« 2004年10月 | トップページ | 2004年12月 »

2004/11/30

季語徒然

s-DSC01123.jpg

 季語の数々を眺めてみる。悲しいかな、その大半が馴染みのないものだったりする。馴染みがないだけならまだしも、その言葉が何を意味するのか、トンと分からない季語も多い。
 例えば、しばしば参考にさせていただいている、「季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】」を見てみるだけでも、その感を強くする。「神無月、神の旅、神送、神渡、神の留守」や、「酉の市、熊手、箕祭」はまだしも、「炉開、口切、亥の子、御取越、達磨忌、十夜」は、何のことやらさっぱり分からない(そうはいっても、まだしもとして例示された個々の季語を説明しろと言われても困る。小生には聞かないのが大人の態度というもの)。
「新海苔、棕櫚剥ぐ、蕎麦刈、麦蒔、大根、大根引、大根洗ふ、大根干す、切干、 浅漬、沢庵漬く、茎漬、酢茎、蒟蒻掘る、蓮根掘る、泥鰌掘る」なども、小生には説明はできないものの、今ごろの季節風景を象徴する言葉だったりするのだろうとは、朧にも分かる。
 小生の家は、小生が物心付いた時には、兼業農家になっていたものの、それでも、家の目の前は勿論、歩いて数分、十数分というところに田圃が散在していて、荷車などを引いて農作業に向かった。多くは小生が大学時代までに手放され、今では田圃としては全く残っていない。僅かに庭先に畑が少々あるばかり。
 それでも、軒先に大根に関わる風景を毎年のように見てきた、干された大根が晩秋の澄み渡った空に、のーんびり揺れていたり、もがれた柿が、これまた軒先にぶら下げられ、干し柿になるのを待っていた。が、蕎麦や蒟蒻、泥鰌は食べたりは勿論するが、植えたり育てたり収穫したり、まして大根や茄子やキュウリやジャガイモなどのように、朝夕に庭先で採ってきて、ササッと洗い、俎板の上で斬った切り口も新鮮なままに食べるという僥倖には恵まれていない。
 それでも、我が家や小生の身近では馴染みではなくとも、いつの日かのどこかの誰かには当たり前のように日常的に見られた光景だったりしたのだろうし、だからこそ、句に詠いこまれてきたのだろう。
 小生が川柳や俳句が好きなのは(だからといって、短歌や詩がどうこうというわけじゃない)、身近な風景を季節感・生活感たっぷりに気軽に詠み込めるからだ。覚えておく必要がないなら、紙と鉛筆さえ要らない。車の運転をしながら、あるいは、買い物へと歩きながら、お月さんなど眺めながら、近所の塀から覗く花々を見ながら、駄句を思い浮かぶままにひねっては、記憶の海の底へ沈めていく。
 さて、11月の季題(季語)に戻ると、「凩」などが出てくる。凪は言葉としては分かるとして、何故、今ごろの季語として定着したのか、まるで分からない。きっと何がしかの経緯があったに違いない。時間があったら、じっくり昔を偲びつつ調べてみたいものである。
「帯解、袴著、 髪置」なんて、下手すると艶っぽいことを連想させる意味深な季語なのかと思ったりもするが、直前に「七五三」があるので、その関連なのかもしれない。だとしたら、小生が思い浮かべている、由無し事というか良くないことは大急ぎで拭い去って、初々しく微笑ましい光景を思い浮かべる必要がある。
 輪からないと言えば、「木の葉髪」も、そうだ。「網代」は、過日、若干、触れたからいいとして、「竹瓮」って、何だろう。「大綿」は? 蒲団綿の打ち直しに関係するのか。
 ネットで「竹瓮」をネット検索しても、例は多くない。
 何故か、「音楽史と初等数学史がメインのWebPageです。他に語学、文集などもあります」というサイトの、「落書き帖 第102号 難読漢字100
」の中に、「竹瓮」の説明として、「漁具の一つ。細い竹を筒のように編み、一端を紐で結び、他端に内側へもどりを作り、一度魚が中に入ると外に出られなくなるように仕掛けたもの。」と(「網代」を連想させる印象を受ける)あった上で、「竹瓮揚ぐ水の濁りの静まらず   高浜年尾」が例示されている。
 ついでながら、ここには、「泥鰌掘る」も説明されてあった。一粒で二度美味しいサイトだ!
 あ、不親切だった。「竹瓮」の読み方だが、「たつべ たつへ タッペ」と読むらしい。三冬の季語の一つのようだ。
 で、親切なところを見せておくと、別の「11月・季寄せ」というサイトを見ると、「竹瓮」について、「水底に沈めて魚類を捕える円い小籠。沈む時は口が開き、引き揚げる時は口が閉じるようにしたもの。」とあり、さらに「たつめ。筌。」とある。「筌」は、何ぞや。
 で、「筌」のみをキーワードにネット検索すると、日本語だけで、2万以上をヒットした中で、筆頭には、「童女筌の世界」というサイトが登場し、これは、「日本初の編物教科書「童女筌」とその時代背景」のサイトが現れたり、他に、多くは、「下筌ダム」とか、「筌の口温泉(九重町)」だったりする。
 ちなみに、この「筌の口温泉(九重町)」というのは、「鳴子川河畔にあるひなびた温泉地で川端康成が ”波千鳥”の構想を練る為に投宿した旅館小野屋があったが、2004年4月に閉館した。」という。おお、我が川端康成に縁のある温泉地だったのだ。
 が、小生の今の検索目的からは外れている。
 ようやく35番目に、「ウケ(筌)」というサイトが登場。開くと、「河川や湖沼、水田の用排水路などの水中に沈め、魚・カニ・エビ・サンショウウオなどの習性を利用して捕獲する漁の道具。 竹で円形に細長く編んだものや、ビンのような形のものまで捕る魚に合わせて作られるためさまざまな種類がある。 ウエともいう。」という説明と共に、「ウケ(筌)」の画像も載っている。ありがたい! きっと受けのいいサイトに違いない。

 掲げた写真は、今朝、帰宅の途上に撮ったもの。多分、これから例によって、となるはずだが、写真には、駄句を載せてある。読みづらいので、ここに書いておくと、「葉桜やつかの間映えて冬となる」である。
 この秋というか晩秋というか、季語上は既に冬なのだが、なかなか寒くならず、この葉桜は、ずっと緑色で、赤茶けたような葉っぱが混じり始め、そろそろ紅葉を楽しませてくれるかなと期待していた。
 が、そう、葉桜は、燃え始めると、呆気ないほど簡単に散ってしまう。桜の花も、満開になったと思った瞬間、パッと散ってしまうのだが、紅葉も愛でる間もなく散り急いでしまう。
 どうも、桜というのは、せっかちな木のようだ。まるで小生のよう?! いや、小生は、ダラダラグダグダのんべんだらりだから、性分がまるで違う。
 ところで、目聡い人、というより、物好きな人は、今、掲げた句、はて、何処かで目にしたようなと思われるだろう。
 実は、小生、葉桜について、何か情報がないかと、「葉桜 紅葉」をキーワードにネット検索した。何故、これらを検索語に選んだかというと、葉桜が紅葉して、こんなに呆気なく散る、その物足りなさ(あるいは潔さ?)を、きっと誰かが、文句というか愚痴っているに違いないと憶測を逞しくしたのだった。
 案の定だった。検索の網に、5千以上、引っ掛かったその十数番目に、なんと我がサイト(というか、このサイト)「無精庵徒然草」が、掛かって、無様な姿を晒しているではないか。その中に、拙句「葉桜も紅葉しきれず冬になる」が。
 ああ、恥ずかしい。こうして世間に恥を晒しているわけである。
 この句をひねったのは、11月22日である。一週間ちょい前。その頃は、緑色の葉が大半で、色付いた葉は少なかったし、落葉する葉も少なかった。ああ、このまま、碌に紅葉もしないうちに、見るものに昂揚した気分を恵みもせぬうちに、冬になっていくのかと、少々愚痴っぽい心境を詠い込んでいる(当人は、そのつもりでいる)。
 それが、今朝、見たら、冒頭の写真のような有り様である。仕方なく、小生、まあ、多分、小生が運悪く見ていないだけで、大方の葉っぱが紅葉した瞬間が、きっとあったのだろう、きっと、その見逃した瞬間は、美しかったのだろうと、若干の無念の気持ちも篭めて、詠ってみたのであった。
 さて、今日は11月も最後の日。掌編を今月はまだ7個しか作っていない。あと、一個、今夜中に作りたい。明日の日付の日記に、ノルマを果たしましたと、誇らしげに(作品の出来は、そっちのけで)書けるだろうか。書かなかったら、ダメだったものと、落胆しつつ泣き寝入りした小生を思って、同情などしてほしい。
 ま、来月のノルマが8個ではなく、9個になるだけのことなのだが。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2004/11/29

一葉忌

 もう、一週間近く過ぎてしまったが、11月23日は、樋口一葉の命日だった。「樋口一葉(本名奈津)は明治5年3月25日(太陽暦5月2日)に生まれ、明治29年に肺結核のため、24年という短い生涯を終え」たのだった。「その短い生涯のうちに、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった現代の我々にも感銘を与える珠玉の作品を遺してい」ることは、知る人も多いのではなかろうか。
 まして、この11月から市中に回り始めている新五千円冊の肖像に樋口一葉が使われているだけに、頓に名前や作品名には親しむ機会が増えている。新聞でも彼女を紹介する記事が載っているし、雑誌に至っては、とにかく紹介だけはされているのではないか。
 が、実際に樋口一葉の作品を手にとって読まれた方となると、案外と(予想通りに?)少ないのかもしれない。
 小生も、名前だけ聞きなれていたが、作品に親しんだのはほんの数年前のことだった。
 まあ、作品はともかく、彼女の足跡を辿っておくのも、いいのではないか。それから追々に彼女の作品に接していくという道筋があってもいいのだし。
杉山武子の文学夢街道」というサイトを参照させていただく。
 最初に、「一葉は四歳から九歳まで、法真寺と隣り合わせの大きな家に住み、桜の木のあるこの境内で遊び、幸福な少女時代を送った。」という法真寺(浄土宗)の写真(写真は平成11年2月撮影)が載っている。
 ついで、「一葉は通算して5年半、小学高等科第4級卒業の11歳で学校をやめさせられた。女子に学問は不要との母親の強い考えと、進学させたい父親が争そったという。一葉は「死ぬばかり悲しかりしかど、学校は止めになりにけり」とのちの日記に記している。」と書いてある。
 明治だと、女性の向学心燃える情熱に水を指すのは、多くは父親だったりするのだが、一葉の場合は、母親が反対していたのだ。が、「向学心の強い一葉に和歌を学ばせようとの父親の計らいで、14歳になった一葉は小石川の中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門した。」という。
 彼女の場合、父親の後押しが大きく功を奏しているわけだ。
 けれど、「一葉は「萩の舎」で上流階級の女性達に混じり、持ち前の負けん気でめきめき和歌の実力をつけたが、長兄泉太郎と父則義が相次いで病没。あとに残ったのは57歳の母、15歳の妹と一葉の女ばかり三人だった。一葉は17歳で女戸主となった。」という。
 そして、「母娘三人は、明治23年9月、本郷菊坂町の借家に移り住んだ。樋口家の没落の始まりだった。一葉はここから小石川の「萩の舎」へ稽古に通った。」のだった。
 小生、この「本郷菊坂町」という地名でピンと来た。多少は文学史に詳しい人(ちょっと大袈裟か)なら、その頃、この町の近くに夏目漱石が居住していたのではなかったかと思いめぐらすに違いない。
 そこで、「本郷菊坂町 一葉 漱石」をキーワードにネット検索してみたら、ビンゴ! に割りと近かった。筆頭に「漱石と一葉夏目漱石の年譜」というサイトが登場する。
 その冒頭に、「夏目漱石の年譜(1867-1916)を見ると「二歳で浅草南部の添年寄塩原昌之助の養子となり
(二二歳で夏目家に復籍)、戸田学校(現精華小学校)に通う。成績飛び抜けて優秀。10歳の折、下谷西町十五番地に移る」とあり若き漱石は台東区で育ったことがわかる。
 この漱石が、同じ台東区に縁のある樋口一葉の見合い相手だったことは以外(意外?)と知られていない。
  台東区史跡散歩(学生社)より抜粋」
 おっと! 漱石が一葉の見合い相手だったって。小生、迂闊というのか、それとも、何処かでその情報を目にしているが、見逃していたのか。
 一葉の恋というと、彼女の師でもあった、半井桃水とのことを語らねばならない。
 が、有名だし、彼女の日記に拠るのがいいだろう。とにかく、一葉は半井桃水にひと目惚れしたようである。同時に、結果的に苦しい、悲しい恋に終わったようだ。
 先に、漱石と一葉が、一時は近くに居住していたのではと、憶測したが、上掲のサイトに拠ると、実際には、文京区西片町に半井桃水が住んだことがあり、その時かどうかはっきりしないが、その町に、漱石も住んでいたことがある。つまり、半井桃水と漱石が同じ町に住んでいた可能性がある(この点は、もっと調べる必要がある)。
 ただ、西片町の半井桃水方に本郷菊坂町の一葉が、足繁く(?)通ったことは、間違いないようだ。
 一葉は、ある人と婚約したことがあるが、同時に破棄を相手方から申し渡され、さらに、今度はその相手から復縁を求められる、という経験もある。
 その後、一葉には、瀬戸内寂聴ならでは探究し得なかった泥水の時をも過ごしていたのか。
 樋口一葉の作品は、ネットで(青空文庫で)読める。
 あるいは、松岡正剛の「千夜千冊」でも、「たけくらべ」を扱っている。
 ところで、何処かに書いてあるのかもしれないが、本名は樋口夏子(奈津、と表記したサイトも見受けられる。調べてみると、「樋口一葉の戸籍名は「樋口奈津」。しかし日記の表紙には「なつ」「夏」「夏子」とも自署し、本名の奈津より「夏子」を用いることが多かったので、樋口夏子が最も一般的な呼び方として通っています」ということのようである)である彼女が、一葉という名前を使ったのは、いつのことなのか、そして一葉という名前の生れた経緯は、どうなのだろう。
一葉の名について」というサイトを覗くと、「樋口一葉(本名夏子)の「一葉」が公的に使用されたのはこの「武蔵野」が最初である。歌塾「萩の舎」で添削を求めて提出される草稿には使われておらず、「一葉」は小説でのみ用いられた署名と考えられている。」とある。
 但し、この「武蔵野」とうのは、冊子の名前で、載った作品名は、「闇桜」。この作品掲載の時、樋口一葉という名前を使った。

