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2004/11/21

冬の蝶

s-DSC01099.jpg

 あるサイトを覗いてみたら、「冬の蝶」という言葉の織り込まれた句を見かけた。「冬の蝶」というのは、冬の季語なのだろうか。
 早速、「冬の蝶 季語」をキーワードにネット検索する。ヒットしたのは僅かに141件(但し、「冬の蝶」だけだと、2千件以上)。「季語」をキーワードに含めると、よくヒットするサイト(「日刊:この一句」)を覗いてみると、「冬の蝶は人気の季語。だが、私はまだ冬の蝶を見たことがない。実際に見る蝶と、季語としての蝶には、本来的に関係がない。季語の世界は現実や体験とは次元の異なる文化的空間だから。」などと書いてある(坪内稔典氏)。
 小生も冬に蝶は、というより、ここ一ヶ月以上は蝶々を見ていない。
 そこで、「雑記蝶」というサイトの「里山の冬」という頁を覗いてみた。
 すると、「冬になると蝶を見かけなくなります。でも、春がくると、たくさんの蝶が見られるわけですから、全くいなくなったわけではありません。命はずっとつながっています。それでは、蝶達はどこにいるのでしょうか? 」などと、冒頭辺りに気を惹くつかみの言葉。
 今や失われつつあるという里山だが、それでも探せば見つかるのだろう(か)。その里山に分け入っていくと、冬だと蛹、あるいは卵の状態の蝶に出会えることもあるのだろう。そういえば、遠い昔、郷里の町の未だ宅地になっていなかった藪の木肌などに蛹を見つけたりしたものだった。
 興味津々というより、どちらかというと何となく不気味な感じを受けたような記憶がある。成虫になれば可憐だったりする蝶々も、幼虫とか蛹の状態だと、愛らしいというより、敬遠したくなるような雰囲気が漂っていた、少なくとも自分はそう、感じていた。
 尤も、鳥などに喰われないよう、人間のみならず他の動物にも目立たないよう、地味な、時に不恰好な、しかし、無用心な姿で冬の時を過ごしているのだろう。
 上掲のサイトによると、「このキタテハを始め、タテハチョウのいくつかは成虫で冬を越します。だから、冬でも暖かい日には飛ぶこともできるのです。」という。但し、成虫の姿だけれど、実際に飛ぶのは、暖かな日に限られるようで、「冬のほとんどの日は、茂みの中や、稀に農家の軒下などで翅をしっかり畳んで、じっとしているのです。」というのである。
 冬の蝶、何か幻想的な感がする。季語としても人気があるのは、小生なりに分かるような気がする。小説のタイトル、乃至は、テーマを象徴する言葉であり、同時にしかも決して完全に幻想なのではなく、実際に自分は見なくとも誰から見た現実である、めったに我が眼では確かめることの出来ない、その意味で歯痒い幻想的な現実。
 小説の書き手なら、何かしら掻き立てられるものを感じないとウソのような気がする。小説でなくとも、短歌や俳句などでは冬には挑戦したくなるテーマであり言葉であり、夢の中のような、しかし厳然たる現実でもあるのだ。

 そもそも、蝶々というのは、その存在自体が幻想的である。そう、めったに見られない冬の蝶に拘らなくとも、春の麗らかな陽気の中、菜の花畑の日溜りの中などを蝶々がフワフワ飛んでいる姿を見かけると、それだけで、胡蝶の夢を思わせてしまう。
 ただ、胡蝶の夢で肝心なのは、「知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。」という下りの先、「此れを之れ物化と謂ふ。」にある。ここから先は、夢見気分では追随できない思弁の世界に分け入る。ちょっとした覚悟が要りそうである。
 
 ここまで書いてきて、この小生が、「冬の蝶」という言葉、イメージに飛びつかないはずがないと、我が「掌編作品の部屋」を覗いてみたら、案の定だった、軽薄短小というか軽佻浮薄というのか、蝶のように舞い、舞い上がった挙げ句、浮き世に吹き流されるがままになるのが得意の小生、文字通り「冬の蝶」なる掌編を年初早々に書いていたのだった。
 例えば、「冬のスズメ」とか、「冬の灯火」なんていう作品も書いているが、「冬の案山子」というのは、創作意欲を掻き立てるテーマだったりする。使われるべき時期を過ぎて、置き去りにされ、忘れ去られ、見捨てられてしまったモノたち。時期外れの頃に、妙に幻想的なほどに印象鮮やかなモノたちの、自己主張の意志など超越し、世間の耳目からも逃れ去り、ただただ自らの内面に沈湎 (ちんめん)するのみであるような、痛いほどに輪郭鮮やかな姿。

