
いつもながら、表題を決めるところから、この日記は始まる。「12月 季語」というシンプルなキーワードでネット検索して、今日の天気や気分に相応しい季語を探す。
できれば掲げた写真に相応しい季語がいい。木の葉とか梢とか木立とか。ふと、冬木立という言葉が浮かんだ。確か、こういう季語があったような。実際、12月の豊富な季語群の中に見出された。
が、この「冬木立」は「失われた季語を求めて」というサイトによると、木の葉が落ちて寒々とした木々が立ち並んでいる様」、「道沿いに並んでいたり、一所にかたまっている木々の枝の隙間から、空が透けて見えるような木立の群れを言」うようで、ちょっと小生が昨夜撮った写真の画像には合わない。
なので、今日の表題にすることは断念。でも、どうしても使いたい! 少々の無理を承知で、「葉裏にておおい隠すか冬木立」と詠ってみた。
いよいよ冬の気配が濃厚になってきて、木の種類によっては、葉っぱが落ち尽くしたり、そうでなくとも、黄色や赤などに模様替えしている。
なのに、恐らくは、常緑樹でもないのに、疎らに変色した葉っぱが散見されつつも、緑色を保っている。なんだか、この木の葉っぱたちは、懸命に冬の寒さに耐えているようである。緑色の葉っぱで木の幹や枝を覆って、冬木立の様相になるのを少しでも先延ばししているような。
小生は、木立の下に入って、夜空を仰ぎ見るようにして写真を撮っている。葉っぱたちを透かして晴れ上がって、疎らとはいえ星の見える東京の紺碧の空が見ようとさえしている。
それでも、写真を撮ると、カメラのフラッシュを鬱蒼と生い茂るでもない葉っぱたちが跳ね返している。冬の寒さを撥ね付ける、その健気さで。
木の葉たちにしてみれば、冬の夜の底で憩っているはずが、まさか、あんな夜更けにフラッシュを浴びるとは思いも寄らなかったに違いない。小生、無粋な真似をしてしまったのかもしれない。
ところで、冬木立というと、「斧入れて香におどろくや冬木立 蕪村」が、知る人にはすぐに思い浮かぶ句のようで、情景のサイトにも引かれていた。
ちょっと驚いたのは、先に示したキーワードで検索したら、3万を越える検索結果の上位に、「今月の季語・今月の俳句/2000年12月」が登場し、その関連文に、「季節にちなんだ季語、俳句をお楽しみください。 2000年12月. 今月の季語. 【竈猫(かまどねこ)
】. 猫は冬になると縁側の日向とか、ストーブの脇とか、囲炉裏ばたとか、暖かい所を追って歩く」とあること。
この「俳句逍遥」というサイトは、人気がある、さらに、その中でも、次の句が人気があるということなのか。そういえば、何かの折にも、このサイトを(参照はしなかったが)見つけていた。身体障害者とのことだが、デジタル俳画で、「挿し絵、表紙絵、絵はがき等の制作も請け負」っているとか:
安やすと寝息をたてる竈猫 京愛
ということで、本日の季語は、「竈猫(かまどねこ)」に決定。無論、12月の季語である。「猫は冬になると縁側の日向とか、ストーブの脇とか、囲炉裏ばたとか、暖かい所を追って歩く。厨で竈(ヘツツイ)が多用されていた時代には、まだぬくもりのある竈でよく眠っていたものである。ときには竈の中に入り込んで、灰だらけになったり、毛にところどころ焦げあとをつけたりしているのも冬らしいものであった」とは、思い当たる人も少なからずいるのではないか。
尚、この「竈猫(かまどねこ)」という季語は、「【季節】冬(三冬) 【異名】かじけ猫・灰猫・へっつい猫・炬燵猫」のようである。
この中の、「へっつい」とは、竈(かまど)の別称である。
ここまで書いて、ふと、今時の若い人は、竈(かまど)を(言葉として聞いたことはあっても)見たことがないのではと心配になってきた。
なので、竈の画像を探そうと思ってネット検索していたら、「 「竈」の筆順」なるサイトをヒットした。実際、「竈」という漢字を書くのは難しい。一度や二度くらい練習しても、すぐに忘れてしまいそうである。
また、「「竈」が正式,「釜」は通称!」というのも、初めて知った。そうなのかなー。
小生がサラリーマンしていた頃、関連する会社の方に、「炭竈(すみかま)」という名前の人がいて、へえー、こんな名前の方がいるんだ、びっくり、などと驚いたことがあった。まあ、驚く小生の世間が狭いというだけの話だが。
ちなみに、この「炭竈(すみかま)」も、「炭、消炭、炭団、 炭火、埋火、 炭斗、炭焼、炭俵、炭売、焚火、榾、炉、囲炉裏、暖房、温突、ストーヴ、スチーム、炬燵、置炬燵、助炭、火鉢、火桶、手焙、行灯」などと共に、「季題【季語】紹介 【12月の季題(季語)一例】」のようだ。
ついでながら、「すみかま」の織り込まれた歌を掲げておく:
すみかまのたなひくけふり一すちに心ほそきは大原のさと 寂然
