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2004/11/24

青写真

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 この日記を書くに際し、例によって表題を何にするかで、迷ってしまう。昨日、勤労感謝の日、小生は、不況の最中、仕事があることを感謝しつつ、今朝まで都内を空車で走らせていた。別に好んで空車で走っていたわけじゃなく、なかなかお客さんにめぐり合えず、業界用語(といっても、俗な表現で、決して正式な用語ではない)で言う<空気を運ぶ>状態がずっと続いていたのである。
 走りつかれると、駅などの長い空車の列の後尾に車を付ける。で、目を閉じたり、歩道を行く人をぼんやり眺めたり、看板の文字に見入ったり、空など眺めあげてみたり、ちらちら本など読んでみたり。
 この「勤労感謝の日」も11月の季語である。なので、この言葉を選ぶかと思ったが、あまりに暇だった昨日のことが思い出されるようで、つらくもあり早々に没。
 ついで、車中で暇の徒然にラジオを聞いていたら、「日記買ふ」が今ごろの季語だという話を漏れ聞いた。聞きかじりなので、聞き間違いかもしれないと、ついさっき、ネットで調べてみたら、確かに冬の季語には間違いない。
 つまり、年末ともなり、今年の日記の空白振りも素知らぬ振りで、今年もダメだったけど、来年こそは新規巻き直しだとばかりに、来年のための日記を買う、そんな季節になっているわけである。
 けれど、さらに調べると、「日記買う」は、どちらかというと、12月の季語として使われるようである。さすがに気が早い。それより、今年の、つまり昨年末に買った日記の空白を使わなかった罪滅ぼしとばかりに少しでも埋める方が、心掛けとして殊勝だ、ということだろうか。
 で、「日記買う」も、アイデアとしてはいいけど、やはり没。日記帳は、さすがにクリスマスのように一ヶ月も前から日記買うぞー、来年の日記記入のイブだぞー、というのには、似合わないようである。
 11月の季語として、そして今日の日記の(といっても、小生、勝手ながら、季語随筆というカテゴリーを立てている。カテゴリーの格に書いている中身が負けているが、制服だって着慣れたら、その人がそれなりに見えてくるの伝で、季語随筆という名目は降ろさない)表題として何がいいか、物色してみた。
「御取越」うーん、取り越し苦労しそうで嫌だ。「達磨忌」手も足も出ない小生を象徴しているようで、つらい。「熊手」これは、やっと山里に冬眠を控えた熊が降りてくるという騒ぎが収まったところだ。今更、寝た子を、というか寝た熊を起こしてどうすると、文句が出そうである。
「大根、大根引、大根洗ふ、大根干す、切干、 浅漬、沢庵漬く、茎漬、酢茎、蒟蒻掘る、蓮根掘る」の系列は、21日の「牛蒡掘る」で代表したことにさせてもらう。
 と、「泥鰌掘る」なんていう季語が11月の季語としてあるらしい。泥鰌を掘る?! 泥鰌って掘るものだったっけ。土壌の間違い? 何か謂れがありそうだ。そのうち調べてみたいものである。 
 実は、その先にもっと好奇心を掻き立てる季語が11月の季語集(季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】)の中に見つかったのである。
 それは、「青写真」! なんで、青写真が11月の季語なのか。他の大概の季語は、勿論、季語として定着するに至るには、それなりの経緯があるのだろうが、なんとなく言葉だけで、そうなのかなと思えなくもない。
 が、青写真となると、小生の乏しい想像力では、どうにもイメージが湧かない。
 小生、青写真が気になってしまった。そうでなかったら、「泥鰌掘る」を無理にでも表題に選んだはずなのである。
 さて、「青写真」が11月の季語だという訳は如何。
 早速、「青写真 季語」をキーワードにネット検索。悲しいかな、小生、歳時記も季語辞典も何も所有していない。川柳や俳句を勉強するといいながら、肝心の事典・辞典の類いを一切、持っていないのだ。これも、この世界に興味を持ち始めたのが今年の七月。一方、本を一冊も(雑誌も勿論)買えない貧困状態になって久しく、今年の四月からは文庫本も全く買っていない。買えないのである。口に入るもの以外は買えない。エンゲル係数がリミットの生活が続いているのだ。今時、エンゲル係数がどうした、なんて、時代錯誤かもしれないが、これが現実だ。どうしてくれる!
 気を取り直して、本題に戻る。
<青写真>というサイトが筆頭に出た。「閑話抄」という小生が使いたくなるような、
奥床しい名前のサイトの一頁のようだ。
 ここには、「青写真」が季語であることの理由を簡潔に書いてある。「一般的に青写真というと設計図面(の複製)や将来設計のことをさ」すが、「歳時記において青写真というと別のものをさ」す。
 その前に丁寧にも、所謂「青写真」のことが説明されている。つまり、「感光度の低い印画紙を用い、上に様々な模様を切り抜いた厚紙を置き、日光に曝して写 し取る、日光写真などというものです。児童雑誌などの付録などによくついておりましたから、皆さんも一度は遊んだ ことがあるのではないでしょうか。」(他のサイトでは、「白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光」という記述も見つかった)。
 なるほど、そういえば、小生が中学生だった頃にか、学習関係の月刊誌の付録か何かに、そういうのが付いてきたような朧な記憶がある。それとも、小学校の時に毎月買っていた漫画雑誌の付録だったろうか。
 説明は続く。「先の設計図などの青写真も同じように感光性の物質を利用して作成します。日光写真も同じような原理であることからこの名がついたと思われます。」という。
 その上で、結論として、「日向に出て自分も日に当たり体を暖めつつすることですので、冬の季語として定義されました。」とされている。なるほど。また、冬の季語であり、「【異名】日光写真」とも記されている。
 ネットで調べたら、以下のような句が出てきた:

