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2004/11/12

金星の光と影…影法師

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 いきなり金星の話題などを持ち出すのは、別に、「木星、月、金星が天体ショー」をこの10日の明け方に演じて見せてくれたからではない。
 小生が、この「金星と木星の間に月」が並ぶ光景を肉眼で目にしていたら、大騒ぎしているところである。
 また、天文学ファンなら、常識なのだろうが、今年は、金星の年だから、というわけでもない。「130年ぶりに見える大天文現象「金星の太陽面通過」をはさんで、2004年前半は夕空で宵の明星,2004年後半は夜明け前の東の空で「明けの明星」として絶好の観測条件とな」るなんてことは、今日、たまたまネット検索していて初めて小生は知ったのである。
 当然のことながら、「2004年11月5日ごろ、明け方の東の空で金星と木星が接近」するという天体ショーも、見逃している。

 実は、過去にメルマガに掲載した文章で、そろそろホムペの「エッセイ祈りの部屋」にアップするのに相応しい文章はないかと探していて、それはそれで見つけたのだが、その過程で、「金星が作る影法師?!」(02/01/20 記)という文章を見つけたのである。
 短いので、全文を引用しておく:

 ある本(佐々木正人著『知覚はおわらない』青土社刊)を読んでいたら、ちょっと驚く記述に出会った。
 その本の中のインタヴューの中で、ある人が、「金星の光が強くて、月のない夜には外に出るだけで金星の光が影法師をつくった」と述べているではないか。
 本当だろうか。小生には、本当だとも、そんなことはありえないとも言えない。
 事実なのだとしたら、機会にさえ恵まれたら、自分で確かめることができる…。
 ところで、愚かなことだけど、その記述を読んだ瞬間、小生は、金星が作る影法師を赤く脳裏に描いてしまった。
 勿論、そんなことはありえない。金星が赤いったって、赤くなりえるとしたら、人の周囲が赤っぽくなるのであって、影法師は、影なのだから、黒っぽいに決まっているのだ。
 でも、一瞬とはいえ、そんな赤い影を思い描いてしまったことは否定できない。
 それでネットで「金星 影法師」で検索を掛けてみた。過去にそんなログがあるかもしれないかと期待したのだ。
 結果は、否定的なものだった。
 けれど、小生が読んでいるのと全く同じ対談が、ネットにアップされているのを発見した。せっかくなので、その対談を読めるサイトを紹介しておこう:
ジェームズ・タレル・インタヴュー: 光に触れる意識」(インタヴュー:佐々木正人
  (転記終わり)

 何故、発見なのかというと、「04/10/23」に配信したメルマガで、「光害(ひかりがい)のこと」というコラム風の一文を載せている。その内容の一部は、都会でも余分なライトを加減すれば天の川を見ることができる、さらに、その天の川の光で自分の影が地上に生じるという感激を味わえる! というものだったが、その内容に深く関連するように思えたからだ。
 自分はそんな文章を既に書いている。それも、我が地球の直近の惑星である金星の跳ね返す光で地上に自分の影法師を作れるかも、と。
 そうはいっても、本当に、金星が作る影法師なんてものがありえるのか、未だに半信半疑なのも、事実。
 それだけに、「ジェームズ・タレル・インタヴュー: 光に触れる意識」は、貴重なインタビューなのだと思う。二年前にネット検索で見出したインタビューが未だに読めるのは嬉しいものだ。
 このインタビューの中で、佐々木氏の「光は接触の対象ですか?」という問いに、タレルははっきり「接触です」と答えている。光に触れるという感覚。これは、神秘的な感覚なのだろうか。光を机や紙などの、あるいは水や風などのような物質の流れ・動きと同じように感じ取ることが可能なのだろうか。
 ただ、小生は、皮膚で感じることは、出来ないが(恐らくは、あたら、目が見えるばかりに視覚などに頼ることが当たり前になっていて、皮膚感覚が鈍っているのだろう)、少なくとも夜の空に光の在り難きことを感じることくらいはできる。
 月光のこと、星星のことなど、これまでも散々、書いてきたとおりである。
 