回り道ついでに、「寂然(じゃくぜん、俗名:藤原頼業)」とは、「寂超(為経)・寂念(為業)の弟で、いわゆる大原三寂(常磐三寂とも)の一人。」であるかの寂然である。「尋ねきて道わけわぶる人もあらじ幾重もつもれ庭の白雪(新古)」など。
どうも、話が一向に前に進まない。「竈」の画像などを探していたのだが、店の名前に使われるばかりで、肝心のサイトが見つからない。とうとう、その名も「かまど」(狩野敏次著、法政大学出版局)という本に行き当たった。
郷里の家にも、三十年以上前には、竈が土間にあったが、「日本の民家が土間と住居部分から成り立ってきたのも、古く縄文時代の竪穴式住居の名残だといわれている」というのは(上掲書)、小生には新しい知見だった。
また、「かまどは、古代から、男性よりも女性とのつながりが深かったようで、それを民俗儀礼にうかがい知ることができる」という。そういえば、「かまど神の由来二」というサイトがあるくらいなのである。
と、物色の末、やっと竈の画像を見つけた。「つなぎ温泉観光協会」というサイトの中である。尤も、小生がガキの頃にあった竈とは様子が違う。馬用なのか。
余談ついでだが、竈の画像を探していて、「七輪本舗」というサイトを見つけた。近頃、不幸な形で話題になっている七輪だが、竈などと無縁ではないのだとか。
つまり、「○「しちりん」は軽量で小さく、木炭の使用量も少なく、たぶん本体も低価格で経済的な燃焼器具だったと思われ、お屋敷の囲炉裏(いろり)や竈(かまど)に代わる簡便な道具として、主に都心部の長屋住まいの町人家庭を中心に普及したものと考えられ、また、土間の竈の補助的な燃焼器として、魚焼きなどにも使われていた」というのである。
あちこち脱線してきたが、ようやく目当ての画像を発見。「八千代市立郷土博物館」の資料のようだが、「平成12年度第3回企画展解説書(小学生向け) かわってきた人々のくらし~20世紀をふりかえる~」という頁に、小生にも懐かしい竈の勇姿が垣間見られる。やっとだ。嬉しい。
ここには、「100年くらい前の台所には、「かまど」があってご飯をたいたり、湯をわかしたりしていました。」とあるが、農村や、そうでなくとも農家だったりすると、ほんの数十年の前までは普通にあったのじゃなかろうか。それとも、我が近隣だけなのか。
ただ、我が家にしても、台所ではなく、土間にあった。特に年末も押し迫った三十日近くになると、近所の人たちが集まって、もち米を炊き、みんなでお餅をかったものである。
このサイトには、櫓炬燵(やぐらこたつ)の画像もあって、嬉しい、懐かしい。
せっかくなので、餅つきの風景などを眺めておこう:「餅つきのすべて」
この風景ばかりは、餅つき器では味わえない。土間での餅つきの風景も、小生には遥かに遠い。
と、ここでようやく、本題に戻る。そう、「竈猫(かまどねこ)」である。「C'est みーぐる」というサイトの「猫をよんだ句を集めて 其の十三・山口青邨」という頁に、竈猫に関連する句が載っている。
銀猫も竈猫となつて老ゆ
鳴くことのありてやさしや竈猫
竈猫けふ美しきリボン結う
竈燃え猫がゐるなりけふの月
と、竈猫という言葉を織り込んだ句を探そうと、ネット検索を続けていたら、俳句を嗜む方には、あるいは常識なのかもしれないが、書き漏らしたら、拙かったかもしれないというサイトを見つけた。冷や汗だ。
「ベストライフ俳句教室」の「現代俳句鑑賞 山崎ひさを」という頁だ。
ここに、以下の句が「竃猫人の話を聞いてをる」と共に紹介されている:
何もかも知つてをるなり竃猫 富安風生
「句集『十三夜』所収、昭和九年作。」だとか。
「自解には、こうある。」として、富安風生の言葉が載っている:
「田舎家の竃に蹲る猫、竃の灰のぬくもりにすくんでいて驚いてとび出す猫、少年の日の記憶に鮮やかだ。黙って興味をもって人の話をきいており、家庭の内緒ごとなど皆目にとめて知っていながら、知らん顔をしている猫というこの人の悪い、しかし何という可愛いヤツではあることか。」
肝心なのは、この先で、更に、「近頃では、厨の土間も、そこに据えられたかまども、そして燃料としての薪もみな余り見かけなくなって仕舞った。」とあった上で、「生活態様の移り変わりにより、折角この作者が新しく見出したといわれる「竈猫」という季語も一般に余り用いられることがない。」とある。
そうだったのか! である。
恥ずかしながら、季語の誕生秘話(?)に遭遇したのは、初めてのような。
さて、最後である。駄句できっちり締めておきたい:
(以下は、あるサイトの掲示板への書き込みに付したもの)
鍋の底掻き削っての夕餉かな(しみじみ…)
お隣りは今日も鍋を食うひとぞ(羨ましい! あっし、ホントに鍋、食べたりして)
竈猫うずくまりしは我ならん
竈猫せめて今宵は膝の上
最近のコメント