冬日和
「冬日和」は、11月も終わりの麗らかな日和を指すのだろうか。「冬麗ら」という冬の季語もある。こちらを選ぶべきかとも思った。
が、もっと迷ったのは、体感する季節感が何とも中途半端だということだ。東京近郊については、この数日でようやく木の葉も色付きの足を速め、晩秋の気分を感じさせている。
一方、しかし、季語上は既に冬入りしている。使うべき言葉、選ぶべき言葉は、冬の季語、一応、冬と言っても11月に伝統的に使われてきた言葉の中から、ということになる。
ところで、過日、都心である婦人を乗せた。小生はタクシードライバーという仕事に携わっているので、別に婦人を乗せたといっても、艶っぽい話ではないので、念のため。
その方とは、乗っている時間が三十分ほどという、日中にしては長時間だったこともあって、あれこれ話が弾んだ。聞くともなしに伺ったところ、生け花の勉強のため、お師匠さんのところに伺って、その帰りらしい。
お年を召された方なので、ご自身が生け花の先生だと言われても、通りそうな気がする品のいい婦人だった。が、お師匠さんの生け花に心酔されているようだった。
好奇心も旺盛で、テレビで見たクイズ番組でのクイズを小生に出したりする。で、当然ながら答えに窮する小生に、すぐに助け舟を出してくれる。
婦人は、答えの意外性に驚いていて、小生に問題を出して悩ませるというより、むしろ、問題の答えの意想外な発想に感心している様子だった。その問題の幾つかを出してもいいのだけど、ま、それは別の機会に。
頭の固い、昔気質の方なら、答えに怒る人も居るかもしれないが、彼女は、素直に答えの彼女の予想を遥かに越える突拍子のなさに素直に感心されているのだ。小生は、そのことに感心した。
年齢を重ねても、いい意味で好奇心を絶やさず、何にでも関心を抱き、前向きに生きておられる証拠のように、受け取っていた。
話は、弾んで、今、テレビ・マスコミを賑わす生け花の人気者のこととか(言うまでもないが、假屋崎省吾(かりやざき・しょうご)氏のことである。何を喋ったかは、ヒ・ミ・ツ)、これも、小生が話題に出したのだが、どういう脈絡でだったかは忘れたが(多分、生け花→掛け軸→水墨画だったと思う)、水墨画が好きだ、彼の筆の捌きは凄みがある、筆で一本の竹や草をスーと描く、ただそれだけの線一本に見惚れてしまう、云々。
そうね、筆の濃淡だけで、霧の掛かった林とかの奥行きを表現するのよね、凄いわよねー。
宮本武蔵の有名な画はいろいろある。「布袋見闘鶏図」とか、「茄子図」とか。
小生がその時、脳裏に浮かべていた画は、「枯木鳴鵙図」だった(この画について、詳細や背景を知りたい方は、「美の巨人たち 宮本武蔵『枯木鳴鵙図』」を参照願いたい)。
生け花の流派の話(御婦人の習っておられる花の流派も伺った)、生ける花が一本であっても、そこにはセンスが如実に現れる。習字でも同じように。今、思い出したが、生け花→習字→掛け軸→水墨画→宮本武蔵という話の流れだったのである。
この、車中でのお喋りを日記に書こうかなと思いつつも、他にも書きたいことがあって、後回しになっていた。そうそう、降りる間際にご婦人は、携帯電話のことなど話題に出していた。話の脈絡に全然、関係ないな、確かに小生も携帯電話はマナーモードだが、車中に置いているが、と思ったら、どうやらご婦人は、小生の携帯電話の番号を知りたいらしかった。今度は、流しでたまたまじゃなく、長距離の乗車の機会があった時になどに、電話で呼び出して、小生を呼び出してみたい、そんな思いもあったのだろう。
が、無線も使わない小生(無線は聞いているだけ)、携帯電話も営業では使わないので、話題を元に戻してしまった。そしてすぐに目的地に。
さて、こんな話を持ち出したのは、昨日付けの朝日新聞夕刊に「前衛の花に人生かけて」と題して、生け花作家の中川幸夫氏への聞き書きが文化欄の「風韻」というコラムに載っていたからである。
悲しいかな、何事においても無調法なる小生のこと、中川幸夫氏のことも何も知らない。この囲みのインタビュー記事(西田健作氏)で初めて知ったようなものである:
「生け花作家・中川幸夫」など参照。
生け花というと、茶道・華道ということで、家元制度が厳然としてある。小生には、芸術の世界に家元制度があることが不思議でならない。文学にしても詩の世界にしても、絵画や写真、音楽の世界にしても、家元制度などとは無縁である。師と弟子ならありえる。先輩から学ぶべきことは、少なからずある。
が、結局は、流派など関係なく、その人の修練と究極においてはセンスが問われる。どんな立派な家柄の血筋を受け継いでいたって、ダメな者はダメだし、出自に関係なく素晴らしいものは素晴らしいのだ。
が、そんな常識など通用しない世界が、日本(に限らないかもしれないが)にはあるのだ。
別に家元制度を批判しているわけではない。小生には理解が全く、及ばないと思っているだけである。
翻って、中川幸夫氏は、「型を重視する家元制度に反旗を翻し、弟子をとらず、想像を絶する貧しさの中で前衛の花を追及してきた」のだった。
彼の出発点のエピソードが凄い。上掲のサイトでも紹介されているが、30歳の頃、彼も池坊に入っていたが、「本部のある京都・六角堂で花を生けることになった。近くのお店に、いい具合の白菜が並んでいた。」
白菜?!