 既に紹介した「杉山武子の文学夢街道」というサイトの「樋口 一葉 豆知識」という頁を覗いても、「一葉」というペンネーム誕生の経緯が書いてない。
微照庵(びしょうあん)」というサイトは、日記が多く引用されていて、とても参考になる。が、一葉という名前の誕生秘話は、小生には見つからなかった。
 誰か教えて欲しい。あるいは歌に秀でていた一葉のこと、「万葉集」を意識して、万葉に対し謙虚に一葉と決めたのだろうか。

 さて、表題に選んだ「一葉忌」は冬の季語ともなっている。以下の句を見つけた(「日刊:この一句 バックナンバー」、ほか):

 また一人草履隠され一葉忌    二村典子

 一葉忌ある年酉にあたりけり    万太郎

 一葉の世界の理解というと、上述したように、瀬戸内寂聴に当たっておかないと、話にならないのかもしれない。全てを犠牲にしても、作家として成功しようとした一葉。文豪というか、文業というのか、あれこれ調べてみて、改めて一葉の作品を読み直してみないといけないと、つくづく思ったものである。
 なのに、小生、一葉の命日の23日には、「小春日和」などを、せっせと綴っていた。これでは、一葉の足もとにも及ばないのも、無理はないのかもしれない。
 その日、小生は、水仙の花に事寄せて、「遠き日に眺めた波の花の果て」なる句をひねっている。この句がせめて、供養の一句になればと思うのだが。
 けれど、「夢にまで小春日和の心地して」などと詠っているようでは、無理か。

 一葉忌思いも寄らぬ小春かな
 一葉忌せめてもの札の慰めか
 一葉忌身を削っての言の葉か
 一葉忌身を投げ打ってのにごりえよ
 たけくらべ肩並べしは誰ならん
 十三夜満ち足りずとも月見けり

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/28

冬日和

s-DSC01108.jpg

「冬日和」は、11月も終わりの麗らかな日和を指すのだろうか。「冬麗ら」という冬の季語もある。こちらを選ぶべきかとも思った。
 が、もっと迷ったのは、体感する季節感が何とも中途半端だということだ。東京近郊については、この数日でようやく木の葉も色付きの足を速め、晩秋の気分を感じさせている。
 一方、しかし、季語上は既に冬入りしている。使うべき言葉、選ぶべき言葉は、冬の季語、一応、冬と言っても11月に伝統的に使われてきた言葉の中から、ということになる。

 ところで、過日、都心である婦人を乗せた。小生はタクシードライバーという仕事に携わっているので、別に婦人を乗せたといっても、艶っぽい話ではないので、念のため。
 その方とは、乗っている時間が三十分ほどという、日中にしては長時間だったこともあって、あれこれ話が弾んだ。聞くともなしに伺ったところ、生け花の勉強のため、お師匠さんのところに伺って、その帰りらしい。
 お年を召された方なので、ご自身が生け花の先生だと言われても、通りそうな気がする品のいい婦人だった。が、お師匠さんの生け花に心酔されているようだった。
 好奇心も旺盛で、テレビで見たクイズ番組でのクイズを小生に出したりする。で、当然ながら答えに窮する小生に、すぐに助け舟を出してくれる。
 婦人は、答えの意外性に驚いていて、小生に問題を出して悩ませるというより、むしろ、問題の答えの意想外な発想に感心している様子だった。その問題の幾つかを出してもいいのだけど、ま、それは別の機会に。
 頭の固い、昔気質の方なら、答えに怒る人も居るかもしれないが、彼女は、素直に答えの彼女の予想を遥かに越える突拍子のなさに素直に感心されているのだ。小生は、そのことに感心した。
 年齢を重ねても、いい意味で好奇心を絶やさず、何にでも関心を抱き、前向きに生きておられる証拠のように、受け取っていた。
 話は、弾んで、今、テレビ・マスコミを賑わす生け花の人気者のこととか(言うまでもないが、假屋崎省吾(かりやざき・しょうご)氏のことである。何を喋ったかは、ヒ・ミ・ツ)、これも、小生が話題に出したのだが、どういう脈絡でだったかは忘れたが(多分、生け花→掛け軸→水墨画だったと思う)、水墨画が好きだ、彼の筆の捌きは凄みがある、筆で一本の竹や草をスーと描く、ただそれだけの線一本に見惚れてしまう、云々。
 そうね、筆の濃淡だけで、霧の掛かった林とかの奥行きを表現するのよね、凄いわよねー。
 宮本武蔵の有名な画はいろいろある。「布袋見闘鶏図」とか、「茄子図」とか。
 小生がその時、脳裏に浮かべていた画は、「枯木鳴鵙図」だった(この画について、詳細や背景を知りたい方は、「美の巨人たち 宮本武蔵『枯木鳴鵙図』」を参照願いたい)。
 生け花の流派の話(御婦人の習っておられる花の流派も伺った)、生ける花が一本であっても、そこにはセンスが如実に現れる。習字でも同じように。今、思い出したが、生け花→習字→掛け軸→水墨画→宮本武蔵という話の流れだったのである。
 この、車中でのお喋りを日記に書こうかなと思いつつも、他にも書きたいことがあって、後回しになっていた。そうそう、降りる間際にご婦人は、携帯電話のことなど話題に出していた。話の脈絡に全然、関係ないな、確かに小生も携帯電話はマナーモードだが、車中に置いているが、と思ったら、どうやらご婦人は、小生の携帯電話の番号を知りたいらしかった。今度は、流しでたまたまじゃなく、長距離の乗車の機会があった時になどに、電話で呼び出して、小生を呼び出してみたい、そんな思いもあったのだろう。
 が、無線も使わない小生(無線は聞いているだけ)、携帯電話も営業では使わないので、話題を元に戻してしまった。そしてすぐに目的地に。

 さて、こんな話を持ち出したのは、昨日付けの朝日新聞夕刊に「前衛の花に人生かけて」と題して、生け花作家の中川幸夫氏への聞き書きが文化欄の「風韻」というコラムに載っていたからである。
 悲しいかな、何事においても無調法なる小生のこと、中川幸夫氏のことも何も知らない。この囲みのインタビュー記事(西田健作氏)で初めて知ったようなものである:
生け花作家・中川幸夫」など参照。
 生け花というと、茶道・華道ということで、家元制度が厳然としてある。小生には、芸術の世界に家元制度があることが不思議でならない。文学にしても詩の世界にしても、絵画や写真、音楽の世界にしても、家元制度などとは無縁である。師と弟子ならありえる。先輩から学ぶべきことは、少なからずある。
 が、結局は、流派など関係なく、その人の修練と究極においてはセンスが問われる。どんな立派な家柄の血筋を受け継いでいたって、ダメな者はダメだし、出自に関係なく素晴らしいものは素晴らしいのだ。
 が、そんな常識など通用しない世界が、日本(に限らないかもしれないが)にはあるのだ。
 別に家元制度を批判しているわけではない。小生には理解が全く、及ばないと思っているだけである。
 
 翻って、中川幸夫氏は、「型を重視する家元制度に反旗を翻し、弟子をとらず、想像を絶する貧しさの中で前衛の花を追及してきた」のだった。
 彼の出発点のエピソードが凄い。上掲のサイトでも紹介されているが、30歳の頃、彼も池坊に入っていたが、「本部のある京都・六角堂で花を生けることになった。近くのお店に、いい具合の白菜が並んでいた。」
 白菜?!
 その白菜を同氏は、丸ごと立てて生けた。すると、助手と先生が怒ってしまった。小生にも彼らが怒るのは分かるような気がする…ような。
 同氏にすると、白菜は、「持って帰って食べたくなるぐらい白くてね。」というわけである。別に挑発しようという気すらなかったのだ。
 当然のごとく、池坊と縁を切る。あとは、「弟子をとらず、想像を絶する貧しさの中で前衛の花を追及してきた」というわけである。
 
 ここらで、小生の正直な生け花への考えを言うと、そもそも生け花という発想が大嫌いである。花にしろ草にしろ、咲いていてこその植物なのだ。小生の発想では(それとも、狭苦しい了見では)、精一杯、妥協して、盆栽や庭木などであろうか。一応は、土に植わっているからである。
 それが、生け花となると、幹か枝葉の何処かでチョキンと切り取ってしまう。そうして、美麗なる花瓶に、あるいは、悲惨にも剣山(けんざん)の針地獄に突き刺す。で、何本かの切り取られた花たちを<生けて>(小生の表現を使えば、生きたままの献体というか、見世物にして)、その並び、配色、バランス、背景の壁や花瓶、剣山を受ける皿(器)などとの総合的な美を演出する。
 そんなに花が好きなら、花の美を愛でたいのなら、何も切り取らなくていいじゃないか、せめて庭に、せいぜい植木鉢に植えて鑑賞すればいいじゃないか…、小生は、そう思ってしまうのである。
 こんな発想の小生では、そもそも生け花という発想自体が、論外になってしまうのだ。
 といって、気の小さい小生のこと、瓢水を気取って、「手にとらでやはり野におけれんげそう」などと句にする技量もない。
 きっと、やはり、了見が狭いのだろう(尚、この瓢水の句については、小生も触れたことがある「蓮華草のこと」。なかなか額面通りには受け止められない厄介な句なのである)。

 蓮華草野にあってさえ摘み取られ
 花の美を床の間に見る人やらん
 冬日和床に延び行く影で知る
 冬日和長き尾引いて消ゆる人
 
 さて、最後である。この日記では、実は今、読んでいる黒曜石についての本の話題を採り上げるつもりだった。が、生け花に絡む話が長引いてしまって、後日、改めて触れる。
 昨夜というか、今日の未明、今月七個目の掌編を書いた。タイトルは、「天国への扉」。察しのいい方は、「無精庵徒然草」の昨日の日記、「ドアを開く」に登場させた「天国への扉」から発想したと思われるかもしれない。
 これは、正しくもあり、間違ってもいる。
 当初、全く別のタイトルだったのだ。もう、忘れたが、朧な記憶では、「愚鈍なる児戯」だった。その痕跡は、掌編の中に、この言葉が使われていることに残っている。
 ある意味、小生のガキの頃の思い出が、ほんの僅か篭められている。先生の質問に答えられなくて、しょっちゅう、教室の後ろに立たされた。お袋も、お宅のお子さんは、なーんにもやる気がないと幾度となく、担任の先生に言われたとか。
 書評エッセイのサイト「無精庵万葉記」にも、幾つか、過去に書いて、メルマガにて公表した書評エッセイを載せている。本来は、ホームページの読書・書評の頁に載せたいのだが、時間が取れないので、こういう形を採っている。そのうち、ホームページに収めるつもりだ。また、ここには、折々、新作の書評エッセイを載せる意向であることも、「無精庵方丈記」と同じである。

 冒頭に掲げた写真は、以前にも載せたもの。ある方から写真(画像)を加工するソフトを教えてもらった。やっと、昨夜、トライする機会を持てた。画面に載せた句は、見えづらいだろうが、「冬の朝明けていくとも暮れる胸」という即興の句である。
 ま、試みということで、掲げておく。
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/27

ドアを開く

s-s-alhambra-sion.jpg

 ドアを開く…。この言葉だけで、人は何を思い浮かべるだろう。誰か慕わしい人の家を訪ね、ドアの開く瞬間を待つ。それとも、事件になり、一時期、話題になった超高層ビルの回転ドア、スーパーなどの自動ドア…。「左右どちらからも扉を開閉できる冷蔵庫「どっちもドア」」なんてのもある。それとも、「風に吹かれて」で有名なボブ・ディランの「天国への扉」という曲が脳裏に浮かび、メロディなど口ずさむ人もいるかもしれない。
 ドアから扉、そして「天国への扉」を連想した小生、学生時代など、ビートルズと共にボブ・ディランに聞き浸っていたものだった、その名残がこんなところにも出てくる。
 あるいは、ドラえもんの「何処でもドア!」を忘れてはいませんか、と、口を尖らせている人もいるかもしれない。

 が、ここでは、ちょっと野暮かもしれないが、タクシーのドアのことである。小生は、タクシードライバーをしている。だから、ドアというと、真っ先に思い浮かぶのは、タクシーのドアということになってしまっているのだ。
 タクシーのドアは自動ドアである。タクシー(会社)によっては、ドアに「自動ドア」と表記してある場合もある。
 小生、タクシードライバーの仕事に携わるまでは、本当に自動ドアだと思っていた。何かスイッチかボタンがあって、お客さんがドアの傍に立ち、乗る意志を示すと、運転手がボタンをオンにする。すると、ドアが自動的に開く…。そんなシステムをボンヤリ、思い描いていた。
 というより、そんなことなど、あまり考えもしなかった、と言ったほうが無知な自分に近かったか。
 が、現実には、タクシーのドアは、自動とは言え、それは、お客さんから見たら、自動的に開くのであり、実際には、お客さんがドアの傍に立つのを確認して、また、立ち位置を十分に確認した上で、運転手の右下手元付近にあるレバーを引く。そのレバーに加えられた操作は、コードを通じて後部左側(つまり、歩道側)のドアに直結しており、ドアが開くというわけである。
 まさに、運転手にとっては、手動ドアなのだ。手で操作している。ただ、途中にコードがあって、見かけ上は距離が開いているように見えるだけである。
 自動ドア、つまりは手動ドアは後部左側だけに機能する。助手席側は、お客さんが自ら開けるようになっている。後部右側は、通常、開かないよう、ドアにロックがされている。これは、歩道側ではなく車道側で、お客さんが勝手に開けると危険だからということ、また、めったに後部右側から乗る機会がないこと、などがあって、自動ドア(運転手には手動ドア)は後部右側だけになっているのだ。

