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2004/11/29

一葉忌

 もう、一週間近く過ぎてしまったが、11月23日は、樋口一葉の命日だった。「樋口一葉(本名奈津)は明治5年3月25日(太陽暦5月2日)に生まれ、明治29年に肺結核のため、24年という短い生涯を終え」たのだった。「その短い生涯のうちに、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった現代の我々にも感銘を与える珠玉の作品を遺してい」ることは、知る人も多いのではなかろうか。
 まして、この11月から市中に回り始めている新五千円冊の肖像に樋口一葉が使われているだけに、頓に名前や作品名には親しむ機会が増えている。新聞でも彼女を紹介する記事が載っているし、雑誌に至っては、とにかく紹介だけはされているのではないか。
 が、実際に樋口一葉の作品を手にとって読まれた方となると、案外と(予想通りに?)少ないのかもしれない。
 小生も、名前だけ聞きなれていたが、作品に親しんだのはほんの数年前のことだった。
 まあ、作品はともかく、彼女の足跡を辿っておくのも、いいのではないか。それから追々に彼女の作品に接していくという道筋があってもいいのだし。
杉山武子の文学夢街道」というサイトを参照させていただく。
 最初に、「一葉は四歳から九歳まで、法真寺と隣り合わせの大きな家に住み、桜の木のあるこの境内で遊び、幸福な少女時代を送った。」という法真寺(浄土宗)の写真(写真は平成11年2月撮影)が載っている。
 ついで、「一葉は通算して5年半、小学高等科第4級卒業の11歳で学校をやめさせられた。女子に学問は不要との母親の強い考えと、進学させたい父親が争そったという。一葉は「死ぬばかり悲しかりしかど、学校は止めになりにけり」とのちの日記に記している。」と書いてある。
 明治だと、女性の向学心燃える情熱に水を指すのは、多くは父親だったりするのだが、一葉の場合は、母親が反対していたのだ。が、「向学心の強い一葉に和歌を学ばせようとの父親の計らいで、14歳になった一葉は小石川の中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門した。」という。
 彼女の場合、父親の後押しが大きく功を奏しているわけだ。
 けれど、「一葉は「萩の舎」で上流階級の女性達に混じり、持ち前の負けん気でめきめき和歌の実力をつけたが、長兄泉太郎と父則義が相次いで病没。あとに残ったのは57歳の母、15歳の妹と一葉の女ばかり三人だった。一葉は17歳で女戸主となった。」という。
 そして、「母娘三人は、明治23年9月、本郷菊坂町の借家に移り住んだ。樋口家の没落の始まりだった。一葉はここから小石川の「萩の舎」へ稽古に通った。」のだった。
 小生、この「本郷菊坂町」という地名でピンと来た。多少は文学史に詳しい人(ちょっと大袈裟か)なら、その頃、この町の近くに夏目漱石が居住していたのではなかったかと思いめぐらすに違いない。
 そこで、「本郷菊坂町 一葉 漱石」をキーワードにネット検索してみたら、ビンゴ! に割りと近かった。筆頭に「漱石と一葉夏目漱石の年譜」というサイトが登場する。
 その冒頭に、「夏目漱石の年譜(1867-1916)を見ると「二歳で浅草南部の添年寄塩原昌之助の養子となり
(二二歳で夏目家に復籍)、戸田学校(現精華小学校)に通う。成績飛び抜けて優秀。10歳の折、下谷西町十五番地に移る」とあり若き漱石は台東区で育ったことがわかる。
 この漱石が、同じ台東区に縁のある樋口一葉の見合い相手だったことは以外(意外?)と知られていない。
  台東区史跡散歩(学生社)より抜粋」
 おっと! 漱石が一葉の見合い相手だったって。小生、迂闊というのか、それとも、何処かでその情報を目にしているが、見逃していたのか。
 一葉の恋というと、彼女の師でもあった、半井桃水とのことを語らねばならない。
 が、有名だし、彼女の日記に拠るのがいいだろう。とにかく、一葉は半井桃水にひと目惚れしたようである。同時に、結果的に苦しい、悲しい恋に終わったようだ。
 先に、漱石と一葉が、一時は近くに居住していたのではと、憶測したが、上掲のサイトに拠ると、実際には、文京区西片町に半井桃水が住んだことがあり、その時かどうかはっきりしないが、その町に、漱石も住んでいたことがある。つまり、半井桃水と漱石が同じ町に住んでいた可能性がある(この点は、もっと調べる必要がある)。
 ただ、西片町の半井桃水方に本郷菊坂町の一葉が、足繁く(?)通ったことは、間違いないようだ。
 一葉は、ある人と婚約したことがあるが、同時に破棄を相手方から申し渡され、さらに、今度はその相手から復縁を求められる、という経験もある。
 その後、一葉には、瀬戸内寂聴ならでは探究し得なかった泥水の時をも過ごしていたのか。
 樋口一葉の作品は、ネットで(青空文庫で)読める。
 あるいは、松岡正剛の「千夜千冊」でも、「たけくらべ」を扱っている。
 ところで、何処かに書いてあるのかもしれないが、本名は樋口夏子(奈津、と表記したサイトも見受けられる。調べてみると、「樋口一葉の戸籍名は「樋口奈津」。しかし日記の表紙には「なつ」「夏」「夏子」とも自署し、本名の奈津より「夏子」を用いることが多かったので、樋口夏子が最も一般的な呼び方として通っています」ということのようである)である彼女が、一葉という名前を使ったのは、いつのことなのか、そして一葉という名前の生れた経緯は、どうなのだろう。
一葉の名について」というサイトを覗くと、「樋口一葉(本名夏子)の「一葉」が公的に使用されたのはこの「武蔵野」が最初である。歌塾「萩の舎」で添削を求めて提出される草稿には使われておらず、「一葉」は小説でのみ用いられた署名と考えられている。」とある。
 但し、この「武蔵野」とうのは、冊子の名前で、載った作品名は、「闇桜」。この作品掲載の時、樋口一葉という名前を使った。