 そうはいっても、いざ、自らが創作に手を染めてみると、出来上がる作品は、見るも無慙な姿となってしまう。蛹がどうだとか、なんて言っていた自分が嘲笑われてしまいそうである。
 でも、敢えて表現したいのだ。
 さて、冬の蝶の姿をこのところ、小生も見ていない。それどころか、実際に今週始めだったか、見たものというと、我が部屋でまたまた久しぶりに蜘蛛の姿を見かけた。随分と成長していた。さらに、数日前、消灯してしばらくして、懐かしい、しかし、煩い感じ。そう、蚊! である。
 冬の蚊、なんて、幻想味の欠片もない…、はずなのだが、蚊も、こんな時期外れも思いっきり、突拍子もない時期に現れ、しかも、空中を舞い飛ぶ蚊の奴を、場合によっては手の平で呆気なく掴まえてしまえそうな、動きの鈍い蚊などを見ると、哀れの念を催してきたりして、これは、きっと、俳句の世界では季語に使われているのじゃなかろうか、そんな思いに駆られ、調べてみたら、これまた案の定だったのである。
 そう、「冬の蚊」も、冬の季語だった。ネットでは、「冬の蚊を許してもぐる掛蒲団」という句を「携帯で俳句」というサイトで見つけたが、ホームページが見当たらない:
 http://www47.tok2.com/home/orangejj/haiku.html

 ちなみに、小生は、許さないで、蚊取り線香を使った。一昨年だったかに買った蚊取り線香だが、小生、ケチな性分で、蚊が出現するたびに、数センチからせいぜい十センチほどを千切りとって使う。なので、一つのロールで結構、持つのである。

 冬の蝶追い駆けみれば気だるき蚊

 さて、例によって、駄句の数々を。まず、金曜日の深夜(というか日付では土曜日になっていたが)に作った句の数々:

 秋深し欲も深くて涸れもせず
 秋深し眠りは浅く夢ばかり
 秋の暮れ黄昏時は暗いです
 秋の暮れ紅葉も見ずに冬が来る
 秋の暮れ我が猫殿は何処に行く

 今日の昼過ぎだったかに、「冬の蝶」を織り込んだ句を見つけたサイトに書き込んだ句(着膨れで、駅などで駅員さんが電車に乗るお客さんの背中などを押す姿を見て):

 尻押しの活躍時の冬となる

 せっかくなので、思いつきで、幾つか、ひねってみたい:

 秋深し浅き夢見し朝の露
 遠き空我が夢のごと蝶の舞う
 冬の蚊に風情覚える寝床かな
 哀れなる思いはすれど線香焚く

 掲げた写真は、今朝、そろそろ仕事も終わりに近付いた6時頃、いつもの場所で撮ったもの。写真には、もはや薄くしか写っていないが、屋根の高さに薄っすらと雲の峰が。写す十数分ほど前、それまで暗かった空が一気にという勢いで明るくなってきて、その空の地平線の高さに雲が横に濃く伸び広がっていて、空の透明感との対比が素晴らしかった。
 なので、タクシーを我がスポットに向けたのだったが、運悪く、じゃなく、ありがたいことに、珍しくお客さんが路上に立っておられ、目的地にお届けした。
 で、慌てて我がスポットに戻ったが、かの横雲がすっかり薄まって、狙った朝の空の、これまでとは違う光景を撮り損ねてしまったのである。
 都内では、未だに紅葉というには、中途半端な涸れようで(といって、枯れることを期待しては、葉桜さんらに申し訳ないのだが)、紅葉の写真を撮れなかっただけに、これは、という朝焼けの写真を撮りたかったのである。ちと、残念。

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コメント

興味深く拝読しました。チョウについて広い知識をお持ちですね。
山小屋で暮らしていると寒中にストーブで暖められた部屋に
イトトンボが飛んでいることがあります。越年トンボです。
確かに、今年は蚊が遅くまでいましたね。温暖化の影響でしょうか。

投稿: kounit | 2006/11/24 19:53

kounit さん、来訪、ありがとう。
冬の蝶の画像が素晴らしかったので、つい、コメントさせてもらいました。
蝶のことにも詳しくはないのです。小生は、ブログの記事はいつも調べながら書いています。
冬の蝶、冬の案山子、冬の蚊、さらに、冬のトンボ!
越年トンボとは初耳です。
温暖化の影響もあるのでしょうが、自然界に生きる動物の逞しさも感じたりします。

投稿: やいっち | 2006/11/24 22:58

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