 ところで、唐突に、「ドアを開く」という表題で、今日の日記を書いているのは、たまたま今さっき見たドラマの影響である。小生、二週間ぶりの連休ということで、読書と執筆と、それにテレビ視聴三昧なのだ。特にテレビでサスペンスもののドラマを見るのが好き。
 しかも、これは変わっているかもしれないが、再放送ものが好きだ。夜に新しいサスペンスをやっているのに、何故、ということになるが、タクシーの徹夜仕事から朝、帰宅し、多少グズグズしてから9時前後に寝入るのだが、日中ということもあり、グッスリは眠られず、大概は昼過ぎに目覚める。
 当然、寝不足なので、昼下がり、あるいは夕方近くに二度目の睡眠を取るのだが、その間にボンヤリした頭のままに、読書したり(これはトライすると、大抵、居眠りに自然に移行してしまう)、洗濯したり、借金の支払いに出向いたり、食事したりする。
 食事の際には、テレビを見る。見るなら、サスペンスもの、しかも、小生、睡眠障害的な傾向があるので、テレビを見ている最中に、ロッキングチェアーで転寝(うたたね)を楽しんでしまう。
 すると、番組を中途半端にしか見られない。ガッカリである。が、再放送ものなら、ちゃんと見なかったという落胆の度合いも低い。夜の新規の番組の途中に、さあ、見るぞと思ってみたのに、見逃したりしたら、ガッカリの度合いもひどいのである。
 
 さて、今しがた見た、「牟田刑事官(中略)刑事の妹も奪われた!」も、再放送。が、恐らく、小生が見るのは初めて。なので、新鮮な気分で見られた。
 このドラマの鍵というか、発端になっていたのは、まさに、車のドアを不用意に開けた事なのである。つい油断してドアを開けたため、そのドアに自転車の若い女性が突っ込んで転倒した、しかも、運悪く、そこにスピードを出しすぎの車が通りかかり、その倒れている女性を轢いてしまった。
 女性は死にはしなかったが、車椅子の生活を余儀なくされる。
 事件を複雑にしたのは、ドアをつい開けてしまったのは、これまた若い女性なのだが、そこに居合わせた男性がカメラマニアで、弾かれた女性の様をパシパシッと写真に収めてしまったのだ。
 事件は、轢かれ車椅子の身となった女性の兄が犯行を、つまり復讐を決意するところから始まる。この牟田刑事官モノは、主演が小林桂樹、準主演に片岡鶴太郎で、いつも事件は輻湊している。なかなか一筋縄では解決に至らない。

 ま、それは別の話として、このドラマ、最後に車椅子の女性が自首する場面で終わる。その女性、車で警察に赴くのだが、その際、カメラは車のドアが開き、車椅子だが、杖を使えば、なんとか歩ける女性が車から出てくる場面を、ドアに焦点を合わせるようにして見せる。
 事件の発端も、結末も車のドアの開く様子に絡むということで、タクシードライバーたる小生、ドアにちなみあれこれを書くしかない気分にされてしまったのも、無理からぬことであろう。

 小生、タクシードライバーになって九年以上になる。その間、なんとか、大きな事故にも遭遇せず、まずまず大過なく、こんにちまでやってくることができた。
 これは、偏(ひとえ)に、日頃の注意の怠りない所以である、と、書きたいところだが、そうは問屋が卸さない。
 やはり、何といっても、運が良かったと思うしかない。事故になってもおかしくないという状況に幾度となく遭遇している。死亡事故現場にも立ち会ったことがある。それも、事故直後だった。路上に宅配バイクが横倒しになっている。ライダーは、路上に転がって、ピクともしない。
 路上の若い男性は即死状態だった。タクシーの運転手も、顔が真っ青で、男の傍で呆然と立ち尽くしている。若い男性の人生もその日で終わったが、運転手の人生も、奈落の底に突き落とされたのは、言うまでもない。
 バイクと衝突したのは、タクシー。どちらが悪いのかは分からないが、タクシー(車)とバイクだと、まず、タクシーに責任が問われる。
 小生、この事故が一際(ひときわ)印象深いのは、衝突そのものは目撃していないのだが、衝突した際のガシャッというのか、グシャッと表現すべきか、その鈍い音をタクシーの中にいて聞いたからだ。今も、その音が耳に残っている。
 この事故の場合、ドアが絡んでいるわけではないが、事故、死亡した若い男、立ち尽くす運転手、快晴の空、それでいて、周囲は事故直後でもあるからか、そんな状況に無縁に、何事もないかのように通常の走行が続いている。そうした一切が、妙に印象的なので、忘れられないのだ。

 話を元に戻すが、タクシードライバーになって九年以上。タクシーという仕事の性質上、注意すべきことは、たくさんある。あまりに多いので列挙するのも、躊躇われる。項目を並べるだけで、長い長いリストになるだろう。事故を避けるノウハウも多いが、お客さんとの トラブルも、場合によっては事故以上に怖かったりする。
 そんな中、未だに慣れないのが、後部左側のドアの開閉である。
 冒頭付近で書いたように、自動ドアといいつつ、運転手側にしてみれば、手動ドアである。当然、交通状況を十分に確認して開閉する(新人の頃、ドアを閉め忘れて走り出し、郵便ポストに擦らせたことがあった。恥ずかしい!!!でも、これ、内緒の話)。
 である以上は、危ないはずはないのだが、実際にはお客さんが複数居る場合もある。となると、お客さんのうちの一人は車内に残って支払いしている。その間に、他のお客さん達が、さっさと降りていく。当然だ。
 が、この勝手に降りられるのが、実に怖いのである。ドアを開く際には、通常の走行以上に神経を払うといっても過言ではない。何故なら、歩道側の何処から自転車(中にはバイク)がやってくるか、分からないからだ。
 だから、慎重の上にも慎重を期して開くが、複数だったりすると、そうもいかない。支払い事務を遂行しつつも、気が気でない。大きく開いたドアに自転車が突っ込んでこないか、開いた瞬間、ドアが歩行者にぶつからないか、とにかく神経が休まらない。

 お客さんが複数ではない場合でも、お客さんがドアを早く開けろと催促する場合がある。
 支払いをし、釣銭を準備する間も惜しくて、さっさと車を降りたいのである。気の弱い小生のこと、つい、仕方なく、開けてしまう。お客さんは降りて、車の傍で中腰になって釣銭や領収書を待つ。で、釣銭を手をグッと延ばして渡すのだが、先を急ぐお客さんが勢い良くドアを開けたりすると(ロックだってお客さんが勝手に解除する場合がある)、周囲の安全確保は大丈夫かと、心臓が縮むような思いがする。
 どんな場合でも、お客さんが勝手にドアを開けた場合でさえも、完全に降りてしまうまでは、タクシードライバー(会社)側の責任となるのだ。
 アメリカのタクシーだと、ドアの開閉はお客さんが行う。当然、ドアの開閉時の責任もお客さん側ということになるのだろう。日本とは国民性や国情に違いがあるとはいえ、ドアの開閉のシステムを再考する余地もあるのではなかろうか。

 なんだか、重っ苦しい話になってしまった。
 ネットで「ドア」という言葉が織り込まれている句を探してみた。例えば、「インターネット俳句大賞」というサイト(八木健予選 2月の結果)を覗いてみたら、次の句が見つかった(ユニークでユーモラスなハイクアートがそれぞれの句に付してあるのだが、誰の作品なのか分からない):

 のったりとドアすり抜けし春の猫  遠藤京子

 さらに、「2004 「海程」全国大会In 芦原・三国」に以下の句が(この句には、「金子先生評(戦艦大和から内面性を語っている)」と評が付してある。金子先生とは、金子兜太氏である):

 ドアロックしても洪水わが大和       大高宏充

 小生がよく転記する「日刊:この一句 最近のバックナンバー 」でも、次のような句を見出した(この句については、当該頁の評を読んでもらいたい):

 開けても開けてもドアがある    高柳重信

 ドアでは、あまり多くが詠まれていないのか。「扉」で検索したら、あるいは多数をヒットするかもしれない。
 せっかくなので、駄句をひねっておこう:

 ドアを開け広い世界に飛びたたん
 ドアの陰覗いているのは家政婦か?
 すみません覗いてたのは弥一です
 覗き見を趣味にしてはいけません
 障子紙心の扉の際どさよ
 自動ドア開いてるのは運転手
 自動ドア閉め忘れはありえない
 回転ドア回りすぎて目が回り
 炬燵にて体の扉開きけり
 日溜りに冬の扉を予感する
 
 さて、日記らしいことも書いておきたい。まずは、お知らせである。我がホームページの掲示板が過日、1万をヒットした。その方のリクエストもあり、キリ番プレゼントとして掌編を昨夜、制作した。どちらかというと、小生には珍しく純愛系のような。でも、苦くもあるのだけど。
 タイトルは、「菜穂の夏」である。よろしければ、読んでみてね。
 尚、ホームページ(表紙のカウンターでも、キリ番のリクエストは受け付けている。希望者はここ久しくないのが寂しい。次のキリ番は、「55555」と設定する。小生、ボケ気味なので(認知傷害気味?)数字を忘れる可能性もあるので、近付いたら、気付かせてね。
 この掌編で、今月は6個目。今年の通算で、90個。あと、残すところ、今月は2つ、年内には10個ということになった。いよいよ、押し詰まってきたし、切羽詰ってきたぞ。

 このブログ日記に結構、エネルギーが費やされている。そのため、犠牲になっているのがメルマガとホームページの更新である。
 小生は、この日記というかエッセイ・コラム・日記の「無精庵徒然草」と、上に紹介した虚構作品のサイトの「無精庵方丈記」を作ってきたが、本日、「無精庵万葉記」というサイトも設けた。
 これは、書評風エッセイのサイトである。基本的にメルマガで公表済みのものが当面、載せられることになる。本来ならホームページに掲載したいのだが、その時間が取れない。
 よって、窮余の一策として、書評風エッセイの公表ブログサイトを設けることにしたのである。共々、お気に入りに入れてくれたら(で、感想など貰えたらもっと)嬉しい。

 さて、おめでとう。ここまでよく、我慢して読んでこられました。忍耐に感謝します。やっと、最後ですぞ。
 冒頭に掲げた写真は、我が画像掲示板に素敵な画像を提供してくれる紫苑さんの「作品」である(画像掲示板:518参照)。
 この画像は、紫苑さんによると、アルハンブラ宮殿の中の噴水だとのこと。「先日訪れたアルハンブラ宮殿の中のこの噴水がタルレガ作曲の「アルハンブラの思い出」のトレモロの動機になったとのこと」という説明がされている。
 その説明を全文、示しておく(但し、句読点や行変えは小生が行った):
「先日訪れたアルハンブラ宮殿の中のこの噴水がタルレガ作曲の「アルハンブラの思い出」のトレモロの動機になったとのことです。ほんとうに奥まった一角にあるパルタルの庭.でチロチロと流れていました。
 現在のアルハンブラは四つの部分からなっていて、一つはカルロス5世の宮殿、二つ目がアル・カサバ(城塞)、そして三つ目がアルハンブラ宮殿、最後が夏の離宮ヘネラリーフェ庭園です。
 アルハンブラというのは「赤い城」という意味でアル・カサバの外壁の表面が剥落し、中の赤褐色の煉瓦部分が露出しているのが見えています。大理石と化粧漆喰、水とタイル、それに様々な花の咲き乱れる楽園を粗野な外壁で包んでいる様子はほんとうに柘榴(グラナダ)のようでしたよ」
 尚、画像掲示板の485にも、スペインの旅の写真を寄せてもらっている。もっと、見たい方は、紫苑さんのサイトへどうぞ。
 小生のブログ日記に掲載してもいいよ、という奇特な方、投稿を待ってますよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/26

時雨ていく

s-DSC01117.jpg

 日中は今にも泣き出しそうな空だった。今は既に暗くなっていて、部屋の中からは雲行きなど伺えない。昨日までの小春日和が夢のような寒さ。
 今日の表題は「時雨(しぐれ)」を選んだ。どの言葉もそうだが、この言葉も語感が素晴らしい。
 が、言葉の意味するものに情感が篭っていて、それゆえこの言葉までが情味溢れるものに感じられるのか、それとも純粋に耳障りの良さを覚えているだけなのか、よく分からない。
 しかし、日本語の分からない人に(つまり、日本人以外だけじゃなく、古来よりの言葉を解さなくなった若い人も含めて、という意味だったりして)この時雨という言葉を呟いてみても、掠りもしないで右の耳から左の耳へと素通りしてしまうのだろうから、やはり、単に語感の問題ではなく、この言葉への思い入れなどがないと、言葉の美しさも何もあたものではないのかもしれない。
 さて、「時雨(しぐれ)」は、冬の季語であり、「しばらく降ってやむ雨」で、他に類似する言葉として、「朝時雨・夕時雨・小夜時雨」などがある。最後の小夜時雨など、ついつい使いたくなってしまうような魅力ある語感であり表記であり、意味される何か、を感じる。

 ところで、今回のこの雑文、当初は「時雨」を表題にして書くつもりではなかった。実は、「散居村 季語」をキーワードにして、散居村の情報を集めようとしていたら、検索の結果、「雑楽篇(その一)」というサイトが見つかったのである。その網に掛かった検索語を含む文は、次のとおりである:
「秋の末から冬の初め頃に降ったり止んだりする雨を「しぐれ(時雨)」と呼び、初冬の季語となっています。「しぐれ」の語源は、(1)シバシクラキ(暫暗 ...垣内とも)」と呼ぶ屋敷林で囲まれた家が散在する散居村の景観で ... 」
 散居村が季語ではないだろうことは、さすがに素養のない小生でも見当が付く。ただ、散居村について綴るための情報が欲しくて、しかもできれば俳句などに関連するような情報が欲しくて上掲の検索語で検索したら、「しぐれ」の語源は、(1)シバシクラキ(暫暗 ...」なんていう下りがある。
 もう、散居村のことは後回しである。まずは、「しぐれ」の語源の説明文を覗いてみたい!
「233むらさめ(村雨)・しぐれ(時雨)・ひさめ(氷雨) 」の項に、「一しきり強く降っては止み、止んでは降る雨を「むらさめ(村雨)」といい、「群になって降る雨」の意と解されています。 」という村雨(むらさめ)の説明があったあとに(この「むらさめ」も好奇心や美感を擽る言葉だ!)、目当ての「しぐれ」の説明がある:
「秋の末から冬の初め頃に降ったり止んだりする雨を「しぐれ(時雨)」と呼び、初冬の季語となっています。「しぐれ」の語源は、(1)シバシクラキ(暫暗)の義、(2)シクレアメ(陰雨)の略、(3)シグレ(気暗)の義、(4)シキリクレ(頻昏)の義、(5)シゲククラム(茂暗)の義、(6)紅葉を染める雨であるところからソミハフレリ(染葉降)の反シフリの転、(7)イキグレ(気濛)の義、(8)シ(助詞)クレ(暗)からなどの説があります。 」という。
 この項には更に詳しい説明や、「ひさめ」の説明もある。興味のあるからは覗いてみて欲しい。