その白菜を同氏は、丸ごと立てて生けた。すると、助手と先生が怒ってしまった。小生にも彼らが怒るのは分かるような気がする…ような。
同氏にすると、白菜は、「持って帰って食べたくなるぐらい白くてね。」というわけである。別に挑発しようという気すらなかったのだ。
当然のごとく、池坊と縁を切る。あとは、「弟子をとらず、想像を絶する貧しさの中で前衛の花を追及してきた」というわけである。
ここらで、小生の正直な生け花への考えを言うと、そもそも生け花という発想が大嫌いである。花にしろ草にしろ、咲いていてこその植物なのだ。小生の発想では(それとも、狭苦しい了見では)、精一杯、妥協して、盆栽や庭木などであろうか。一応は、土に植わっているからである。
それが、生け花となると、幹か枝葉の何処かでチョキンと切り取ってしまう。そうして、美麗なる花瓶に、あるいは、悲惨にも剣山(けんざん)の針地獄に突き刺す。で、何本かの切り取られた花たちを<生けて>(小生の表現を使えば、生きたままの献体というか、見世物にして)、その並び、配色、バランス、背景の壁や花瓶、剣山を受ける皿(器)などとの総合的な美を演出する。
そんなに花が好きなら、花の美を愛でたいのなら、何も切り取らなくていいじゃないか、せめて庭に、せいぜい植木鉢に植えて鑑賞すればいいじゃないか…、小生は、そう思ってしまうのである。
こんな発想の小生では、そもそも生け花という発想自体が、論外になってしまうのだ。
といって、気の小さい小生のこと、瓢水を気取って、「手にとらでやはり野におけれんげそう」などと句にする技量もない。
きっと、やはり、了見が狭いのだろう(尚、この瓢水の句については、小生も触れたことがある「蓮華草のこと」。なかなか額面通りには受け止められない厄介な句なのである)。
蓮華草野にあってさえ摘み取られ
花の美を床の間に見る人やらん
冬日和床に延び行く影で知る
冬日和長き尾引いて消ゆる人
さて、最後である。この日記では、実は今、読んでいる黒曜石についての本の話題を採り上げるつもりだった。が、生け花に絡む話が長引いてしまって、後日、改めて触れる。
昨夜というか、今日の未明、今月七個目の掌編を書いた。タイトルは、「天国への扉」。察しのいい方は、「無精庵徒然草」の昨日の日記、「ドアを開く」に登場させた「天国への扉」から発想したと思われるかもしれない。
これは、正しくもあり、間違ってもいる。
当初、全く別のタイトルだったのだ。もう、忘れたが、朧な記憶では、「愚鈍なる児戯」だった。その痕跡は、掌編の中に、この言葉が使われていることに残っている。
ある意味、小生のガキの頃の思い出が、ほんの僅か篭められている。先生の質問に答えられなくて、しょっちゅう、教室の後ろに立たされた。お袋も、お宅のお子さんは、なーんにもやる気がないと幾度となく、担任の先生に言われたとか。
書評エッセイのサイト「無精庵万葉記」にも、幾つか、過去に書いて、メルマガにて公表した書評エッセイを載せている。本来は、ホームページの読書・書評の頁に載せたいのだが、時間が取れないので、こういう形を採っている。そのうち、ホームページに収めるつもりだ。また、ここには、折々、新作の書評エッセイを載せる意向であることも、「無精庵方丈記」と同じである。
冒頭に掲げた写真は、以前にも載せたもの。ある方から写真(画像)を加工するソフトを教えてもらった。やっと、昨夜、トライする機会を持てた。画面に載せた句は、見えづらいだろうが、「冬の朝明けていくとも暮れる胸」という即興の句である。
ま、試みということで、掲げておく。
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コメント
いつか書こうと思っていたのですが、写真に日付。
私なんかは殆ど入れることは無いのですが、弥一さんの写真の日付には大きな意味を感じます。
そしてまた、心象を句にして織り込まれるとは。
羨ましい才能です。私なんぞは能書きばかりで・・・
この形、楽しみです(^_^)v by td
投稿: td | 2004/11/30 00:14
tdさん、コメント、ありがとう。
写真に日付、人によってはダサいって思うかもしれないけど、小生は、入れたい。写真の技術などは勉強していない、写真だけで作品たることを目指していない、むしろ、文章との総合を意識している、小生には、いつ、何時ごろに見たのかは、邪魔な情報のようでいて、実は鑑賞するには大切。場所も示したいけど、これは、プライバシーがあるので省いている(申し訳ないけど)。
写真に句を入れるのは、全くの趣味。楽しみでやっているのです。
ところで、素人の質問ですが、写真を見ただけで、朝焼けか夕焼けかを区別する方法とか見分け方はあるのでしょうか。
投稿: 弥一 | 2004/11/30 08:24