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2004/11/01

…と秋の空

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 掲げてある写真の花は、ホトトギスだとか。あるサイトの掲示板にこの写真を投稿したら、ホトトギスですね、と即答された。人様のサイトに写真を提供しておきながら、道端で見つけた花です、なんて、無責任な書き方をしていた自分が恥ずかしい。
 過日、別のサイトの掲示板で、ホトトギスは鳥だけじゃなく、花の名前でもある、なんて知る機会があったばかりだったのに。
 なので、昨夜はせっせと、「ホトトギスのこと」という雑文を綴ってみた。例によって、ホトトギスのことも何も知らない小生、書きながら調べ、調べながら書いていくという、行き当たりバッタリの書き方だが。
 一週間ぶりに配信したメルマガにこの一文と、27日の日記に綴った「音という奇跡」を併せて、配信した。
 日記で書いたことをメルマガで配信するのも、変な話のようだが、そもそも、ホームページを覗く手段を持っていないか、いずれにしても出先だったりしてメールを折々覗くだけの方もいるわけで、ブログという形式の公表形式が面白そうと思いつつも、当面は若干、間遠になっていくかもしれないけれど、メルマガの配信も怠りなく頑張りたい。
 
 車中ではラジオが頼りである。情報源として、また、音楽など楽しみの糧として。実際、昨日にしても、武装勢力に拉致された香田証生さん(24)さんについての情報が、刻々とラジオを通じて耳に入ってくる。一度は、生存の可能性もあったのに、悲痛な結果になってしまった。このことは、昨日の日記に書いたので(その時点では、生死は未だ不明だったが)、ここでは省略する。
 印象的だったのは、情報が錯綜しているという以上に、政府の情報管理や整理の拙劣さだった。
 これじゃ、間違った情報で戦争に突入するのも、無理はなかったのかと、改めて思い知らされた次第。

 北陸が全国でも雷の発生件数の多い地域だということも、昨夜のラジオで知った。得られた情報をネットで得た情報と照らし合わせつつ、若干のことを、やはり昨日付けの日記に書いた。
 10月31日がハロウィンの日だということも、同日のラジオ番組で知らされた。世相が厳しいこともあるし、キリスト教の国じゃないこともあってか、あまり日本では話題にならない。
 尤も、クリスマスも、バレンタインデーも、キリスト教の文化や伝統・慣習に関わるものであり、それを商魂たくましい方たちが商売に結び付けたわけで、ハロウィンだって、かぼちゃなど野菜作りに携わる産業界の方が、うまく商売に結び付ける可能性がないわけじゃない。
 尚、我がサイトの画像掲示板に、何処かのホテルで見た、ハロウィンにちなんだ展示物の写真を提供していただいた(446)。ちょっと、覗いてみてもいいかも。

 土曜日から日曜日に懸けてのラジオで、ちょっと小耳に挟んだ…のだが、一体、どういうわけで耳に残ったのかが分からないこともある。それは、例えば、秋海棠 (しゅうかいどう)という名の花のこと。
 そろそろ秋海棠の咲く時季も終わりだというのに、どうしてこの花が話題に上ったのだろう。
 いずれにしても、名前が印象的だということある。
 中国名が「秋海棠」だというが、花の名前というのは、いつ、一体誰が、何に基づいて名付けたのだろうか。思うに、大概の詩や歌や小説の作者などより、花など植物の命名者こそ、よほど、天才的な創造者なのではなかろうか。
 詩や歌を綴るにしても、植物名の味わいや余韻などに、どれほど依存していることだろう。
 上掲のサイトに載っている松尾芭蕉の句を:

 秋海棠 西瓜(すいか)の色に咲きにけり

 せっかくなので、ちょっとだけ、秋海棠のことを調べておくと、花言葉は片思いだそうである。
 古くから、「雨に濡れたる秋海棠の花」とは、「古くから使われる憂いを秘めた美女のたとえ」として歌われていると、数々のサイトに記されているが、小生は初耳である(あるいは、耳にまるで残っていない)。典拠などは、何処にあるのだろうか。

 これは、別にラジオを聞いていて、耳に残ったというわけじゃなく、まるで本人としても頭に浮かんだ脈絡が分からない事案である。
 頼山陽(らいさんよう)の詩に、「鞭声粛粛夜過河」という有名な詩がある。読み下すと、「鞭声 粛粛 夜 河を過(わた)る」となる。甲斐の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信との戦いである川中島の合戦を叙景した詩のようである。
 念のため、詩の全容を示しておく:

 題不識庵撃機山図       不識庵の機山を撃つ図に題す

 鞭声粛粛夜過河        鞭声 粛粛 夜 河を過(わた)る
 暁見千兵擁大牙        暁に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年磨一剣        遺恨 十年 一剣を磨き
 流星光底逸長蛇        流星光底 長蛇を逸す

 意味などは、「頼 山陽の漢詩」などを説明したサイトを覗いてみてほしい。
 小生、子供の頃、この漢詩を川中島の合戦の様子を画面に写しつつ、朗々と謡うのを聞いていて、なんとなく、脳裏では違う詩に聞えていた。
 小生の耳には、どんなふうに聞えたかというと、「べんけい シクシク 夜 河を渡る」なのだった。
 義経を心ならずも叩いて、それで、安宅関を越えたはいいけれど、主君を叩いてしまったことを深く悔いての詩だ、というわけである。
 どうして、土曜日の営業中、「べんけい シクシク 夜 河を渡る」という文句が脳裏で幾度も響いてならなかったのかは、自分でもメカニズムが分からない(このように聞えていた、というのは、ずっと前のことなのだし)。

 そうそう、小生のこと、駄句も載せておかないと、物足りない:

 ホトトギス鳴かせて見たい手の平で 
 ホトトギスせめて見たいなその姿  
 ホトトギス鳴かず飛ばずで来けるかな  
 ホトトギス鳴かず飛ばずもいいものさ

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