 散居村を調べようとしていたら、時雨というのは、冬の季語、それも11月の季語なのだと、知ることが出来た。上記のサイトでは、「秋の末から冬の初め頃に降ったり止んだりする雨を「しぐれ(時雨)」と呼び、初冬の季語となっています。」とあるが、別のサイトだと、「初時雨はその年の冬、初めて降る時雨のこと。」と説明されている。
 ネットで探すと、時雨という言葉を織り込んだ句を幾つも見出すことができる。しばしば引用させてもらっている「日刊:この一句 バックナンバー 」から、幾つか:

 法然院さまに時雨の寸志ほど   石動敬子
 大原の子は遊びゐる時雨かな   高浜虚子
 山の音時雨わたると思ひをり   森澄雄
 托鉢の出会ひがしらや能登時雨   市堀玉宗

 他にもいい句はないかと物色していたら、「時雨」について、再考を迫るようなサイトを見つけた。「石垣島地方気象台」というサイトの一頁のようだが、冒頭に「沖縄でも木枯らしが吹き、時雨れるか」という句(?)が載っている。
 句に「?」を付したのは、この引用に句読点が打ってあるので、句と呼称して構わないのか、判断が付かないからである。
 しかし、興味深いのは本文だ。さすがに石垣島からの観点だからだろう、「木枯らしは時雨を伴なう。冷たい北西季節風が暖かい日本海を吹き渡るときに発生した積雲が、本土に達したときに降らせる雨を、ふつうは時雨と呼んでいる。」と、「本土」を相対化して見る視点がある。
 時雨は、にわか雨と同じものだが、「時雨は文学的な表現であって、気象学の用語ではない。」
 また、「気象観測や天気予報では、時雨はにわか雨と表され、味もそっけもない。」とも言う。この点は異論がある。少なくとも小生の感覚だと、にわか雨という表現は、味も素っ気もある。こっそりと、さりげなく地の文章の中に織り込んで、叙述の味わいを醸し出す、言ってみれば隠し味的な言葉になりえる。好きな言葉であり、表現される状況なのである。
 それはさておき、以下も興味深い。つまり、「時雨というのは季節が晩秋から初冬に限定されるため、天気予報用語では「できるだけ使用しないようにしたい」という条件がつけられている。晩秋から初冬にかけての冷たいにわか雨なら、沖縄にだって頻繁に降る。そんな雨も「時雨」と呼べるだろうか。」というのである。
 なるほど、だ。もっと、続く。「『日本大歳時記』(講談社版)によると」として、以下、同書から引用されている。ここでも再引用させてもらうと、、「時雨とは本来、急に雨がぱらぱらと少時間降ることであり、北風が強く吹き、連峰の山々に当たって降雨を起こした残りの水蒸気が山越えしてくるときに見られる現象である。だから、降る範囲も非常に狭く、また盆地に多く、京都のような地形のところに、しばしば見られる。…(中略)… そのような京都近辺で生まれ、京都人士によって磨かれた季節感情を、他のさほどでもない土地でも模倣して、民謡端唄の類に至るまで同じような発想で、時雨情趣をうたって来たのである。」
 筆者の痛烈な叱責は、時雨という言葉の安易な使い方をする小生のような人士に向けられているわけである。
 この頁の最後には、時雨の語源について、興味深い記述がある:
「沖縄の古語『おもろさうし辞典』には、「あま・くれ」という語があり、雨、夕立、一時的な降雨の意とある。「あま」と「くれ」は対語または同義語として用いられ、「くれ」は今でも「雨ぐい」、「夏ぐれ」という方言に、その面影をとどめている。  時雨の語源は「過ぐる」から出た「通り雨」(広辞苑)というが、時雨(し・ぐれ)の「くれ」は、おもろ語にそのルーツを残しているように思えてならない。」
 この「時雨」という言葉一つとっても、語源探索に限らず、調べてみる余地が相当にありそうだ。
 そして、自分が時雨に限らず、言葉の担う歴史や背景、土台、思い入れ、そのどれをも何も知らないことを痛感したのだった。気持ちが時雨れてしまいそうである(なんて、安易な使い方をしてしまう小生なのだ。これが表題を「時雨ていく」にした由縁である)。

 さて、小生、「散居村」(砺波市)のことについて書くつもりだった、そのための情報を集める過程で、脱線してしまったと冒頭で書いた。散居村について、今更、小生如きが何を書くのか。
 大体、小生、既に、散居村のことについては、若干だが書いている(「富山の部屋」の頁の中の、「砺波市の散居村(付 : 富山が南京玉すだれの発祥の地)」)。
 散居村は、「全国では出雲の斐川(ひかわ)平野、静岡県の大井川扇 状地、北海道の十勝平野など、富山県内でも黒部川や常願寺川、神通川などの 扇状地の一部に見られますが、広さにおいても散居の仕方においても砺波平野 がもっとも典型的」なのだという。
 実は、過日、朝日新聞に<砺波発>として、[「散居村」景観の危機 田んぼに住宅点在]と題された記事が載っていたのである。「台風、屋敷林2万本倒す」とも副題にあった。
 朝日新聞の記事は、ネットでは読めなかった。なので、東京新聞の当該頁「『かいにょ』に台風23号 北東風猛威 倒木相次ぐ 自然と共生 教訓残す」を参照する。
 この記事の冒頭には、以下のようにある:
「かいにょ(屋敷林)がなくなる-。十月二十日の台風23号で、砺波平野の散居村が大きな打撃を受けた。雨を伴った強風が何時間にもわたって吹き荒れ、アズマダチなど伝統的家屋の周りに植えられた樹木が次々と倒れていった。被害に遭わなかった家はないと言われるほど。「かいにょはもうあかんチャ」-この際、屋敷林をすべて切ってしまおうという声まで聞こえてくる。倒木が相次いだ理由や、世界遺産の候補にとの思いまである散居景観を守るには何が必要かなどを考えた。(砺波通信局・鷹島荘一郎)」
 ところで、恥ずかしながらなのだが、小生、屋敷林を「かいにょ」と呼ぶことをこのサイトを覗いて初めて知った。
 「かいにょ(屋敷林)」のある「散居村を残そう」という運動も行われてきた。
 その矢先の台風の襲来なのだった。
 台風23号で、「倒木が激しかった主な原因は、風の向きにあった。砺波平野の風の多くは南から吹く。「井波風」と呼ばれ、樹木もこれに耐えられるよう根や枝を張ってきた。それが、台風23号は思いがけない北東風。間断なく降った雨で地盤が緩んだところへ、二十日夜を中心に半日あまり吹き続けた強風で根が返ったり、将棋倒しになったりした。」という。
 この記事の中で、「かいにょ倶楽部の柏樹さんは「こんな災難、もうけもんやと思わなければ。今度は何の苗を植えようかと考えれば楽しくなる」と発想の転換を説く。その上で、スギ中心だった屋敷林をカシやケヤキなど各種取り交ぜて植えればいいと提案。それも並べるのではなく、間を空けて千鳥植えにと要望する。」とあるのは心強い。
 スギ花粉も戦後、木材を逸早く育てようと、古来からの樹木ではなく、育ちの早い杉を安易に植え過ぎたことも背景にあるというとが、屋敷林が、スギ中心になっいていたことも、台風での被害を大きくする一因だったわけだ。屋敷林は防風林の役目も果たしていると思っていた小生は、見る目がなかったわけである。

 話は思いっきり飛ぶ。
 小生は、仕事柄、いつも朝帰りである(たまには艶っぽい事情で朝帰りし見たいものが)。徹夜仕事なので、七時前後に帰宅する小生は、疲労と売り上げの悪さで意気消沈し、グッタリしている。
 そんな小生を慰めてくれるのは、近所の白猫さんである。オスなのかメスなのか、幾度も眺めてきたのに未だに分からないのだが、かなりの老い猫さんだ。動く姿をめったに目にしない。
 その猫さんの勇姿など撮って、人様のサイトに貼り付けたりしている。その猫さんの画像を額に入れてくれた方がいる。以下は、その作品。我が守り神であり白猫殿が一層、気品溢れる姿になっている。
 しかも、今度は、その同じ白猫殿を他の黒猫さんたち共々、素敵な居間に鎮座している。小生は、白猫殿が玄関先に坐っている姿しか見たことがないので、いつか、白猫殿のこんな光景を実見したいものと思うのである。

 最後に、冒頭に掲げた写真は、今朝、ある踏切を渡る瞬間に撮ったもの。線路は続く、何処までも。でも、何処から来て、何処へ行くのか、暗雲と薄闇に視界が阻まれて、何も見えない、分からない。我が人生のようだ、なんてのは、気取りすぎかね。
 それじゃ、気取りついでに、昨夜、公園で見かけた光景から浮かんだ句などを。公園で忘れ去られたのか、捨て去られたのか分からないけれど、玩具やら三輪車やら手まりやらシューズの片割れなどが落ちている。玩具たちが寂しそう。
 拾って持ち主に返したいものだけれど、そうもいかない。夜になり子供たちの体温もすっかり消えて、月の光をやんわりと受けていたっけ。ついでに即興の句も混ぜとこう:

 行き暮れて手まり一つの転がって
 三輪車乗る人もなしにペダル揺れ
 靴一つ足の抜け殻示すごと
 時雨ゆく人の温もり晒すごと
 笑い興じ戯れし日は夢なのか
 時雨れても遊びをせんと待ちけるか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/25

網代

unga-2.jpg

 今回の日記・随筆の表題を「網代(あじろ)」にしたのは、11月の季語の中で水に関連するものがないかと探した挙げ句、適当な言葉・題材が見つからず、やや苦し紛れに選んだ結果である。
 掲げてある写真は、東京湾、と言いたいところだが、もう数十メートルも歩けば運河という場所から運河方向を捉えたもの。デジカメは用意してなかったので、携帯電話のカメラで急遽、撮った。
 なので、画像が不鮮明で、実際には映っている海の波の緩やかに揺れる様は、伺えないようである。時に運河や東京湾を遊覧する船も通ることがある。いつかは、そんな光景も撮ってみたい。
 で、運河の写真ということで、「水」を連想し、11月の季語で海や水を連想させるものを探して、結果、「網代」に至った。とても分かりやすい連想である。
 この「網代」という言葉について、説明しておいたほうがいいかもしれない。特に自分自身のために。
「歳時記~四季折々の言葉たち~」というメルマガの「歳時記その141~網代~」で、「網代」について特集してある。このメルマガの発行サイトは、前日の日記・随筆でも紹介した「閑話抄」である。
 あるいは、「俳句歳時記(第17号)」でも、「網代」の特集となっている。
 つまりは、「昔からある漁法のひとつで」、「細い竹や柴をを水面に刺して、そこに網を仕掛けて魚を導いて、
その終点にワナを取り付けて魚を取る。」もののようである。
「歳時記~四季折々の言葉たち~」には、その漁法がより詳しく説明されている。嬉しいのは、我が柿本人麻呂の歌が紹介されていること:

    もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
                (『万葉集』巻3-264:柿本人麻呂)

「ここに出てくる網代木というのは網代に打つ杭のことである」らしいが、「延喜式によると、この頃の網代で捕ったのは氷魚(ひお;鮎の稚魚)で」、「当時から冬の漁法として確立していたと思われ」るという。
「歳時記の網代は湖や川、波の穏やかな入海などの仕掛けを指していますが、海で網を引く場所をも網代といいますね。一般に網代というとこちら、海の方の網代の方が通用し、また広く使われているのですが、詩歌の世界ではあまり対象とは成りませんでした。この点は非常に面白いところだと思います。」この点は、小生も同感で、俳句の世界でのみ、徘味のある風物として今日まで生き延びてきたわけである。
 小生、サラリーマン時代は、運河を見下ろすことのできる倉庫で働いていた。運河に面する岸壁では、休みの日、あるいは休憩時間ともなると、魚釣りに興じる姿を散見したものだった(今も、見られるが)。運河には、古びた苔むしたコンクリートの杭などが見られたりする。
 それは別に網代というわけではないのだが、ゆったりと流れる海の水が杭に流れを妨げられ流れを乱し、一旦は二手に分けられるのだが、それも束の間のことで、やがてまた合流し、何事もなかったかのように緩やかな流れを見渡す先の先まで続けていく。そんな様を、忙しい日々、窓辺や外階段の踊り場などで手摺りに持たれてボンヤリ眺めていたりしたものだった。

 さて、小生、上に掲げた歌に限らず、柿本人麻呂の世界が大好きである。好きという表現では、まるで足りないかも知れない。西行の上を行く芭蕉、その更にずっと上を行く人麻呂の世界なのだ。
 人麻呂の歌で好きなものは数々ある。

 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
 天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ
 天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
 鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
 ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 最後の、「東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」は、不思議すぎて妙に印象に残る歌である。柿本人麻呂については、直接は言及しないで来たが、白川静氏の『初期万葉論』/『後期万葉論』に寄せる感想文の中で、若干、触れている。
 が、実は、その感想文からは洩れているが、メルマガの[後欄無駄]で、この歌を巡る話題を扱っている。その部分を転記する:

