小春日和
今度は堂々、「小春日和」である。「小春日和?」ではない。
そう、既に日付上は昨日になるが、22日の昼下がりに書いた日記の時は、もしかして今日のような日和のことを小春日和と呼称するのではないかと思いつつも、他にあれこれ書きたいことがあって、小春日和をネット検索などでその詳細に渡って調べる暇がなかったのである。
が、今は、この「小春日和」にターゲットを絞って日記というか随筆というか、随想というのか、単なる駄文とあからさまに認めるべきなのか、この小文を綴れる。
例えば、「季語の四季」というサイトの「冬の季語」の頁を覗くと、「小春・小春日・小春日和」は、「冬の初めの春に似たあたたかい日和をいう」と書いてある。
一方、紛らわしい季語に「冬晴れ」がある。これは、「冬の晴天。「小春」は初冬の晴天をいうが冬晴れは冬期中使う」とのこと。
そもそも、「小春」とは陰暦の10月を指すようで、これは現在の11月に相当するわけである。
東京は(東京に限らないようだが)ここ数日は安定した、まさに小春日和の晴れの日が続くようである。
さて、この小春日和という言葉、小生はもしかしたら、「秋桜(コスモス)」(さだまさし:作詩/作曲)で知ったのじゃなかろうか、と思ったりする。
あるいは、その前から耳にしてはいたかもしれないが、山口百恵の歌で秋桜(コスモス)という言葉と同時に記憶に鮮明に刻まれたように思う。
この歌が流行ったのは、1977年(昭和52年)である。小生が翌年の大学卒業を控えて、一人、陸奥の仙台でアパート暮らしを送っていた頃だった。友人等は、四年で卒業乃至退学していったので、留年した小生は、親しい友もなく、また、パートナーと呼べるような女性を作る才覚もなく、いい意味でも淋しい意味でも一人を満喫(?)していたのだった。
小春日和は、他の国ではいろいろに呼び慣らす。アメリカでは「インディアン・サマー」と言うのは有名かもしれないが、ドイツでは「老婦人の夏」、ロシアでは「女の夏」、沖縄では「小夏日和」と呼ぶことを知る人は少ないかもしれない。
沖縄では、他に、十月夏、あるいはナツガマとも言うらしい。
さて、小春については上でも説明したが、その小春から何を連想するかで、その人の素養や人となりが知れるかもしれない。小生など、村田英雄の大ファンだったので、小春というと、坂田三吉をモデルにした曲である「王将」(西條八十作詞/船村徹作曲)をどうしても連想してしまう。
歌詞に、「愚痴も言わずに 女房の小春 つくる笑顔が いじらしい」なんて部分があるのだ。
そんな小生のことはさておき、教養のある人なら、小春というと、「紙屋治兵衛と遊女小春との心中をとりあげた近松門左衛門の『心中天網島(てんのあみじま)』を思い浮かべるかもしれない。
これは、篠田正浩監督の手により映画化されたり、「流山児★事務所創立20周年記念公演」として舞台化されたりして、ドラマとして馴染みになっているようである。原作を読んだ方は、少ないのかもしれないが。小生も、94年の失業時代にやっと原作を読んだものだった。
あるいは、千春というと歌手の松山千春を連想するかもしれない。小生も好きな歌手である。かの鈴木宗男氏の擁護のために孤軍奮闘されている。フリーター生活にピリオドを打ち、サラリーマンになることを選び、新宿区(中野区)から港区へ引越しした81年の3月、引越し荷物を積んだトラックの中でラジオから松山千春の「恋」という曲を聴いていたことは、(それなりの理由もあり)一生、忘れないと思う。
他にも、女優で新山千春さんとか小松千春さんを思い浮かべる人も多いだろう。
ネット検索で小春日和という言葉を織り込んだ句を探してみたのだが、なかなか見つからない。僅かに、「バイリンガル俳句 Bilingual Haiku」というサイトで、松本たかし氏の「玉の如き小春日和を授かりし」を見つけたくらいだ。
この松本たかし氏も才能のある作詞家(それとも詩人と言うべきか)だと思う。
それでも、たとえば、俳号は魚眠洞だという室生犀星の句、「小春日のをんなのすはる堤かな」を見つけた。
さらに、「初冬の小春日和か雪待月」という句を見つけたが、田中康正氏の句なのだろうか。
と、書いてきて、とんでもない間違い、勘違いをしていたことに気付いた。
というのは、「玉の如き小春日和を授かりし」の松本たかし氏というのは、小生が知る作詞家の松本隆氏とは違うのである。「日本ロックのエバーグリーン“はっぴいえんど”を経て、歌謡曲・J-POPの名作に多数の詞を提供している松本隆」さんではなく、故・松本たかしなのである。
尤も、小生、作詞家であり、それ以外でも活躍されている松本隆の詩の世界が好きだが、ここでは、故・松本たかしのほうに話を向けておく。
あるサイトから句の数々を転記させてもらう:
枯菊と言ひ捨てんには情あり
金魚大鱗夕焼の空の如きあり
芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり
玉の如き小春日和を授かりし
チチポポと鼓打たうよ花月夜
雪だるま星のおしゃべりぺちやくちやと
我庭の良夜の薄湧く如し
十棹とはあらぬ渡しや水の秋
こういう句を詠むと、我が駄句を呈するのが恥ずかしくなる。でも、書くとは恥を掻くことと思う以上は、恥を忍んで今日の成果を示しておく。恥ずかしい思いをしないと成長しないのだね。以下は、あるサイトで水仙で有名な越前岬のことが話題になっていたので、書き込みの際に付した句:
波頭砕けて匂う水仙か
荒海に洗われ咲ける水仙よ
荒海と競うがごとく咲ける花
遠き日に眺めた波の花の果て
さて、今日は、カフカの『アメリカ』(中井正文訳 角川文庫刊)も読了したことだし、佐々木正人氏の『知覚はおわらない』(青土社刊)などを読みながら、寝入るとするかな。
実を言うと、今回の日記は、佐々木正人氏の本の冒頭近くに出てきたある一文をネタに何か、書くつもりだったのだが、予想以上に小春日和に手間取り、当初の思惑を果たすことができなかった。
テーマは、「水は方円の器に従う」なのだけど、これは、いつか、思い出したら書いてみたい。
夢にまで小春日和の心地して
日溜りを小春日和の池と見る
降る雪も小春日和の空で消ゆ
池の面(おも)小春日和を映してる
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