 金星というのは、古来より、何か胸騒ぎを呼び起こす星だったように思われる。そうはいっても、月が出ていると、金星の影は、ここで言う影とは存在感という意味だが、大概は薄まってしまう。弱々しげになりがちである。
 ただ、いずれにしても、金星は水星と同じく、地球から見ると太陽の近くを回っているので(太陽から大きく離れない為)、日の出前や日の入り後のみしか観測できない。宵の明星、明けの明星と呼ばれる由縁で、太陽の光の弱い頃合いに、月光の影響もそれほどない中、地平線(山並みの上)近くに見ることが多いわけである。
 金星探査は、これまで幾度となく行われてきて、金星表面の映像も見ることができる。表面が、二酸化炭素におおわれた「灼熱地獄」だったことも分かってきている。生命体の存在の可能性も薄まってしまった。
 その意味で昔ほどの神秘感を持って金星を眺めることは叶わなくなっている。
 それでも、「ギリシャ神話のアフロディテ、ローマ神話のビーナスと同一視され、錬金術では銅のシンボル、占星術では栄養・富・幸福をもたらす穏健な惑星である。 中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚あるいは太白とよんで区別した。軍事に関する占いに用いられた。」ことくらいは知っていてもいいと思う。
 この中で、「太白」という言葉が出てくる。
「金星 太白」をキーワードにして、ネット検索してみると、「*第三章*金星と神話&宗教」という頁をヒットした。どうやら、「西洋占星術サイト ~月的空間~」という占星術のサイトの中の頁のようだ。
 そこで、「中国では、金星とも太白ともいい、初めは宵ノ明星と暁ノ明星とを別々の星と考えて、長庚(ちょうこう)、啓明(けいめい)と呼びわけていました。唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられたようです。」という一文を発見。
 唐の詩人、「李 太白」! というと、李白のこと?! 急いで「李太白」で検索。すると、筆頭に、『李太白伝』(岡野俊明 作品社)が現れた。
 その本の紹介に、「世の常道を歩むことを拒んだ李白が生涯追い求めたものとは――。唐代の群像の中に描き出した本格的詩人伝。」とした上で、「杜甫とともに〈李杜〉と並び称される、唐代随一の詩人李白。しかし、杜甫とちがって、官職につくことのなかった李白に関する具体的な資料は乏しく、その生涯にいくつもの空白がある。まず、李白はどこで生まれたのか。これもいまに至るも謎のままである。」などと説明されている。
 恥ずかしながら、小生、李白が李太白だったことも知らなかった(何処かで読んだことがあるはずだが、頭を素通りしていた。太白は、字(あざな)なのである)。
 それにしても、「唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられた」というのは、さすがは歴史に名を残す詩人ならではの逸話である。
 せっかくなので、一つだけ李白の詩を掲げておく。「秋浦の歌」である。

 白髪三千丈
 縁愁似箇長
 不知明鏡裏
 何処得秋霜

 この詩の、とても分かりやすい解釈が読めるサイトがある。
 念のため、読み下し文だけ、示しておくと、「白髪三千丈、愁いによりて箇の如く長し、知らず、明鏡のうち、いずれの処にか秋霜を得たる」となる。
 余談ついでだが、小生が学生時代を過ごした仙台には、太白区がある。これは、「太白星(金星)が落ちてできあがったという伝説をもつ太白山に由来してい」るのだとか。太白山について紹介したサイトは数多くある。標高はそれほど高くない太白山(標高:321.7)が人気があるのは、美しい円錐形をしているからだろうか。

 なんだか、例によって、何を書きたかったのか、まるで見えない雑文になってしまった。ま、日記のつもりで書いているのだし、覚書になればそれでいいのだ、自分としては。
 ただ、このままでは申し訳ないので、ここまでに出てきた言葉・影法師にちなむ歌や句を挙げておきたい:
 
 埋火(うずみび)や壁には客の影法師      芭蕉

 梅咲やしやうじに猫の影法師    一茶

 霧黄なる市に動くや影法師    漱石(ロンドンでの句)