 特に最後の『初期万葉論』の中で、かの有名な柿本人麻呂の歌、

  東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ
 
について、いつのことを歌っているか、正確な年月が分かったという話には、ちょっと驚いた。
 その歌われている時間は、持統六年、西暦六九二年十二月三十一日の午前五時五十分頃だというのだ。
 東に曙光が立ち、西に月かげが傾くま冬の払暁の光景ということから、割り出された時間だという。(本書、p.119)
 ま、知っている人は知っている知見に過ぎないのかもしれないけれど、正確な時間を知った上で歌を詠むと、また格別な感懐があるような気がする。
(02/10/17記 転記終わり)

 まあ、余談の余談に過ぎない話だが、興味を惹く話題だったのだ(この話題は、「十三夜の月見」というエッセイでも触れている)。
 それにしても、人麻呂の歌は、音楽的なような気がする。「歌」なのであり、本来的に歌謡なのだから、当然なのかもしれないが。
 というより、人麻呂の歌は、誤解を恐れずに言えば、呪術的なのだと思う。言葉が、まるで巨大な岩だったり、大地だったり、逆巻く波、あるいは細波に日の光のチラチラ揺れる緩やかな海の面(おも)だったりする。
 言葉が命を持っている。物事に名前が付せられたら、その瞬間に名指されたモノたちがムックリと起き上がってきて、人間を囲繞してしまう。世界が物活的で、森羅万象が、それこそ今となっては童話の世界でしか描かれないしリアリティを持てなくなってしまった、原初の、元来の、根源の命を担っている、いや、命そのものなのだということをまざまざと感じさせてくれる。人麻呂の世界は、そうした世界に立ち会っているのだ。
 人麻呂については文献は多数ある。梅原猛氏の『水底の歌―柿本人麿論』も印象的だったが、「もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」という歌の解釈に関連して、古田武彦氏の『人麿の運命』(原書房刊)が興味深かった。
 あまり参考にはならないが、小生自身、「古田武彦著『人麿の運命』の周辺」という書評風エッセイを書いている。

 またまた余談に迷い込んでしまって、冒頭付近を書き始めた時に書こうと思っていたことがまるで書けないでここまで来てしまった。
 小生、水のことに触れたかったのだ。網代も運河も、その引出しの取っ手口に過ぎなかったのに。
 水のことについて語りだすと、切りがない。ま、稿を改めて、そのうち、触れてみたい。
 せっかくなので、取っ掛かりとして、以前、書いた文章を転記しておく:

 今、青柳いづみこ著の『水の音楽』(みすず書房刊)を読んでいるが、その内容はともかく、あのドイツ・ロマン派の代表的作家であるE・T・A・ホフマン。
 ホフマン(1776-1822)は、もとウィルヘルムという名だったが、尊敬するモーツァルトへの傾倒から、アマデウスと改名したとか、生活の実務においては法律家として過ごしたが、人生の大半を音楽家として過ごしたとか、である。
 本書は、副題が「オンディーヌとメリザンド」とある通り、水(の精)の音楽の背景を神話などからの変遷を巡りつつ探求したもので、ホフマンも、フケーの『ウンディーネ』を読んでオペラ化したということで、採り上げられているのである。
「ホフマンが書いたベートーヴェンの『交響曲第五番』についての論評は、音楽美学のひとつの源流として評価されている」とのことだ。なんとか、一読してみたいものだ。
(02/05/10記 転記終わり)

 青柳いづみこ氏については、昨年のデータになるが、「青 柳 い づ み こ ピ ア ノ ・ リ サ イ タ ル」で経歴などが分かる。
 叶うことなら、ヘンデルの「水上の音楽」、あるいはベートーベンの「月光」などを聴きながら、執筆できれば最高なのだが、そうもいかないだろう。
 ま、またの楽しみとして、水をめぐる随想を書く機会を待つことにしよう。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2004/11/24

青写真

s-DSC01107.jpg

 この日記を書くに際し、例によって表題を何にするかで、迷ってしまう。昨日、勤労感謝の日、小生は、不況の最中、仕事があることを感謝しつつ、今朝まで都内を空車で走らせていた。別に好んで空車で走っていたわけじゃなく、なかなかお客さんにめぐり合えず、業界用語(といっても、俗な表現で、決して正式な用語ではない)で言う<空気を運ぶ>状態がずっと続いていたのである。
 走りつかれると、駅などの長い空車の列の後尾に車を付ける。で、目を閉じたり、歩道を行く人をぼんやり眺めたり、看板の文字に見入ったり、空など眺めあげてみたり、ちらちら本など読んでみたり。
 この「勤労感謝の日」も11月の季語である。なので、この言葉を選ぶかと思ったが、あまりに暇だった昨日のことが思い出されるようで、つらくもあり早々に没。
 ついで、車中で暇の徒然にラジオを聞いていたら、「日記買ふ」が今ごろの季語だという話を漏れ聞いた。聞きかじりなので、聞き間違いかもしれないと、ついさっき、ネットで調べてみたら、確かに冬の季語には間違いない。
 つまり、年末ともなり、今年の日記の空白振りも素知らぬ振りで、今年もダメだったけど、来年こそは新規巻き直しだとばかりに、来年のための日記を買う、そんな季節になっているわけである。
 けれど、さらに調べると、「日記買う」は、どちらかというと、12月の季語として使われるようである。さすがに気が早い。それより、今年の、つまり昨年末に買った日記の空白を使わなかった罪滅ぼしとばかりに少しでも埋める方が、心掛けとして殊勝だ、ということだろうか。
 で、「日記買う」も、アイデアとしてはいいけど、やはり没。日記帳は、さすがにクリスマスのように一ヶ月も前から日記買うぞー、来年の日記記入のイブだぞー、というのには、似合わないようである。
 11月の季語として、そして今日の日記の(といっても、小生、勝手ながら、季語随筆というカテゴリーを立てている。カテゴリーの格に書いている中身が負けているが、制服だって着慣れたら、その人がそれなりに見えてくるの伝で、季語随筆という名目は降ろさない)表題として何がいいか、物色してみた。
「御取越」うーん、取り越し苦労しそうで嫌だ。「達磨忌」手も足も出ない小生を象徴しているようで、つらい。「熊手」これは、やっと山里に冬眠を控えた熊が降りてくるという騒ぎが収まったところだ。今更、寝た子を、というか寝た熊を起こしてどうすると、文句が出そうである。
「大根、大根引、大根洗ふ、大根干す、切干、 浅漬、沢庵漬く、茎漬、酢茎、蒟蒻掘る、蓮根掘る」の系列は、21日の「牛蒡掘る」で代表したことにさせてもらう。
 と、「泥鰌掘る」なんていう季語が11月の季語としてあるらしい。泥鰌を掘る?! 泥鰌って掘るものだったっけ。土壌の間違い? 何か謂れがありそうだ。そのうち調べてみたいものである。 
 実は、その先にもっと好奇心を掻き立てる季語が11月の季語集(季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】)の中に見つかったのである。
 それは、「青写真」! なんで、青写真が11月の季語なのか。他の大概の季語は、勿論、季語として定着するに至るには、それなりの経緯があるのだろうが、なんとなく言葉だけで、そうなのかなと思えなくもない。
 が、青写真となると、小生の乏しい想像力では、どうにもイメージが湧かない。
 小生、青写真が気になってしまった。そうでなかったら、「泥鰌掘る」を無理にでも表題に選んだはずなのである。
 さて、「青写真」が11月の季語だという訳は如何。
 早速、「青写真 季語」をキーワードにネット検索。悲しいかな、小生、歳時記も季語辞典も何も所有していない。川柳や俳句を勉強するといいながら、肝心の事典・辞典の類いを一切、持っていないのだ。これも、この世界に興味を持ち始めたのが今年の七月。一方、本を一冊も(雑誌も勿論)買えない貧困状態になって久しく、今年の四月からは文庫本も全く買っていない。買えないのである。口に入るもの以外は買えない。エンゲル係数がリミットの生活が続いているのだ。今時、エンゲル係数がどうした、なんて、時代錯誤かもしれないが、これが現実だ。どうしてくれる!
 気を取り直して、本題に戻る。
<青写真>というサイトが筆頭に出た。「閑話抄」という小生が使いたくなるような、
奥床しい名前のサイトの一頁のようだ。
 ここには、「青写真」が季語であることの理由を簡潔に書いてある。「一般的に青写真というと設計図面(の複製)や将来設計のことをさ」すが、「歳時記において青写真というと別のものをさ」す。
 その前に丁寧にも、所謂「青写真」のことが説明されている。つまり、「感光度の低い印画紙を用い、上に様々な模様を切り抜いた厚紙を置き、日光に曝して写 し取る、日光写真などというものです。児童雑誌などの付録などによくついておりましたから、皆さんも一度は遊んだ ことがあるのではないでしょうか。」(他のサイトでは、「白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光」という記述も見つかった)。
 なるほど、そういえば、小生が中学生だった頃にか、学習関係の月刊誌の付録か何かに、そういうのが付いてきたような朧な記憶がある。それとも、小学校の時に毎月買っていた漫画雑誌の付録だったろうか。
 説明は続く。「先の設計図などの青写真も同じように感光性の物質を利用して作成します。日光写真も同じような原理であることからこの名がついたと思われます。」という。
 その上で、結論として、「日向に出て自分も日に当たり体を暖めつつすることですので、冬の季語として定義されました。」とされている。なるほど。また、冬の季語であり、「【異名】日光写真」とも記されている。
 ネットで調べたら、以下のような句が出てきた:

  青写真焼けば太陽と帆かけ船    有馬朗人
  青写真少年の夢育ちをり       山田聴雨
  海を見て何時も独りの青写真     三原春風

 なるほど、小生、青写真というと、言葉の使い方として、つい、人生の青写真という表現を思い浮かべてしまうから、何故、冬の季語なのか、それも11月の、という疑問を抱いてしまった訳である。
 小生、密かに描いた構図は、以下のようなものだった。つまり、「日記買う」に、やや通じるのだけど、年末が近付いて、今年を振り返るようになり、ああ、今年も漫然と生きてきてしまった、今年も何もいいことがなかった、万馬券は当たらなかったし、健康診断で引っ掛かるし、宝くじは外れるし、給料は減ったし、ああ、でも、来年は、来年こそは今年よりいい年にする、きっといい年になる、そうだ、そのためには漠然と来年に期待するだけじゃダメだ、それじゃ他力本願の生き方だ、そうじゃなく、自分なりに人生の青写真をせめて来年に向けて描き直してみようじゃないか、新規巻き直しだ! ということで、年末の今、青写真が冬の季語になったのだろう、と。
 きっと、小生のような情ない思いを抱きつつ年末を迎えてしまった俳人がいたのだろう、と。
 小生、そんな青写真を、じゃない、思惑というか、邪推をしてしまったのである。
 が、これでは、年末の季語としての、つまり12月の季語としての理由付けにはなりえても、11月の季語に選ばれてくるには、ちと、難がある。そもそも、小生のようなしみったればかりが俳句をひねるわけもないだろうし。
 
 やはり、11月の小春(小春日和)があるように、晩秋となり、さらに冬となって寒さが身に沁みる頃となったけれど、そんな季節だからこそ、本格的な冬の到来を控えて、束の間の小春日和の暖かさ、日溜りの有り難さ、日向(ひなた)の貴重さが感じられる、そのことを青写真の上での変化に象徴させている。
 つまり、青写真の上での変化は、日の光による変化なのであり、日の光の日溜り、日向が、寄り添い集ったものなのだということ、また、そんな変化を日向ぼっこなどしながら、ゆるゆると楽しむ光景を思い浮かべさせるわけなのである。
 冬の季語としては、青写真は新しい方だろうということは察せられる。芭蕉も一茶も知るはずがない。写真という言葉は、明治になって(幕末?)の造語だろうからだ。生活の変化も、季語の中には現れているわけである。

 ところで、あるサイトに、「日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが…」という記述を見つけた。青写真だけが季語として残り、日光写真は抹消されたということなの、それとも、青写真も最近の歳時記から消されたのか、それが分からない。誰か、教えて欲しい。

 さて、肝心のことが調べ忘れられている。そう、青写真(日光写真)の原理を説明するサイトを検索し忘れているのだ。例えば、こんなサイトが見つかった。「奈良市写真美術館」の「イベント紹介  さまざまなイベント」の頁に、「写真の日の記念イベント」として、「体感!日光写真」の様子が写真付きで紹介されている。
 そこには、「日光写真とは1842年にイギリスのハーシェルという人が、地図などを正確に写しとるために発明された「青写真」(サイアノタイプ)で、一般に日光写真と呼ばれています。線や文字で影になる部分は「白く」なり、何もない光があたる部分は「青く」なります。 日光写真の原理を体全体で体験してもらいます。 」という説明もある。
 また、「実験14-11 『日光写真』」には、原理が詳細に説明されている。興味ある方は覗いてみて欲しい。
人とカメラと写真の歴史」という頁で、日光写真を含めた歴史を辿るのも面白いかも。
 今の我々は、デジカメや携帯電話のカメラ、一眼レフなど、写真には身近というのも今更というほどに親しんでいる。が、青写真(日光写真)の実演を初めて見た頃には、その感激は如何許りのものだったろう。ある種の驚異をも覚えたのだったろうか。
 でも、逆に今だからこそ、日光写真(青写真)なるイベントをやってみるのも、面白いし楽しいような気がするのだが。

 それにしても、ネットで探したかぎりでは、青写真という季語を織り込んだ句を多くは見つけることが出来なかった。ややマニアックな季語ということになるのか。あるいは、ある年代以上の方でないと、実物に接する機会もないということか。
 また、多少は理科系的なものへの興味もないと、実物を見てさえも、何の興趣も覚えない可能性もある。その点、有馬朗人氏の句は、さすがである。科学少年として、好奇心一杯でトライした彼の子供の頃の姿が髣髴とするようである。
 
 小生、今日も性懲りもなく、駄句をひねっている。小生のは俳句ではないのはいいとして、川柳でもない。一体、何なのだろう(以下に出てくる(LA)の正体は、ホームページの掲示板をどうぞ。(LA)さん、変な返句でごめんなさい):


> 紅葉に 負けじと わが店赤字なの   (LA)
     赤字はね白黒テレビなら黒字だよ
     惚れている?違う違うよ照れてるだけさ

> 自転車の サドルにお尻が はみ出して   (LA)
     自転車に乗るつもりがパンクして(重量オーバー?)