 既に紹介した「杉山武子の文学夢街道」というサイトの「樋口 一葉 豆知識」という頁を覗いても、「一葉」というペンネーム誕生の経緯が書いてない。
微照庵(びしょうあん)」というサイトは、日記が多く引用されていて、とても参考になる。が、一葉という名前の誕生秘話は、小生には見つからなかった。
 誰か教えて欲しい。あるいは歌に秀でていた一葉のこと、「万葉集」を意識して、万葉に対し謙虚に一葉と決めたのだろうか。

 さて、表題に選んだ「一葉忌」は冬の季語ともなっている。以下の句を見つけた(「日刊:この一句 バックナンバー」、ほか):

 また一人草履隠され一葉忌    二村典子

 一葉忌ある年酉にあたりけり    万太郎

 一葉の世界の理解というと、上述したように、瀬戸内寂聴に当たっておかないと、話にならないのかもしれない。全てを犠牲にしても、作家として成功しようとした一葉。文豪というか、文業というのか、あれこれ調べてみて、改めて一葉の作品を読み直してみないといけないと、つくづく思ったものである。
 なのに、小生、一葉の命日の23日には、「小春日和」などを、せっせと綴っていた。これでは、一葉の足もとにも及ばないのも、無理はないのかもしれない。
 その日、小生は、水仙の花に事寄せて、「遠き日に眺めた波の花の果て」なる句をひねっている。この句がせめて、供養の一句になればと思うのだが。
 けれど、「夢にまで小春日和の心地して」などと詠っているようでは、無理か。

 一葉忌思いも寄らぬ小春かな
 一葉忌せめてもの札の慰めか
 一葉忌身を削っての言の葉か
 一葉忌身を投げ打ってのにごりえよ
 たけくらべ肩並べしは誰ならん
 十三夜満ち足りずとも月見けり

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コメント

こんにちは。偶然このサイトにたどりつきました。私のホームページを詳しくご紹介いただき、ありがとうございました。最近、「樋口一葉豆知識」に「一葉の名の由来」を追加しました。ご参考になれば嬉しいです。これからもどうぞよろしくお願いします。

投稿: 杉山武子 | 2004/12/08 09:55

 杉山武子さん、コメント、ありがとうございます。
「一葉の名の由来」早速、よまさせて戴きました。
 川に流され行く笹舟の感を覚えました。
 
 

投稿: 弥一 | 2004/12/09 21:08

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