  青写真焼けば太陽と帆かけ船    有馬朗人
  青写真少年の夢育ちをり       山田聴雨
  海を見て何時も独りの青写真     三原春風

 なるほど、小生、青写真というと、言葉の使い方として、つい、人生の青写真という表現を思い浮かべてしまうから、何故、冬の季語なのか、それも11月の、という疑問を抱いてしまった訳である。
 小生、密かに描いた構図は、以下のようなものだった。つまり、「日記買う」に、やや通じるのだけど、年末が近付いて、今年を振り返るようになり、ああ、今年も漫然と生きてきてしまった、今年も何もいいことがなかった、万馬券は当たらなかったし、健康診断で引っ掛かるし、宝くじは外れるし、給料は減ったし、ああ、でも、来年は、来年こそは今年よりいい年にする、きっといい年になる、そうだ、そのためには漠然と来年に期待するだけじゃダメだ、それじゃ他力本願の生き方だ、そうじゃなく、自分なりに人生の青写真をせめて来年に向けて描き直してみようじゃないか、新規巻き直しだ! ということで、年末の今、青写真が冬の季語になったのだろう、と。
 きっと、小生のような情ない思いを抱きつつ年末を迎えてしまった俳人がいたのだろう、と。
 小生、そんな青写真を、じゃない、思惑というか、邪推をしてしまったのである。
 が、これでは、年末の季語としての、つまり12月の季語としての理由付けにはなりえても、11月の季語に選ばれてくるには、ちと、難がある。そもそも、小生のようなしみったればかりが俳句をひねるわけもないだろうし。
 
 やはり、11月の小春(小春日和)があるように、晩秋となり、さらに冬となって寒さが身に沁みる頃となったけれど、そんな季節だからこそ、本格的な冬の到来を控えて、束の間の小春日和の暖かさ、日溜りの有り難さ、日向(ひなた)の貴重さが感じられる、そのことを青写真の上での変化に象徴させている。
 つまり、青写真の上での変化は、日の光による変化なのであり、日の光の日溜り、日向が、寄り添い集ったものなのだということ、また、そんな変化を日向ぼっこなどしながら、ゆるゆると楽しむ光景を思い浮かべさせるわけなのである。
 冬の季語としては、青写真は新しい方だろうということは察せられる。芭蕉も一茶も知るはずがない。写真という言葉は、明治になって(幕末?)の造語だろうからだ。生活の変化も、季語の中には現れているわけである。