> うひゃあ ほんまに今年も太りました(/TДT)/あうぅ  (LA)
      人がいい?人の分まで太ってる
      太ってる?違うのただねふくよかなの

 ここにこっそり、駄句を即興で:

  青写真描ききれない行末か
  青写真我が肉体より濃い影だ
  浮かぶ影我が魂の抜け殻か
  青写真抜かれた型に怯えてる
  青写真我が肉体に浮かんでる
  青写真日を浴びすぎて真っ黒け
  青写真夢の中なら海一杯
  青写真海の彼方の帆掛け舟
  青写真描いた場所は蒲団なり

 掲げた写真は、例によって仕事で朝帰りした今朝の空。場所はいつも朝の光景を撮る地点。タイミングさえよければ、朝焼けの素晴らしい写真になったろう。でも、このいかにも中途半端な朝焼けの感じが自分には妙に好ましかったりする。
 実を言うと、勤労感謝の日の夕方、というには早すぎる感のある3時45分頃、小生はある海辺の道路脇での居眠りから目覚めた。で、ふと、運河のほうの空を見ると、早くも月が。
 まだ周囲は明るかったのだが、四時前とはいえ、既に日差しが弱まっていたのだったろうか、半月よりもややふっくらしたお月さんの姿がいきなり目に飛び込んできたのである。
 だからといって、なんと言うこともないのだが、ただそれだけのことなのだが。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/23

小春日和

 今度は堂々、「小春日和」である。「小春日和?」ではない。
 そう、既に日付上は昨日になるが、22日の昼下がりに書いた日記の時は、もしかして今日のような日和のことを小春日和と呼称するのではないかと思いつつも、他にあれこれ書きたいことがあって、小春日和をネット検索などでその詳細に渡って調べる暇がなかったのである。
 が、今は、この「小春日和」にターゲットを絞って日記というか随筆というか、随想というのか、単なる駄文とあからさまに認めるべきなのか、この小文を綴れる。
 例えば、「季語の四季」というサイトの「冬の季語」の頁を覗くと、「小春・小春日・小春日和」は、「冬の初めの春に似たあたたかい日和をいう」と書いてある。
 一方、紛らわしい季語に「冬晴れ」がある。これは、「冬の晴天。「小春」は初冬の晴天をいうが冬晴れは冬期中使う」とのこと。
 そもそも、「小春」とは陰暦の10月を指すようで、これは現在の11月に相当するわけである。
 東京は(東京に限らないようだが)ここ数日は安定した、まさに小春日和の晴れの日が続くようである。

 さて、この小春日和という言葉、小生はもしかしたら、「秋桜(コスモス)」(さだまさし:作詩/作曲)で知ったのじゃなかろうか、と思ったりする。
 あるいは、その前から耳にしてはいたかもしれないが、山口百恵の歌で秋桜(コスモス)という言葉と同時に記憶に鮮明に刻まれたように思う。
 この歌が流行ったのは、1977年(昭和52年)である。小生が翌年の大学卒業を控えて、一人、陸奥の仙台でアパート暮らしを送っていた頃だった。友人等は、四年で卒業乃至退学していったので、留年した小生は、親しい友もなく、また、パートナーと呼べるような女性を作る才覚もなく、いい意味でも淋しい意味でも一人を満喫(?)していたのだった。
 小春日和は、他の国ではいろいろに呼び慣らす。アメリカでは「インディアン・サマー」と言うのは有名かもしれないが、ドイツでは「老婦人の夏」、ロシアでは「女の夏」、沖縄では「小夏日和」と呼ぶことを知る人は少ないかもしれない。
 沖縄では、他に、十月夏、あるいはナツガマとも言うらしい。
 
 さて、小春については上でも説明したが、その小春から何を連想するかで、その人の素養や人となりが知れるかもしれない。小生など、村田英雄の大ファンだったので、小春というと、坂田三吉をモデルにした曲である「王将」(西條八十作詞/船村徹作曲)をどうしても連想してしまう。
 歌詞に、「愚痴も言わずに 女房の小春 つくる笑顔が いじらしい」なんて部分があるのだ。
 そんな小生のことはさておき、教養のある人なら、小春というと、「紙屋治兵衛と遊女小春との心中をとりあげた近松門左衛門の『心中天網島(てんのあみじま)』を思い浮かべるかもしれない。
 これは、篠田正浩監督の手により映画化されたり、「流山児★事務所創立20周年記念公演」として舞台化されたりして、ドラマとして馴染みになっているようである。原作を読んだ方は、少ないのかもしれないが。小生も、94年の失業時代にやっと原作を読んだものだった。
 あるいは、千春というと歌手の松山千春を連想するかもしれない。小生も好きな歌手である。かの鈴木宗男氏の擁護のために孤軍奮闘されている。フリーター生活にピリオドを打ち、サラリーマンになることを選び、新宿区(中野区)から港区へ引越しした81年の3月、引越し荷物を積んだトラックの中でラジオから松山千春の「恋」という曲を聴いていたことは、(それなりの理由もあり)一生、忘れないと思う。
 他にも、女優で新山千春さんとか小松千春さんを思い浮かべる人も多いだろう。

 ネット検索で小春日和という言葉を織り込んだ句を探してみたのだが、なかなか見つからない。僅かに、「バイリンガル俳句 Bilingual Haiku」というサイトで、松本たかし氏の「玉の如き小春日和を授かりし」を見つけたくらいだ。
 この松本たかし氏も才能のある作詞家(それとも詩人と言うべきか)だと思う。
 それでも、たとえば、俳号は魚眠洞だという室生犀星の句、「小春日のをんなのすはる堤かな」を見つけた。
 さらに、「初冬の小春日和か雪待月」という句を見つけたが、田中康正氏の句なのだろうか。

 と、書いてきて、とんでもない間違い、勘違いをしていたことに気付いた。
 というのは、「玉の如き小春日和を授かりし」の松本たかし氏というのは、小生が知る作詞家の松本隆氏とは違うのである。「日本ロックのエバーグリーン“はっぴいえんど”を経て、歌謡曲・J-POPの名作に多数の詞を提供している松本隆」さんではなく、故・松本たかしなのである。
 尤も、小生、作詞家であり、それ以外でも活躍されている松本隆の詩の世界が好きだが、ここでは、故・松本たかしのほうに話を向けておく。
 あるサイトから句の数々を転記させてもらう:

  枯菊と言ひ捨てんには情あり
  金魚大鱗夕焼の空の如きあり
  芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり
  玉の如き小春日和を授かりし
  チチポポと鼓打たうよ花月夜
  雪だるま星のおしゃべりぺちやくちやと
  我庭の良夜の薄湧く如し
  十棹とはあらぬ渡しや水の秋

 こういう句を詠むと、我が駄句を呈するのが恥ずかしくなる。でも、書くとは恥を掻くことと思う以上は、恥を忍んで今日の成果を示しておく。恥ずかしい思いをしないと成長しないのだね。以下は、あるサイトで水仙で有名な越前岬のことが話題になっていたので、書き込みの際に付した句:

 波頭砕けて匂う水仙か
 荒海に洗われ咲ける水仙よ
 荒海と競うがごとく咲ける花
 遠き日に眺めた波の花の果て

 さて、今日は、カフカの『アメリカ』(中井正文訳 角川文庫刊)も読了したことだし、佐々木正人氏の『知覚はおわらない』(青土社刊)などを読みながら、寝入るとするかな。
 実を言うと、今回の日記は、佐々木正人氏の本の冒頭近くに出てきたある一文をネタに何か、書くつもりだったのだが、予想以上に小春日和に手間取り、当初の思惑を果たすことができなかった。
 テーマは、「水は方円の器に従う」なのだけど、これは、いつか、思い出したら書いてみたい。

 夢にまで小春日和の心地して
 日溜りを小春日和の池と見る
 降る雪も小春日和の空で消ゆ
 池の面(おも)小春日和を映してる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/22

横雲の空

s-DSC01100.jpg

 21日付の日記「冬の蝶」を書いていて、気になっていることがある。それは、掲げた写真に付した説明で、「横雲」という言葉を使ったこと。頭の片隅に引っ掛かっていたのだが、つい、流してしまった。
 この横雲という言葉、誰かの和歌に出てきた言葉のはずと、ネット検索してみたら、案の定だった、藤原定家の歌だったのである:
 
 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空   定家

 他にもきっとこの横雲という言葉を使った人がいたに違いないと更に検索してみたら、やはり、見つかった。西行の歌に出てくるのだ:

 横雲の風にわかるるしののめに山とびこゆる初雁の声   (西行=新古今)

 他にも、藤原家隆(1158-1237)にも、「霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空(新古37)」がある。
 と、書きながらも、まるで定家のほうが「横雲の空」という表現で家隆に先駆けているようだが、実際は違うようである。上掲のサイトには、「横雲の空 「横雲」は水平にたなびく雲。新古今時代、この句を末に置くのが流行ったが、家隆の歌は最初期の例。新古今集に並ぶ定家の「峰にわかるる横雲の空」は、家隆詠に五年遅れる。」と書いてある。
 【主な派生歌】に「ながめやる沖つ島山ほのかにて浪よりはるる横雲の空(飛鳥井雅経)」などがあるとも。さらに、家隆の歌についての【古説】(新古今増抄)も記されていて、横雲の空の理解に資する。
 ネット検索を更に続けていたら、「よこ雲」の織り込まれた、西園寺公経(1171-1244)の以下のが見つかった。「横雲」だけで検索していては、見つからない歌だったろう:

 ほのぼのと花のよこ雲あけそめて桜にしらむみよしのの山 (玉葉194)
 
 実は、上掲の西行の歌「横雲の風にわかるるしののめに山とびこゆる初雁の声」で、歌の中に「横雲」と「しののめ」の二つの雲に絡む言葉が出てくるようなので、改めて「しののめ」という言葉の語義を確かめたかったのである。その際、キーワードに「しののめ  横雲」を使ったら、検索の網に上記の歌が掛かったというわけである。
 さて、「しののめ」だが、やはり、東雲(しののめ)のようだ。同じく西園寺公経の歌「草枕かりねのいほのほのぼのと尾花が末にあくるしののめ(玉葉1159)」にも織り込まれてある。
 しかし、西行のような方が、「横雲」に重ねて「しののめ(東雲)」などと、雲の様子を示す言葉を使うとは信じられない。どうも、小生の理解が足りない。あるいは、昔、勉強したことをすっかり忘れてしまったということなのだろう。
 ネットで調べてみる。「しののめ  東雲 和歌」をキーワードにして。すると、大中臣頼基などという小生には未知の人物のサイトが登場した。「しののめにおきて見つれば桜花まだ夜をこめてちりにけるかな(続後拾遺106)」が掲げられてあって、「しののめは東雲とも書き、東の空がうっすらと白む頃」という。
 そう、つまり、「しののめ(東雲)」とは、雲の様子とか雲の出現する場所を意味する言葉ではなく、時間帯を指し示す表現なのである。教養のある方には、常識なのだろうな。ああ、恥ずかしい。
 ついでなので、「しののめ(東雲)」をもう少し、調べてみる。すると、「国際文化メールマガジン 第11号」というサイトをヒット。その頁を覗くと、「「東雲」にみる恋の昔と今(国際文化学科1年 団上由美)」なる論文が載っている。その説明を転記すると、「「東雲」という言葉の語源は、篠の目から朝の光がもれることから夜明けの意味として使われ始めたことにあるといわれている。しののめという言葉がまずあって、後に「東雲」という漢字があてがわれた、熟字訓である。夜が明けようとして、東の空がほのかに明るくなってくる頃を指している。」という。
 さらに、「この東雲という言葉は、平安や鎌倉の時代の文学や和歌によくみられる歌語である。「明く」にかかる枕詞としても使われているが、恋の歌の中に多く用いられている。」とも。そういえば、古文の時間にそんな説明が在ったような。
 小生、古文も古典も大嫌いだった。そもそも国語の授業も嫌いだった。となると、国語の先生までが嫌いに思えた。そんな懐かしい高校時代が思い出される。
 今ごろになって、勉強のし直しである。やれやれ。

 が、それでも、気になっていたのは、この横雲というのは、一体、どんな雲の状態、空の様子を指し示す言葉なのかという疑問。横雲というくらいだから、横になびく低層雲だということは分かる。しかし、それだけでは、脳裏に映像を描きづらい。
 それこそ、煙突から出る煙が、やや強めの風に吹き流され横の方向へと靡いていく、そんな雲なのか、それとも、遠い空に地平線(あるいは山並み)を覆うように雲の塊が低く水平に見えていて、その上の青い空との対比がクッキリしているように見える空なのか。
 【古説】(新古今増抄)が歌の背景の理解の点で参考になるけれども、具体的な映像はやはり描きづらいのである。
 いずれにしても、「横雲(の空)」が季語ではないことは確かなようだけど。

 ああ、できれば、「横雲(の空)」とは、こんなだ、という映像を示したかった。が、小生の能力ではネットで探せない。
 ガッカリついでに、小生の駄句を(実際には、掲示板で書き散らしたので、それなりの句作の背景や脈絡があるのだが)羅列しておく:

(あるサイトで、トイレのことが話題になっていたので)
 トイレにて売り上げ数え涙する
 公衆便所我が家のより美麗なり
 女子トイレ使われた形跡あるのかな
 金木犀トイレの傍で咲いている
 金木犀臭い消しに使われ哀れ
 冬になりトイレの近い弥一かな
 公園の脇に立っての月見かな
 公園の木立に住む日が近い(予感)
 葉桜も紅葉しきれず冬になる

(我が掲示板にバラの話題を書き込まれたので)
 とりどりのバラの園にて惑う我
 バラとハラ似ているようで似ていない
(バラ→ハラ→自分のお腹、という連想。非常に分かりやすい。「小生は、色白なので、白い腹、です」が、句の前置き)

(以下も、掲示板に書き込まれた句への返しの句の数々)
> 冬の蝶夜の蝶も胡蝶蘭    (mi)
   冬の蝶色香に迷って恋の蝶

> 白猫は小春日和に人探し    (mi)
   白猫は招き猫にと只管打坐

> やれ押すな満員の人胸で受け    (mi)
   押されつつ目当ての人の傍に行く

> 朝焼けの地平の雲を客と見る     (mi)
   朝焼けと夕焼けの空何処違う
   天海を切り裂き分ける赤き日よ

> 後ろ手に縛れる義賊の心意気     (mi)
   後ろ手のそなたを一夜虐めたい
   後ろ手でそなたに一夜責められん
   ネズミさん義賊気取って檻で泣く

 最後である。冒頭に掲げた写真は、昨日の朝、某空港からの帰り道に撮ったもの。茫漠とした空。爽やか、というより、言葉を巡る探索をしても、いつもながら半端に終わる、空漠たる気持ちを象徴しているような。
 その夕方に冷たい雨が降るなど、信じられないような晴れっぷりなのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小春日和?

