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2004/11/22

横雲の空

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 21日付の日記「冬の蝶」を書いていて、気になっていることがある。それは、掲げた写真に付した説明で、「横雲」という言葉を使ったこと。頭の片隅に引っ掛かっていたのだが、つい、流してしまった。
 この横雲という言葉、誰かの和歌に出てきた言葉のはずと、ネット検索してみたら、案の定だった、藤原定家の歌だったのである:
 
 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空   定家

 他にもきっとこの横雲という言葉を使った人がいたに違いないと更に検索してみたら、やはり、見つかった。西行の歌に出てくるのだ:

 横雲の風にわかるるしののめに山とびこゆる初雁の声   (西行=新古今)

 他にも、藤原家隆(1158-1237)にも、「霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空(新古37)」がある。
 と、書きながらも、まるで定家のほうが「横雲の空」という表現で家隆に先駆けているようだが、実際は違うようである。上掲のサイトには、「横雲の空 「横雲」は水平にたなびく雲。新古今時代、この句を末に置くのが流行ったが、家隆の歌は最初期の例。新古今集に並ぶ定家の「峰にわかるる横雲の空」は、家隆詠に五年遅れる。」と書いてある。
 【主な派生歌】に「ながめやる沖つ島山ほのかにて浪よりはるる横雲の空(飛鳥井雅経)」などがあるとも。さらに、家隆の歌についての【古説】(新古今増抄)も記されていて、横雲の空の理解に資する。
 ネット検索を更に続けていたら、「よこ雲」の織り込まれた、西園寺公経(1171-1244)の以下のが見つかった。「横雲」だけで検索していては、見つからない歌だったろう:

 ほのぼのと花のよこ雲あけそめて桜にしらむみよしのの山 (玉葉194)
 
 実は、上掲の西行の歌「横雲の風にわかるるしののめに山とびこゆる初雁の声」で、歌の中に「横雲」と「しののめ」の二つの雲に絡む言葉が出てくるようなので、改めて「しののめ」という言葉の語義を確かめたかったのである。その際、キーワードに「しののめ  横雲」を使ったら、検索の網に上記の歌が掛かったというわけである。
 さて、「しののめ」だが、やはり、東雲(しののめ)のようだ。同じく西園寺公経の歌「草枕かりねのいほのほのぼのと尾花が末にあくるしののめ(玉葉1159)」にも織り込まれてある。
 しかし、西行のような方が、「横雲」に重ねて「しののめ(東雲)」などと、雲の様子を示す言葉を使うとは信じられない。どうも、小生の理解が足りない。あるいは、昔、勉強したことをすっかり忘れてしまったということなのだろう。
 ネットで調べてみる。「しののめ  東雲 和歌」をキーワードにして。すると、大中臣頼基などという小生には未知の人物のサイトが登場した。「しののめにおきて見つれば桜花まだ夜をこめてちりにけるかな(続後拾遺106)」が掲げられてあって、「しののめは東雲とも書き、東の空がうっすらと白む頃」という。
 そう、つまり、「しののめ(東雲)」とは、雲の様子とか雲の出現する場所を意味する言葉ではなく、時間帯を指し示す表現なのである。教養のある方には、常識なのだろうな。ああ、恥ずかしい。
 ついでなので、「しののめ(東雲)」をもう少し、調べてみる。すると、「国際文化メールマガジン 第11号」というサイトをヒット。その頁を覗くと、「「東雲」にみる恋の昔と今(国際文化学科1年 団上由美)」なる論文が載っている。その説明を転記すると、「「東雲」という言葉の語源は、篠の目から朝の光がもれることから夜明けの意味として使われ始めたことにあるといわれている。しののめという言葉がまずあって、後に「東雲」という漢字があてがわれた、熟字訓である。夜が明けようとして、東の空がほのかに明るくなってくる頃を指している。」という。
 さらに、「この東雲という言葉は、平安や鎌倉の時代の文学や和歌によくみられる歌語である。「明く」にかかる枕詞としても使われているが、恋の歌の中に多く用いられている。」とも。そういえば、古文の時間にそんな説明が在ったような。
 小生、古文も古典も大嫌いだった。そもそも国語の授業も嫌いだった。となると、国語の先生までが嫌いに思えた。そんな懐かしい高校時代が思い出される。
 今ごろになって、勉強のし直しである。やれやれ。

 が、それでも、気になっていたのは、この横雲というのは、一体、どんな雲の状態、空の様子を指し示す言葉なのかという疑問。横雲というくらいだから、横になびく低層雲だということは分かる。しかし、それだけでは、脳裏に映像を描きづらい。
 それこそ、煙突から出る煙が、やや強めの風に吹き流され横の方向へと靡いていく、そんな雲なのか、それとも、遠い空に地平線(あるいは山並み)を覆うように雲の塊が低く水平に見えていて、その上の青い空との対比がクッキリしているように見える空なのか。
 【古説】(新古今増抄)が歌の背景の理解の点で参考になるけれども、具体的な映像はやはり描きづらいのである。
 いずれにしても、「横雲(の空)」が季語ではないことは確かなようだけど。

 ああ、できれば、「横雲(の空)」とは、こんなだ、という映像を示したかった。が、小生の能力ではネットで探せない。
 ガッカリついでに、小生の駄句を(実際には、掲示板で書き散らしたので、それなりの句作の背景や脈絡があるのだが)羅列しておく:

(あるサイトで、トイレのことが話題になっていたので)
 トイレにて売り上げ数え涙する
 公衆便所我が家のより美麗なり
 女子トイレ使われた形跡あるのかな
 金木犀トイレの傍で咲いている
 金木犀臭い消しに使われ哀れ
 冬になりトイレの近い弥一かな
 公園の脇に立っての月見かな
 公園の木立に住む日が近い(予感)
 葉桜も紅葉しきれず冬になる

(我が掲示板にバラの話題を書き込まれたので)
 とりどりのバラの園にて惑う我
 バラとハラ似ているようで似ていない
(バラ→ハラ→自分のお腹、という連想。非常に分かりやすい。「小生は、色白なので、白い腹、です」が、句の前置き)

(以下も、掲示板に書き込まれた句への返しの句の数々)
> 冬の蝶夜の蝶も胡蝶蘭    (mi)
   冬の蝶色香に迷って恋の蝶

> 白猫は小春日和に人探し    (mi)
   白猫は招き猫にと只管打坐

> やれ押すな満員の人胸で受け    (mi)
   押されつつ目当ての人の傍に行く

> 朝焼けの地平の雲を客と見る     (mi)
   朝焼けと夕焼けの空何処違う
   天海を切り裂き分ける赤き日よ

> 後ろ手に縛れる義賊の心意気     (mi)
   後ろ手のそなたを一夜虐めたい
   後ろ手でそなたに一夜責められん
   ネズミさん義賊気取って檻で泣く

 最後である。冒頭に掲げた写真は、昨日の朝、某空港からの帰り道に撮ったもの。茫漠とした空。爽やか、というより、言葉を巡る探索をしても、いつもながら半端に終わる、空漠たる気持ちを象徴しているような。
 その夕方に冷たい雨が降るなど、信じられないような晴れっぷりなのだが。

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