 ところで、あるサイトに、「日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが…」という記述を見つけた。青写真だけが季語として残り、日光写真は抹消されたということなの、それとも、青写真も最近の歳時記から消されたのか、それが分からない。誰か、教えて欲しい。

 さて、肝心のことが調べ忘れられている。そう、青写真(日光写真)の原理を説明するサイトを検索し忘れているのだ。例えば、こんなサイトが見つかった。「奈良市写真美術館」の「イベント紹介  さまざまなイベント」の頁に、「写真の日の記念イベント」として、「体感!日光写真」の様子が写真付きで紹介されている。
 そこには、「日光写真とは1842年にイギリスのハーシェルという人が、地図などを正確に写しとるために発明された「青写真」(サイアノタイプ)で、一般に日光写真と呼ばれています。線や文字で影になる部分は「白く」なり、何もない光があたる部分は「青く」なります。 日光写真の原理を体全体で体験してもらいます。 」という説明もある。
 また、「実験14-11 『日光写真』」には、原理が詳細に説明されている。興味ある方は覗いてみて欲しい。
人とカメラと写真の歴史」という頁で、日光写真を含めた歴史を辿るのも面白いかも。
 今の我々は、デジカメや携帯電話のカメラ、一眼レフなど、写真には身近というのも今更というほどに親しんでいる。が、青写真(日光写真)の実演を初めて見た頃には、その感激は如何許りのものだったろう。ある種の驚異をも覚えたのだったろうか。
 でも、逆に今だからこそ、日光写真(青写真)なるイベントをやってみるのも、面白いし楽しいような気がするのだが。

 それにしても、ネットで探したかぎりでは、青写真という季語を織り込んだ句を多くは見つけることが出来なかった。ややマニアックな季語ということになるのか。あるいは、ある年代以上の方でないと、実物に接する機会もないということか。
 また、多少は理科系的なものへの興味もないと、実物を見てさえも、何の興趣も覚えない可能性もある。その点、有馬朗人氏の句は、さすがである。科学少年として、好奇心一杯でトライした彼の子供の頃の姿が髣髴とするようである。
 
 小生、今日も性懲りもなく、駄句をひねっている。小生のは俳句ではないのはいいとして、川柳でもない。一体、何なのだろう(以下に出てくる(LA)の正体は、ホームページの掲示板をどうぞ。(LA)さん、変な返句でごめんなさい):


> 紅葉に 負けじと わが店赤字なの   (LA)
     赤字はね白黒テレビなら黒字だよ
     惚れている?違う違うよ照れてるだけさ

> 自転車の サドルにお尻が はみ出して   (LA)
     自転車に乗るつもりがパンクして(重量オーバー?)

> うひゃあ ほんまに今年も太りました(/TДT)/あうぅ  (LA)
      人がいい?人の分まで太ってる
      太ってる?違うのただねふくよかなの

 ここにこっそり、駄句を即興で:

  青写真描ききれない行末か
  青写真我が肉体より濃い影だ
  浮かぶ影我が魂の抜け殻か
  青写真抜かれた型に怯えてる
  青写真我が肉体に浮かんでる
  青写真日を浴びすぎて真っ黒け
  青写真夢の中なら海一杯
  青写真海の彼方の帆掛け舟
  青写真描いた場所は蒲団なり

 掲げた写真は、例によって仕事で朝帰りした今朝の空。場所はいつも朝の光景を撮る地点。タイミングさえよければ、朝焼けの素晴らしい写真になったろう。でも、このいかにも中途半端な朝焼けの感じが自分には妙に好ましかったりする。
 実を言うと、勤労感謝の日の夕方、というには早すぎる感のある3時45分頃、小生はある海辺の道路脇での居眠りから目覚めた。で、ふと、運河のほうの空を見ると、早くも月が。
 まだ周囲は明るかったのだが、四時前とはいえ、既に日差しが弱まっていたのだったろうか、半月よりもややふっくらしたお月さんの姿がいきなり目に飛び込んできたのである。
 だからといって、なんと言うこともないのだが、ただそれだけのことなのだが。
 

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