 今日は久々に図書館に行ってきた。といっても、たまたま近所にあるオートバイの店に用事があったから、そのついでに寄った、というほうがいいのかもしれない。
 今、乗っているスクーター、今度で三回目のリコールの対象になり、その通知が先々週週だったかに来たのである。前のスクーターでも一度なので、通算、四回目のリコールの経験となる。
 小生は、74年冬に中型免許を取得し、即座に中古のオートバイを購入、その年の夏には勢いで大型免許を取得した。以来、3年間の中断を除いて、ずっとライダーだった。それも、スクーターは乗らず、全てオートバイ。最初の一台を除いて全て新車で購入した。
 が、一度たりともリコールの通知が来たことはない。六年前から最初の中古のスクーターに乗り始めるまでは。
 これはどういうことなのだろう。スクーターというのは、オートバイに比べ、リコールがちの難しい機械なのだということ? それとも、オートバイに乗っていた数年前までは、あまり故障の原因がメーカー側なのか、乗り手や販売店(修理店)にあるのかの追求には厳しくなく、全て乗り手の側の責任にされていた、ということなのか。
 まさか、オートバイにはリコール対象になるような不都合は一切、生じないというわけもないだろうし。
 そんな疑念はともかく、不具合があるという以上は、直さないといけない。時間的な余裕があるわけではないが、通知が来、さらに販売店に問い合わせをしてからも一週間を経過してしまった。販売店からは部品がメーカー側から入ってきたという連絡も貰っている。行くしかない。
[我がオートバイ歴については、「Hobby(趣味?)」を参照のこと]

 今日は、小春日和という言葉を使いたくなるような日和。つい先日までの寒さがウソのよう。紅葉前線も足踏みどころか、もしかしたら後退してしまって、一旦は色付いた木の葉たちも、戸惑いつつ、緑色に戻ってしまおうか、なんて迷っていたりするかもしれない。
 オートバイを届ける時間を決め、店に届け、他に点検して欲しい箇所などを告げて、近くの図書館へ。今年初めて、昨年は行ったかどうか覚えていない。その前は、幾度となく通り過ぎているのだけど。
 図書館と呼称しているが、実際には文化施設であって、ダンスや写真展、絵画展などのためにスペースが用意されている。喫茶店もある。名称も、「文化の森」とか。ちょっと敷居の高く感じられる風格あるもの。小生には、気軽には立ち寄れないような名前だ。
 二階にある開架のコーナーへ。少なくとも二年ぶりになるのに、施設が開所して通っていた当時に感じていた蔵書の貧弱さというイメージは、全く、変わらない。何処かの蔵書の場所には、きっと沢山の本で埋まっているものと期待する。
 久しぶりなので、全体をザッと見て回る。書店にさえ、この七ヶ月、立ち寄っていない小生のこと、書籍の居並ぶ様子に圧倒されたりする。目がちらちらする。何度も脚を運んでいたら、それなりに目当ての場所が出来たり、新刊はどうだろう、なんて伺ってみたりするのだが、久しぶりだと、どう回っていいか分からなくなる。
 こんな時は、写真のコーナーに寄って、ヌードの本を物色しようと思ったが、見当たらない。なんで? どうして?
 やはり、久々だとHなる心にも図書館の蔵書はツーと言えばカー、というわけにはいかないもののようだ。
 そうだ、ジョージ・エリオットの本を読みたい、あるかなと探してみたが、見つからない。『サイラス・マーナー』もいいが、『ロモラ』の感動をもう一度、の夢は儚く潰えた。では、ダフネ・デュ・モーリアの本は? 『レベッカ』の世界に浸ってみたい。でも、これもダメ。そのうちに、ジェイン・オースティンの『エマ』が目に飛び込んできた。これだ。
 が、今は、自宅でカフカの『アメリカ』を、車中では、『カサノヴァ回想録』を、つまりは古典に近い本を並行して読んでいる最中である。借りるなら軽めの本を。
 で、宇宙論、考古学、哲学、評論、歴史、数学などのコーナーを見て回った。で、「黒曜石」という言葉に惹かれ、堤隆著の『黒曜石 3万年の旅』(NHKbooks)と、佐々木正人著『知覚はおわらない』(青土社)の二冊に決めた。どちらもかかれている世界は深いし、広いが気軽に読めそう。前者は奥付けを見ると新刊本。おカネがあったら、間違いなく購入しているはずだ。
 念のため、謳い文句だけ、転記しておくと、「人類の痕跡のある始原のときから、ひとびとは黒く輝く石に魅入られた
火山が作った天然ガラスである黒曜石は、打ちかくと鋭利な剥片となり、利器となった。狩猟・採集をなりわいとする人々が、いかに黒曜石を求めてきたか。海峡を越えた黒曜石の旅を追う。」とある。

 黒曜石については、「黒曜石世界」というサイトさんにもリンクさせていただいている。一度は、その店に行って、実物を見たいと思っている。
 が、当分、叶いそうにないので、掌編「翡翠の浜、そして黒曜石の山」を書いて、逸る気持ちを抑えてみたりしたこともある。
 佐々木正人氏の本は、アフォーダンスの理論を紹介する本である。数年前、田近伸和著『未来のアトム』(アスキー刊)を読んだりした際に、少しだけ馴染んだ理論。四年前の本で、新刊ではないが、インタビュー乃至対話形式の部分も多く、哲学には馴染んでいない小生にも分かりやすいのではと期待する。図書館で齧り読みして、読めそうな気もしたし。

 オートバイ店に預けたバイクの修理(部品交換)は夕方5時頃には終わるという。なので、それまで図書館で粘ろうかと思ったが、小生の宿痾(しゅくあ)である居眠りが、机に向かって本を読み始めたりしたら発症しそうで、二冊を借り、いろんなパンフレット類を戴いて帰宅の途に。
 で、今、バイク屋さんに行くまでの待ち時間を利用して、この雑文を綴っているわけである。

 昨夜というか、今朝は、六時前に就寝した。で、十一時過ぎに起床。五時間近く、断続的にだが、寝ている。だから昼間にこれだけ、小生には珍しい量の活動が出来ているのだと思う。
 昼過ぎには、メルマガを配信した。通巻で360号となる。目次だけ、例によって掲げておく:

   目次:●1.「我が友は蜘蛛!」後日談
      ●2.「閑古鳥が鳴く!」余聞
      ●3.白川静著『中国の古代文学(一)』
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 昨夜(正確には未明)には、「無精庵方丈記」に新作を一挙に五編をアップさせた。今週一杯(遅くとも今月一杯)には、手持ちの掌編の在庫を一掃できるに違いないと思っている。
 そうすれば、書きたての作品の即座の公表、究極の産地直送展示が可能となるわけである。
 さすがにホームページの更新は、思うに任せないが、「無精庵方丈記」のほうの態勢が整えば、随時、行うことができるだろう。
 
 さて、表題を「小春日和?」としたが、まさに「?」を付した通りの内容となった。季語については、稿を改めて書いてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/21

冬の蝶

s-DSC01099.jpg

 あるサイトを覗いてみたら、「冬の蝶」という言葉の織り込まれた句を見かけた。「冬の蝶」というのは、冬の季語なのだろうか。
 早速、「冬の蝶 季語」をキーワードにネット検索する。ヒットしたのは僅かに141件(但し、「冬の蝶」だけだと、2千件以上)。「季語」をキーワードに含めると、よくヒットするサイト(「日刊:この一句」)を覗いてみると、「冬の蝶は人気の季語。だが、私はまだ冬の蝶を見たことがない。実際に見る蝶と、季語としての蝶には、本来的に関係がない。季語の世界は現実や体験とは次元の異なる文化的空間だから。」などと書いてある(坪内稔典氏)。
 小生も冬に蝶は、というより、ここ一ヶ月以上は蝶々を見ていない。
 そこで、「雑記蝶」というサイトの「里山の冬」という頁を覗いてみた。
 すると、「冬になると蝶を見かけなくなります。でも、春がくると、たくさんの蝶が見られるわけですから、全くいなくなったわけではありません。命はずっとつながっています。それでは、蝶達はどこにいるのでしょうか? 」などと、冒頭辺りに気を惹くつかみの言葉。
 今や失われつつあるという里山だが、それでも探せば見つかるのだろう(か)。その里山に分け入っていくと、冬だと蛹、あるいは卵の状態の蝶に出会えることもあるのだろう。そういえば、遠い昔、郷里の町の未だ宅地になっていなかった藪の木肌などに蛹を見つけたりしたものだった。
 興味津々というより、どちらかというと何となく不気味な感じを受けたような記憶がある。成虫になれば可憐だったりする蝶々も、幼虫とか蛹の状態だと、愛らしいというより、敬遠したくなるような雰囲気が漂っていた、少なくとも自分はそう、感じていた。
 尤も、鳥などに喰われないよう、人間のみならず他の動物にも目立たないよう、地味な、時に不恰好な、しかし、無用心な姿で冬の時を過ごしているのだろう。
 上掲のサイトによると、「このキタテハを始め、タテハチョウのいくつかは成虫で冬を越します。だから、冬でも暖かい日には飛ぶこともできるのです。」という。但し、成虫の姿だけれど、実際に飛ぶのは、暖かな日に限られるようで、「冬のほとんどの日は、茂みの中や、稀に農家の軒下などで翅をしっかり畳んで、じっとしているのです。」というのである。
 冬の蝶、何か幻想的な感がする。季語としても人気があるのは、小生なりに分かるような気がする。小説のタイトル、乃至は、テーマを象徴する言葉であり、同時にしかも決して完全に幻想なのではなく、実際に自分は見なくとも誰から見た現実である、めったに我が眼では確かめることの出来ない、その意味で歯痒い幻想的な現実。
 小説の書き手なら、何かしら掻き立てられるものを感じないとウソのような気がする。小説でなくとも、短歌や俳句などでは冬には挑戦したくなるテーマであり言葉であり、夢の中のような、しかし厳然たる現実でもあるのだ。

 そもそも、蝶々というのは、その存在自体が幻想的である。そう、めったに見られない冬の蝶に拘らなくとも、春の麗らかな陽気の中、菜の花畑の日溜りの中などを蝶々がフワフワ飛んでいる姿を見かけると、それだけで、胡蝶の夢を思わせてしまう。
 ただ、胡蝶の夢で肝心なのは、「知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。」という下りの先、「此れを之れ物化と謂ふ。」にある。ここから先は、夢見気分では追随できない思弁の世界に分け入る。ちょっとした覚悟が要りそうである。
 
 ここまで書いてきて、この小生が、「冬の蝶」という言葉、イメージに飛びつかないはずがないと、我が「掌編作品の部屋」を覗いてみたら、案の定だった、軽薄短小というか軽佻浮薄というのか、蝶のように舞い、舞い上がった挙げ句、浮き世に吹き流されるがままになるのが得意の小生、文字通り「冬の蝶」なる掌編を年初早々に書いていたのだった。
 例えば、「冬のスズメ」とか、「冬の灯火」なんていう作品も書いているが、「冬の案山子」というのは、創作意欲を掻き立てるテーマだったりする。使われるべき時期を過ぎて、置き去りにされ、忘れ去られ、見捨てられてしまったモノたち。時期外れの頃に、妙に幻想的なほどに印象鮮やかなモノたちの、自己主張の意志など超越し、世間の耳目からも逃れ去り、ただただ自らの内面に沈湎 (ちんめん)するのみであるような、痛いほどに輪郭鮮やかな姿。

 そうはいっても、いざ、自らが創作に手を染めてみると、出来上がる作品は、見るも無慙な姿となってしまう。蛹がどうだとか、なんて言っていた自分が嘲笑われてしまいそうである。
 でも、敢えて表現したいのだ。
 さて、冬の蝶の姿をこのところ、小生も見ていない。それどころか、実際に今週始めだったか、見たものというと、我が部屋でまたまた久しぶりに蜘蛛の姿を見かけた。随分と成長していた。さらに、数日前、消灯してしばらくして、懐かしい、しかし、煩い感じ。そう、蚊! である。
 冬の蚊、なんて、幻想味の欠片もない…、はずなのだが、蚊も、こんな時期外れも思いっきり、突拍子もない時期に現れ、しかも、空中を舞い飛ぶ蚊の奴を、場合によっては手の平で呆気なく掴まえてしまえそうな、動きの鈍い蚊などを見ると、哀れの念を催してきたりして、これは、きっと、俳句の世界では季語に使われているのじゃなかろうか、そんな思いに駆られ、調べてみたら、これまた案の定だったのである。
 そう、「冬の蚊」も、冬の季語だった。ネットでは、「冬の蚊を許してもぐる掛蒲団」という句を「携帯で俳句」というサイトで見つけたが、ホームページが見当たらない:
 http://www47.tok2.com/home/orangejj/haiku.html

 ちなみに、小生は、許さないで、蚊取り線香を使った。一昨年だったかに買った蚊取り線香だが、小生、ケチな性分で、蚊が出現するたびに、数センチからせいぜい十センチほどを千切りとって使う。なので、一つのロールで結構、持つのである。

 冬の蝶追い駆けみれば気だるき蚊

 さて、例によって、駄句の数々を。まず、金曜日の深夜(というか日付では土曜日になっていたが)に作った句の数々:

