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2004/11/15

秋湿り

 今日のタイトルを、最初は「雨冷え」にしようかと思っていた。シトシト降りつづける底冷えしそうな冷たい雨を思えば、何気なく付しても、違和感のない、そんな気がしたのである。
 実際、「雨が降り寒さを感じる事。 秋の季語」と説明しているサイトもある。
 が、例えば、別のサイト「季語の四季」だと、「雨冷え」は、冷やか・秋冷・朝冷え・夕冷えなどと同列にされており、「秋も深くなって、冷え冷えとしてくる感じ」なのだが、「冬の冷気とはちがい、快い冷気」となっている。困ってしまう。
「秋湿り(あきじめり)」は、これも別のサイトによると、「秋の頃、長く降り続いて湿りがちな事。また、その雨。」とあり、昨夜来のじっとりした長雨に相応しい表現であるような気がする。
 しかし、歳時記も手元にないし、秋の季語にはそれぞれに微妙な使い分けなり、言葉の使われてきた伝統もあって、使い方を間違っているのかもしれない。
 他にも、前にも紹介した、秋霖(しゅうりん)など、秋微雨(あきこさめ)、秋さづい(あきさづい)、秋時雨(あきしぐれ)、秋驟雨(あきしゅうう)…と、数々の秋の雨を表現する言葉があることを思うと、たださえ季節の移り変わりにも、豊穣なる言葉の世界にも鈍感で疎い小生、気が遠くなるようだ。

 夏の暑さの名残の残る頃だと、雨が降ると、近くの雑草の原から湧き上がる咽るような草の香に鬱陶しくなったりしたものだが、さすがに今ごろともなると、匂いも篭ったりしない。虫の音も、とっくに聞かれなくなっている(尤も、未明に季節外れの蚊に悩まされ、仕舞うのを躊躇っていた蚊取り線香を慌てて使う羽目になった)。
 生命のざわめきが、雨に祟られ、一層、深い静寂の海に沈んでいってしまうようである。今も緑を保つ木の葉の多い、東京の場末の街路樹の葉っぱたちも、雨に息を吹き返す、というより、身を縮こまらせているようだ。
 本を読んでいても、ふとした折に雨の音が耳に障る。部屋の中が、冷え切っているから、好きな雨降りなのに、寒々として感じられてしまう。

 そんな背中がゾクゾクするような昨夜半過ぎ、小生は読んでいた本を置き、スタンドの明かりを消し、やおら、パソコンに向かった。
 そう、創作に専心するためである。例によって、何を書く当てもない。なのに空白の頁を画面上に用意する。まっさらな画面。一体、何を書いたらいいだろう。
 こんな時、弱気になると、つい、過去の作品を覗いて見たくなる。が、これだけは、我慢する。無論、人様の作品も尚更、目の毒になるし、どうしても引き摺られてしまうので、閲覧するなど論外である。
 が、どうにも弱きの虫が疼く。そんな時は、連作に限る。先月末より、「ディープスペース」シリーズを書いていて、第二作は「バスキア!」、第三作は「ポロック!」、第四作は「フォートリエ!」と書いてきたので、第五作目を書くのが無難だろうと思う。
 では、一体、次に、どの画家をイメージするか。クレー? ムンク? デュヴュッフェ? ミロ? ヴォルス? あれこれ思い浮かべた挙句、過日、展覧会があったデルヴォーだ! と思い至った。
 その前に、「バスキア!」、「ポロック!」、「フォートリエ!」というタイトルだが、これらの作品は、別に画家を採り上げたわけではない。また、画家の特定の作品をイメージしたわけでもなく、もっと懸け離れた位相に立って書いている。諸作品を見て、様々な印象を受けるが、その個々の印象などは忘れ去って、あくまで小生の脳裏に残滓としてこびり付いている何かを、掻き削るようにして書いてみたのである。
「デルヴォー!」も、同様である。
 というより、デルヴォーというと思い浮かぶ、「機関車 ガス灯、ギリシャ彫刻、母」などの紋切型のキーワードを作品の中に鏤めるようにして書いた、といったほうが近いかもしれない。
 他にも、ハンス・ベルメールや、エゴン・シーレ、清宮質文、長谷川潔…と、数知れない作家の作品が小生を刺激してくれる。
 それにしても、絵画の世界というのは、現実の世界なのだろうか、虚構の世界なのだろうか。風景画を見て感じ入ったりするというのは、傍から見ていて滑稽とまでは言わないまでも、どこか奇妙だったりする。
 写真作品についても、時に同じ感懐を持ったりすることがある。画廊などで写真の数々が展示してある。人々が見て回る。なるほど、小生にも感じるものがある。秘境や酷寒の地、あるいは日常では見逃しがちな人の表情、路傍の花々。
 でも、それだったら、確かに簡単には見れない場所の絵柄なら、それは専門家の手になる写真を見るに敵うはずもないが、道端の草花や木々、路傍や家の片隅の小動物なら、自分の目で見れるし、一滴の水滴の与える完璧感・宇宙漂流感などは、写真や絵や音楽より、我が肉眼で感じるもののほうが遥かに豊かじゃないか、と思ったりする。
 何を好き好んで人様の作品を介して自然や風景を眺める必要がある。
 勿論、芸術家の目の先に垣間見られる世界は、ボンクラな小生とは隔絶した世界があるのだろうとは思う。
 けれど、それでも、小生は、真っ白な画面に向かい、目は画面を見ているはずなのに、脳裏の奥では、なんだかまるで異質な世界、虚構の世界という安易な言葉でしか、取りあえずは指し示すことの出来ない、とてつもなくはるばるとした夢幻なる世界が広がり始めている。
 自分にできることは、その世界の断片を下手な腕でもぎ取るようにこの世に持ち来たらすだけのことなのである。もがないで、もっと優しく繊細に、その形そのままに、とは思うけれど、これは技術と修練と丹精篭めた思いが必要で、なかなかに叶わぬ心の塩梅の問題があって、尽きせぬ夢、見果てぬ夢の世界のことのようだ。

[閑話休題じゃなく、編集後記でもなく、お知らせ]:
 おっと、肝腎なことを書き忘れるところだった。当面、メルマガの配信は続けるものの、従来、虚構作品の類いは、メルマガでの公表を介さず、時間の空いた時に随時、直接、ホームページに掲載していたが、これでは、いつまでたっても、書き下ろしの虚構作品の、書いてすぐのアップという理想の状態が実現しそうにない。
 そこで、このブロッグの別窓を作り、そのサイトに随時、アップしていくことにした。そのあとで、暇な折にホームページに安置する、という段取りなのである。
 但し、ここしばらくは、今までホームページに掲載しきれていない諸作品を随時、掲載していくことになる。溜まっている作品を収納し終わった段階で、我が理想であり、ネットの強みである、書いた虚構作品を、ホットなうちに、もしかしたら御こげのある状態で公表するという状態が叶うものと思う。
 その別窓とは、「無精庵方丈記」である。この日記風、エッセイ風の「無精庵徒然草」共々、宜しくお願い致します。

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