季語徒然
季語の数々を眺めてみる。悲しいかな、その大半が馴染みのないものだったりする。馴染みがないだけならまだしも、その言葉が何を意味するのか、トンと分からない季語も多い。
例えば、しばしば参考にさせていただいている、「季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】」を見てみるだけでも、その感を強くする。「神無月、神の旅、神送、神渡、神の留守」や、「酉の市、熊手、箕祭」はまだしも、「炉開、口切、亥の子、御取越、達磨忌、十夜」は、何のことやらさっぱり分からない(そうはいっても、まだしもとして例示された個々の季語を説明しろと言われても困る。小生には聞かないのが大人の態度というもの)。
「新海苔、棕櫚剥ぐ、蕎麦刈、麦蒔、大根、大根引、大根洗ふ、大根干す、切干、 浅漬、沢庵漬く、茎漬、酢茎、蒟蒻掘る、蓮根掘る、泥鰌掘る」なども、小生には説明はできないものの、今ごろの季節風景を象徴する言葉だったりするのだろうとは、朧にも分かる。
小生の家は、小生が物心付いた時には、兼業農家になっていたものの、それでも、家の目の前は勿論、歩いて数分、十数分というところに田圃が散在していて、荷車などを引いて農作業に向かった。多くは小生が大学時代までに手放され、今では田圃としては全く残っていない。僅かに庭先に畑が少々あるばかり。
それでも、軒先に大根に関わる風景を毎年のように見てきた、干された大根が晩秋の澄み渡った空に、のーんびり揺れていたり、もがれた柿が、これまた軒先にぶら下げられ、干し柿になるのを待っていた。が、蕎麦や蒟蒻、泥鰌は食べたりは勿論するが、植えたり育てたり収穫したり、まして大根や茄子やキュウリやジャガイモなどのように、朝夕に庭先で採ってきて、ササッと洗い、俎板の上で斬った切り口も新鮮なままに食べるという僥倖には恵まれていない。
それでも、我が家や小生の身近では馴染みではなくとも、いつの日かのどこかの誰かには当たり前のように日常的に見られた光景だったりしたのだろうし、だからこそ、句に詠いこまれてきたのだろう。
小生が川柳や俳句が好きなのは(だからといって、短歌や詩がどうこうというわけじゃない)、身近な風景を季節感・生活感たっぷりに気軽に詠み込めるからだ。覚えておく必要がないなら、紙と鉛筆さえ要らない。車の運転をしながら、あるいは、買い物へと歩きながら、お月さんなど眺めながら、近所の塀から覗く花々を見ながら、駄句を思い浮かぶままにひねっては、記憶の海の底へ沈めていく。
さて、11月の季題(季語)に戻ると、「凩」などが出てくる。凪は言葉としては分かるとして、何故、今ごろの季語として定着したのか、まるで分からない。きっと何がしかの経緯があったに違いない。時間があったら、じっくり昔を偲びつつ調べてみたいものである。
「帯解、袴著、 髪置」なんて、下手すると艶っぽいことを連想させる意味深な季語なのかと思ったりもするが、直前に「七五三」があるので、その関連なのかもしれない。だとしたら、小生が思い浮かべている、由無し事というか良くないことは大急ぎで拭い去って、初々しく微笑ましい光景を思い浮かべる必要がある。
輪からないと言えば、「木の葉髪」も、そうだ。「網代」は、過日、若干、触れたからいいとして、「竹瓮」って、何だろう。「大綿」は? 蒲団綿の打ち直しに関係するのか。
ネットで「竹瓮」をネット検索しても、例は多くない。
何故か、「音楽史と初等数学史がメインのWebPageです。他に語学、文集などもあります」というサイトの、「落書き帖 第102号 難読漢字100
」の中に、「竹瓮」の説明として、「漁具の一つ。細い竹を筒のように編み、一端を紐で結び、他端に内側へもどりを作り、一度魚が中に入ると外に出られなくなるように仕掛けたもの。」と(「網代」を連想させる印象を受ける)あった上で、「竹瓮揚ぐ水の濁りの静まらず 高浜年尾」が例示されている。
ついでながら、ここには、「泥鰌掘る」も説明されてあった。一粒で二度美味しいサイトだ!