(注)芭蕉の句は、「(続猿蓑)」からのものである。

 せっかくなので、小生も恥を忍んで(恥知らずにも?)句を呈しておこう。

 影法師寄り添いすぎて薄い影
 影法師草葉の陰に揺れ惑う
 影法師風の音にも怯えるか
 軒端にて猫の姿の影法師
 影法師光と戯れ消えていく
 面影を脳裏に浮かべ追う我か

 さて、最後である。冒頭に掲げた写真は、水曜日の営業も終わりに近付いた木曜日の未明の空の模様である。水曜日までの安定した天気も、ようやく下り坂に差し掛かり、午後には曇天、夕方には雨が予想されていた。
 妖しい空模様。なんとなく心模様でもあるような。

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コメント

金星
輝ける星 金星 は古今東西に色々な話があります。
アフロディーテ(ビーナス)は カタカナ日本語として使ってますね。

釈迦は明けの明星が輝くのを見て、真理を見つけたといいます

私はこの釈迦の話を、譬えというより、一応真実として
生命科学、脳科学的に解明したいと、思ってます。
荒唐無稽かも知れませんが。

 夢見る 健ちゃん。

投稿: 健ちゃん | 2004/11/12 16:16

 健ちゃんさん、コメント、ありがとう。
 小生が引用したサイトにも、「仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て、真理を見つけたといいます」と書かれていましたね。
 同時に、「キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」、ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer)は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使、そして後に地獄の闇に堕とされる、堕天使の総帥「サタン」の別名として与えられました。」とも。
 小生は、仕事柄、未明から夜が明けるまでの空の変化を仕事のたびに見詰めます。東の低めの空の金星は、雲に遮られない限り、しばしば。
 小生のような鈍感な者にも何がしかを思わせる存在です。
 釈迦の話は、真実なのだとしても、科学的には解明できないものと理解しています。大脳生理学も相当に進んでいるようですが、まだ人間の心を理解するには、かなり無理がある。
 心は、科学の常に一歩(以上)先にあるようです。何故なら、人間(や動物)は、脳味噌だけの存在ではなく、身体全体なのですし。
 釈迦の悟りを科学などで裏付ける必要は、可能か不可能か以前に、小生は全く感じないのです。

投稿: 弥一 | 2004/11/13 19:44

>釈迦の悟りを科学などで裏付ける必要は、可能か不可能か以前に、>小生は全く感じないのです。

いえ、ご尤もです。

>人間(や動物)は、脳味噌だけの存在ではなく、身体全体なのですし。
其の通りです。

 弥一さんみたいな方ばかりだと、話は早いのですが。
科学万能な世の中、或いは迷信が大手を振っていますので、
ある程度科学的説明があるほうが、説得力を持つし。

個人的には、釈迦の悟りとは ほど遠いですが、
自分が見た光は何であったのか??
 光をみたならそれでいい、ともいえるでしょうが。
 自分自身では、我が力以上のものを見たとは思いますが。

>>脳味噌だけの存在ではなく
> 身体全体
 であるのは勿論ですが、しいて言えば、腹 丹田ですか、インド風 チャクラ 脳味噌上丹田に 対する下丹田、臍下丹田が大事かと。
 修行不足で、いまだ捕らえきれてませんが。
 科学の常に一歩(以上)先であって非科学や反科学では
ないと思います、漢方薬も一昔、二昔前は、気休めか
迷信の親戚扱いでしたが、現在は、立派に健康保険の使用
ができる程認知されています。
 
”生命科学、脳科学的に解明したいと、思ってます”
 は 健ちゃんの趣味ということで。
 


投稿: 健ちゃん | 2004/11/14 15:37

 健ちゃんさん、またまたコメント、ありがとう。
 小生、健ちゃんさんの試みをどうこう言うつもりはないのです。
 こころを全体としてみる、脳は勿論だけど、身心、四肢も大事。同時にお腹が大事。故・三木成夫の著作が好きなのも、そのことを裏付けてくれるから。
 科学は、こころの問題については、外延ではなく、内包の位置にあるのだと思っています。
 でも、小生、書評の部屋を見てもらえば分かるように、数学も物理学の脳科学も宇宙論関連の本も大好きで読んできたし、読んでいきますよ。面白いからね。


 

投稿: 弥一 | 2004/11/15 00:43

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