索で初めて存在を知った。
「昇仙峡 影絵の森 美術館」では、「光と影の造形詩人 藤城清治展」を常設している。
あるいは、哲学をかじったものなら、それでなくても、プラトンの『国家』のことに触れた記述に接したことのある人なら、「影絵の世界」というと、「プラトンの洞窟」の譬え話を思い浮かべられる方もいるにちがいない。
「イデアの世界」というサイトを覗いてみる。そこには、「影絵の世界-プラトンの洞窟」という項があって、「われわれの今生きて感覚している世界の背後にはよき真実の世界が有り、その世界がさまざまな形をとってわれわれの目前に現象として展開し、われわれはその現象世界しか見えない、という考え方」を前提にして、以下、プラトンの洞窟の喩えを説明してくれている。
「人間は洞窟にとらわれた囚人であり、生まれてこのかたそんな境遇に居つづけているので、何を知ることもできない。あまつさえ、どういうわけか、この洞窟のなかでは一つの向きのほかは見ることができないよう手足と首をきつく縛られている。そこへ、洞窟の奥の壁の上に人形劇のような影絵の世界が美しく映し出されたとしよう。人間はこれを何とみようか。」
洞窟に居て、薄暗い世界の壁に移る影をのみ真実の姿だと思っていた人間。が、或る日、それはまさに影絵の世界に過ぎず、真実の世界は他にあることを予感させられる。
が、その真実の世界、善の世界は、影絵を見慣れた人間たちには眩しすぎる、まともに見ようとすると目が眩んでしまうのである。プラトンの著の中のソクラテスの言を借りると、「彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。」ということになる。
結局、「彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると」思ってしまうわけである。
それでもソクラテス(プラトン)は、容赦せず真実の世界、善の世界へ導こうとする。が、さて、導かれるのは誰なのか。誰でも、ではなく、指導者、究極においては国家の指導者なのである。そして、それは哲人、ということになる。
指導者というものは、それほどに本来は厳しいものなのだ…が。
突然、季語とも思われない影絵という言葉を持ち出したのは、しかも、素直で情操豊かな、ある年代以上の方ならば、影絵というと、走馬灯。この「走馬灯」は、別名、「回(り)灯篭(まわりとうろう)」(←ここでは図柄を見ることができる)とも言う。
「走馬灯」は、「空気は熱せられると軽くなるので上方に移動する。」という対流の原理を応用したものである。「内外二重に作った灯籠であるが、切り抜きの絵が貼ってある内側の枠は中央に軸を立てて回転するようになっている。空気の対流で回転するタイプのものは上部に風車型の羽根が取りつけてある。ローソクなど灯火の熱によって空気が暖まって上昇し、この上昇気流を風車が受けて内軸が回転する。すると内部の絵が動き、それが灯火で外枠に映ってみえるので、右の名がある。」という(「熱と空気の対流をみる」を参照)。
「走馬灯」は夏の季語のようである。あるいは夏の風物詩というべきか。が、秋の季語だとしているサイトも結構、ある。本来は夏の風物詩なのだが、旧暦と今の暦との齟齬から来る混乱なのだろうか。一体、どっちが正しいのか。
「走馬灯」、カタカナで表記すると、「ソーマトー(ソウマトウ)」になるが、映画(動画)の原型(の一つ)は、「ソーマトロープ(thaumatrope) 」だというが、「ソーマトロープ」と「ソーマトー(ソウマトウ)」、発音(語感)的に何処か似ているような。
この「ソーマトロープ」は、「ギリシャ語の [ thauma ](驚き) + [ tropos ](回転)が組み合わさったもの。」だとか。
影絵。影。影は、一体、人間やモノの何を表しているのだろう。何が地上や壁に移るのか。映るのか。写るのか。
影踏みのことに、以前、少し触れてみたことがあるが、影とは不思議なモノだ。モノと仮に呼称してみたけれど、存在なのか、存在の欠如なのか、存在の影に過ぎないと決め付けておくのが一番、楽なのだけど。
影のある人間も怖いが、影のない人間はもっと危うい。妖しい。人は影があることで奥行きが生まれ、表情が生まれ、翳りが生じ、情感が漂い、今だけではなく過去を引き摺っていることを思い出されてしまう。
光の裏側の影を思い、が、その影こそが時に真実だと思い、が、その光の加減や角度次第のはずの影が、実は演出されることもあることを思い知らされ、やがては、世界には表面だけではないことを予感させられていく。
にこやかに、穏やかに振る舞う。けれど、あの人には陰がある。人には見せない陰の世界を隠している。
でも、それは人には見せない秘密であったりするけれど、重荷を自分のみで背負うという覚悟、人への思いやりの結果だったりもする。
影とは、過去であり、ほとんど、その人の生き抜いてきた人生そのものなのかもしれない。
光は眩しい。直視は不可能だったりする。だからこそ、蝋燭の焔は優しく感じられるのだろう。われわれ…、いや、小生のような気弱な人間は眩しい世界など、ひたすらに遠い。せいぜい、蝋燭の焔のゆらめきを、ゆらめきの産む壁や床や人の表情の翳りを楽しんだり、危ぶんだり、悲しんだり、疑念に苦しんだりするだけなのである。
子供の頃、影踏みに、あるいは影絵の世界と戯れ興じることで、きっと、われわれは、自分が生きているこの世界が実に豊かな謎と夢とに満ちていることを、胸一杯に感じていたに違いない。遊び。
なんだか、今回も、余談ばかりに終わってしまった。
せめて、駄句できっちり締めておきたい:
影を踏みあなたのこころ引き止めん
影絵揺れ蝋燭の火の命絶ゆ
人生は回ることなき走馬灯
月影に急かされ駆ける帰り道
庭の雪倒れ臥しての我の影
我が息を蝋燭の火と思うかも
頬の影やがて消えての口付けか
二人して重ねあっての影絵かな
指と指絡まりあって影一つ
窓の影消え行く灯(ひ)に沈み行く
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コメント
こんばんは。
以前写真美術館で藤城の影絵の展示をみました。
ちょっと調べたら、彼が宮沢賢治の影絵を作品にしたのと、聖書の世界を作品にしたのはごく近い時期だったようですね。
童話と聖書両方に惹かれる藤城さんの心を思ったりもします。
投稿: oki | 2004/12/24 23:02
コメント、ありがとう。東京都写真美術館での展覧会を見たのかな。
いずれにしても、影絵の世界のメッセージ性の高さを感じさせますね。小生などが、万言を尽くしても、到底、敵わない。
ま、心静かに楽しめばいいのでしょうね。
投稿: 弥一 | 2004/12/25 02:36
もう一点、プラトンの洞窟の比喩ですが、影ばかり見ていた囚人が太陽を見るためには体を180度向き変えなければいけないわけですね。
身体をぐるっと動かす必要がある。
身体を軽視していたプラトンですが、身体性というのがこういうとこで重要になるー大学の教育学部の講義で習いました。
投稿: oki | 2004/12/25 14:49
身体性をプラトンが軽視していた?! 毒杯を煽ったソクラテスの死を目にしたプラトンが。
屁理屈だけど、「体を180度向き変え」ても、事態は変わらないように思える。
というのは、そこには、必ず身体が付き纏っているのだから。心の闇も、体の不遇も、自分が空の彼方へ飛んで行っても、付き纏って離れない。そう、影の如く。
その身体性(政治や現実の牢固さと言い換えてもいいけど)という、時に牢獄に喩えられる(極楽に喩えてもいいんだけど)桎梏性に気づいた時から哲学は始まったのだと思う。
投稿: 弥一だよ | 2004/12/26 16:57