あ、不親切だった。「竹瓮」の読み方だが、「たつべ たつへ タッペ」と読むらしい。三冬の季語の一つのようだ。
で、親切なところを見せておくと、別の「11月・季寄せ」というサイトを見ると、「竹瓮」について、「水底に沈めて魚類を捕える円い小籠。沈む時は口が開き、引き揚げる時は口が閉じるようにしたもの。」とあり、さらに「たつめ。筌。」とある。「筌」は、何ぞや。
で、「筌」のみをキーワードにネット検索すると、日本語だけで、2万以上をヒットした中で、筆頭には、「童女筌の世界」というサイトが登場し、これは、「日本初の編物教科書「童女筌」とその時代背景」のサイトが現れたり、他に、多くは、「下筌ダム」とか、「筌の口温泉(九重町)」だったりする。
ちなみに、この「筌の口温泉(九重町)」というのは、「鳴子川河畔にあるひなびた温泉地で川端康成が ”波千鳥”の構想を練る為に投宿した旅館小野屋があったが、2004年4月に閉館した。」という。おお、我が川端康成に縁のある温泉地だったのだ。
が、小生の今の検索目的からは外れている。
ようやく35番目に、「ウケ(筌)」というサイトが登場。開くと、「河川や湖沼、水田の用排水路などの水中に沈め、魚・カニ・エビ・サンショウウオなどの習性を利用して捕獲する漁の道具。 竹で円形に細長く編んだものや、ビンのような形のものまで捕る魚に合わせて作られるためさまざまな種類がある。 ウエともいう。」という説明と共に、「ウケ(筌)」の画像も載っている。ありがたい! きっと受けのいいサイトに違いない。
掲げた写真は、今朝、帰宅の途上に撮ったもの。多分、これから例によって、となるはずだが、写真には、駄句を載せてある。読みづらいので、ここに書いておくと、「葉桜やつかの間映えて冬となる」である。
この秋というか晩秋というか、季語上は既に冬なのだが、なかなか寒くならず、この葉桜は、ずっと緑色で、赤茶けたような葉っぱが混じり始め、そろそろ紅葉を楽しませてくれるかなと期待していた。
が、そう、葉桜は、燃え始めると、呆気ないほど簡単に散ってしまう。桜の花も、満開になったと思った瞬間、パッと散ってしまうのだが、紅葉も愛でる間もなく散り急いでしまう。
どうも、桜というのは、せっかちな木のようだ。まるで小生のよう?! いや、小生は、ダラダラグダグダのんべんだらりだから、性分がまるで違う。
ところで、目聡い人、というより、物好きな人は、今、掲げた句、はて、何処かで目にしたようなと思われるだろう。
実は、小生、葉桜について、何か情報がないかと、「葉桜 紅葉」をキーワードにネット検索した。何故、これらを検索語に選んだかというと、葉桜が紅葉して、こんなに呆気なく散る、その物足りなさ(あるいは潔さ?)を、きっと誰かが、文句というか愚痴っているに違いないと憶測を逞しくしたのだった。
案の定だった。検索の網に、5千以上、引っ掛かったその十数番目に、なんと我がサイト(というか、このサイト)「無精庵徒然草」が、掛かって、無様な姿を晒しているではないか。その中に、拙句「葉桜も紅葉しきれず冬になる」が。
ああ、恥ずかしい。こうして世間に恥を晒しているわけである。
この句をひねったのは、11月22日である。一週間ちょい前。その頃は、緑色の葉が大半で、色付いた葉は少なかったし、落葉する葉も少なかった。ああ、このまま、碌に紅葉もしないうちに、見るものに昂揚した気分を恵みもせぬうちに、冬になっていくのかと、少々愚痴っぽい心境を詠い込んでいる(当人は、そのつもりでいる)。
それが、今朝、見たら、冒頭の写真のような有り様である。仕方なく、小生、まあ、多分、小生が運悪く見ていないだけで、大方の葉っぱが紅葉した瞬間が、きっとあったのだろう、きっと、その見逃した瞬間は、美しかったのだろうと、若干の無念の気持ちも篭めて、詠ってみたのであった。
さて、今日は11月も最後の日。掌編を今月はまだ7個しか作っていない。あと、一個、今夜中に作りたい。明日の日付の日記に、ノルマを果たしましたと、誇らしげに(作品の出来は、そっちのけで)書けるだろうか。書かなかったら、ダメだったものと、落胆しつつ泣き寝入りした小生を思って、同情などしてほしい。
ま、来月のノルマが8個ではなく、9個になるだけのことなのだが。
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