 秋深し欲も深くて涸れもせず
 秋深し眠りは浅く夢ばかり
 秋の暮れ黄昏時は暗いです
 秋の暮れ紅葉も見ずに冬が来る
 秋の暮れ我が猫殿は何処に行く

 今日の昼過ぎだったかに、「冬の蝶」を織り込んだ句を見つけたサイトに書き込んだ句(着膨れで、駅などで駅員さんが電車に乗るお客さんの背中などを押す姿を見て):

 尻押しの活躍時の冬となる

 せっかくなので、思いつきで、幾つか、ひねってみたい:

 秋深し浅き夢見し朝の露
 遠き空我が夢のごと蝶の舞う
 冬の蚊に風情覚える寝床かな
 哀れなる思いはすれど線香焚く

 掲げた写真は、今朝、そろそろ仕事も終わりに近付いた6時頃、いつもの場所で撮ったもの。写真には、もはや薄くしか写っていないが、屋根の高さに薄っすらと雲の峰が。写す十数分ほど前、それまで暗かった空が一気にという勢いで明るくなってきて、その空の地平線の高さに雲が横に濃く伸び広がっていて、空の透明感との対比が素晴らしかった。
 なので、タクシーを我がスポットに向けたのだったが、運悪く、じゃなく、ありがたいことに、珍しくお客さんが路上に立っておられ、目的地にお届けした。
 で、慌てて我がスポットに戻ったが、かの横雲がすっかり薄まって、狙った朝の空の、これまでとは違う光景を撮り損ねてしまったのである。
 都内では、未だに紅葉というには、中途半端な涸れようで(といって、枯れることを期待しては、葉桜さんらに申し訳ないのだが)、紅葉の写真を撮れなかっただけに、これは、という朝焼けの写真を撮りたかったのである。ちと、残念。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/20

牛蒡掘る

 11月も中旬が間近。なのに東京都心では紅葉を実感する光景に恵まれない。この数日の(平年並みの)寒さで紅葉前線が東京都内にもやってくるだろうか。
 さて、表題を何にするかで迷い、あるサイト(「季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】)を眺めていた。そこには数々の11月の季題(季語)が並んでいる。
 尤も、「11月は、季題が一年の中でも、少ないようです。」と、下に注記してあるのだが。
「沢庵漬く、茎漬、酢茎、蒟蒻掘る、蓮根掘る、泥鰌掘る…」という下りを眺めていて、ふと、そういえば、画像掲示板に写真を寄せてくれた方の日記を読んだら、「ゴボウを掘ってきた」という話題が載っていたなと思い出した。掘った牛蒡は庭の土の中に埋めておくと、長持ちするのだとか。
 で、「牛蒡 季語」をキーワードにネット検索。すると、「牛蒡引く、牛蒡掘る」が秋の季語だと分かった。ただ、11月の季語としては相応しくない。既に季語上は冬に入っているのだ。
 が、ここは小生のサイトである。「牛蒡掘る」を表題にさせてもらう。
 ついでながら、「牛蒡蒔く」が春の季語(3月)だという知識もネット検索している過程で知ることが出来た。また、「古く中国から渡来したが、現在、野菜として栽培利用するのは日本だけ」と記述してあるサイトも見つかったのだが、牛蒡、栄養面でも注目されていて、なかなか興味深い野菜である。虚子の「牛蒡掘る黒土鍬にへばりつく」なんて味わい深い句も見つかった。

 牛蒡というと、きんぴらごぼう。
 ところで、牛蒡と「きんぴらごぼう」とは、どういう関係なのだろう。牛蒡の料理の一種の名前なのか。そもそも、仮に牛蒡の料理なのだとして、そこにどうして「きんぴら」などという冠が被さるのか。
 ネット検索してみると、「名誉院長の季節の小咄」というサイトが見つかった。その中に、「因みに「きんぴらごぼう」は、源頼光の四天王の一人、坂田金時(幼名:金太郎、つまり、坂田金時とは、あの足柄山の金太郎!)の子、金平の強さになぞらえたもの。」と書いてある。
「江戸時代:浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵の創造の世界」の「江戸時代:金平浄瑠璃で主人公に」という頁を覗くと、坂田金時(幼名:金太郎)や金平について、知ることが出来た。この頁では、「金太郎悪く育つと鬼になり」という『柳多留(やなぎだる)』の発表された句も紹介してある。
 が、さて、「きんぴら」が「ごぼう」に冠せられた訳とは。
「和風きんぴら包み焼き」という頁を開くと、坂田金時の子、金平(きんぴら)が親譲りで豪勇無双の者ということになっていて、それにちなんで、「金平牛旁の金平は、精がつく、力がつくという意味をもってい」るのだと説明してある。
 でも、丈夫な奴、強い奴なら昔から少なからず居ただろうに、何ゆえ、金平なのだろうか。
 ところで、小生ならずとも、気になっているだろうが、坂田金時の金時って、もしや、金時豆の金時なのか…?!
 例えば、「食品料理研究室」を覗くと、「金時豆はインゲン豆の1品種。皮の赤色が、怪力伝説の坂田金時の幼名、金太郎の赤い腹掛けのようだとか、怒ったときの真っ赤な顔の色などに例えられ、この名がついたといわれている」などと書いてある。
 別についで、というわけではないが、久しぶりに、季節外れではあるが、「金太郎(きんたろう)  作詞者:石原和三郎  作曲者:田村虎蔵」を歌って元気を出すのもいいかも。
 ところで、最近、知り合った方のサイト(「NRK-LALA」)に、「童謡 わらべ歌 唱歌 世界の民謡  日本と世界の愛唱歌をMIDIにまとめた音楽サイトです」ということで、「童謡・唱歌の世界」へのリンクが為されてあった。
 小生にはありがたいことだった。

 話が段々、ずれてきた。牛蒡を掘る。小生の田舎でも、たまの帰省で季節がその頃であったりすると、お袋か父が庭から牛蒡を掘り出してきて、それを調理する光景を目にしたことがあったことを思い出す。大根、人参、茄子、ジャガイモ、タマネギ…、そうしたものの一つに牛蒡があったのだ。
 が、小生、今は食べられるが、昔は野菜嫌いだった。野菜の類いで食べられるものというと、せいぜいキャベツや白菜くらいだったろうか。ほうれん草も出されたら、仕方なく食べられた。が、人参も牛蒡も茄子もダメ。大根も、沢庵などの漬物になったら辛うじて食べられたが、大根の煮付けなどはダメ。
 小学校に上がる前後の頃は、偏食が極端なまでに症状が重くなり、ついにはご飯にマヨネーズ、ご飯にアジ塩、くらいしか食べるものがなくなってしまった時期さえあった。拒食症ではないが、過度の偏食家だったのは確か。よくぞ生き延びたものである。なんとかご飯だけは食べられたから生き延びられたのだろう。
 その代わり、かなりの偏屈なる人間性が形成されたのは残念なる事実なのかもしれない。

 土の香を毛嫌いせしは我が事か
 
 土の香を愛しく思う齢かな
 
 土の香を愛でてみたくも庭はなし
 
 牛蒡掘るお袋の姿の遠きこと
 
 庭の土生い茂る草に埋もれけり
 
 牛蒡引くお袋の姿目に痛し

 さて、日記らしいことを少々。この無精庵徒然草の別館である創作作品の館「無精庵方丈記に、今日も一つ作品を新規にアップしておいた。タイトルは、「恋は秋の暮れに」である。やや苦い、失恋モノ。まだ、過去の未アップ作品のアップの段階になっているが、徐々に新規に書き下ろした作品を即座にアップするという体制に持っていきたい。今月末か来月始めには、そういう体制になればいいなと思っている。
 その新規の作品だが、今月の第五作目の作品を夜半に書き下ろした。「ディープスペース」シリーズの第六作品にあたり、タイトルは、「 ディープスペース(6):ベルメール!」である。
 ベルメールとは、ハンス・ベルメールのこと。小生が、18歳の頃にレオノール・フィニと共に夢中になった異才。せっかくなので、ベルメールを紹介しているサイトを(今日、掌編を書く際に発見した!)示しておきたい。
ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響 - 球体関節人形を中心に -

 これで、今年の通算が89作品。年間掌編百篇に向け、年内のノルマは後、11個。目標達成が見えてきたというべきなのか、頭が空っぽで、この先が思いやられるというか、ま、とにかく頑張るしかない。このノルマがある限り、小生の執筆上の緊張の糸が切れることはないだろう。

 最後に、我がサイトの掲示板が過日、1万を記録したが、画像掲示板も昨日、500を記録。どうぞ、画像掲示板も覗いて見て下さい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/19

タクシーと忘れ物(お彼岸篇)

 木曜日は雨の営業となった。雨の日は、不況の今にあっても、少なくとも日中はお客さんが乗ってくれる回数が増える。結構、忙しくなる。
 が、景気の思わしくない今は、ただでさえ少ない夜中のお客さんが、冷たい雨に祟られて、一層、減ってしまう。
 そんな愚痴はともかく、雨の日のタクシーの営業というと、付き物なのが、傘の忘れ物である。それは、小生も新人ではないし、心得ているので、支払いを済ませ降りていかれるお客さんに、「忘れ物、ございませんか」などと、必ず声をかける。
 それも、一度ならず二度は掛ける。ただ、雨の日でも、雨が降り続いているなら、さすがに傘を忘れる人は少ない。外の雨、傘、この両者は直結している。雨が降り続いている中でも忘れることがあるとしたら、車を自宅の玄関先に止めた場合だろう。
 タクシーのドアを開けると、それ、急げ、とばかりに玄関の方へ駆け込んでいく、だから、鞄(バッグ)の類いは忘れないものの、傘は置き去りにされることがありえるわけである。
 勿論、小生はそんなことがあっては、お客さんも困るだろうが、こちらも、後の処理が面倒なので、降りられるお客さんの背中に「忘れ物は…」と声を掛けると同時に、後部座席を見る。
 後部座席を見、お客さんに忘れ物のないように声を掛けるのは、雨の日に限らない。天気が良かろうが、お客さんが降りられる時には、毎回、必ず、励行する。
 困るのは、この数年、携行が当たり前になりつつある(なってしまった?)携帯電話である。こればっかりは、お客さんにとっても、大切なものであり、大切さの度合いということになると、傘の比ではないから忘れることなどないだろう、と大方の方は思われるだろうし、小生も、そう思いたいのだが、しかし、年に何回かは忘れ去られることがある。
 小生も後部座席を見ているのだが、時に何故か携帯電話が足元に落ちていたりして、振り返ってみても、シートの上には何もない。ちょっと見ただけでは、お客さんの足元、つまりは、運転手の座席の後部直下辺りは、どうにも分からないのである。
 だからこそ、一度ならず二度、時に三度と声を掛けて、忘れ物のないように願うのである。
 携帯電話などを忘れられると、お客さんを下した後、しばらくして、プルルル、などと呼び出し音が聞えてくる。ああ、やったなー、と、ガックリする瞬間である。小生も携帯電話は携行しているが、走行中はマナーモードなので、震えることはあっても、音は一切しない。だから、音がしたら、人様の携帯電話に決まっているのである。 
 電話に出る(これも、最近のことだ。小生が携帯電話を持つようになったのは、昨年の暮れからで、それまでは、電話が掛かってきても、どうやって出ればいいか分からなかったものだ。それと、着信音も今は、ほとんどの人が自分好みの音楽に設定しているので、プルルルは、古いかもしれない)、で、お客さんの居場所、小生の居場所を勘案し、大概は、小生が携帯電話(他の忘れ物の場合は、お客さんが営業所に電話し、無線などで小生が呼び出しを喰らう)を積んだタクシーを回送の表示にして、お客さんの下へ駆けつける、ということに相成る訳である。
 その間の時間は、営業的に無為のときになる。が、仕方がない。忘れ物をさせたこちらが悪いと受け止める弛緩あいのだから、自分への罰なのだと諦めるしかないのだ。
 それより、お客さんに忘れ物をきちんと届けられたということを安堵するべきなのである。そして、二度と、そんな失敗をしないこと、させないことを肝に銘じる。

 さすがに、忘れ物は、傘を含め、めったになくなった。
 が、今年のお彼岸の日に、とんでもない忘れ物があった。その日は、祭日で、営業的には暇なはずだが、お彼岸は、お墓参りの方が多く、日中に限っては忙しい。
 昼過ぎだったか、とある駅でお乗せした年輩の方と若い方との二人連れのお婦人方を、基本料金で行ける場所にあるお寺へ(基本料金というのがミソなので、敢えて書く)。
 二人をそのお寺で下す。無論、忘れ物はございませんか、と声を掛けた。
 で、小生は車を走らせた。すぐに別のお客さんが乗ってくれた。嬉しい。お客さんが連続するなど、近頃ないことなので、嬉しい。どうやら、そのお客さんもお墓参りの方のようだ。
 が、その喜びは束の間のものだった。お客さんの一言で、一気に暗転したのである。
「あの、忘れ物、ありますよ」だって。
 お客さんがその品物を料金を乗せるトレーに載せた。
 ちらっと見ると、それは、仏事用包装された箱と、その表の包み紙の合わせ目に御供物料でも入っているのだろうか、熨斗袋が挟まっている。
 なんてこった! よりによって、こんなものを忘れるなんて、でも、オレは、お客さんが降りた時に声を掛けなかったっけ? 降りた際に後部座席は見たよな?! ああ、でも、忘れ物があるのは厳然たる事実。小生の頭の中は、真っ白。
 とにかく、今、お乗せしているお客さんを目的地までお届けすることに、頭の中を集中させる。余計なことを考えると事故の元だ。
 目的地で無事、降りていただくと、車を回送にする。で、大急ぎで、先ほどのお寺に戻る。きっと、今すぐだったら、まだお寺に二人はいるはずだろうから。幸い、お寺に戻るまでに十数分だったろうし。
 非常灯を点滅させて車を路肩に止め、お寺の境内へ。墓地には墓石をきれいに洗っていたり、周りも掃除したりしている方が、ポツポツと散見される。花や線香をお供えしている方もいる。手桶から水をすくい、墓石の上からかけて合掌礼拝するわけである。
 中には、水ではなく、お酒を墓石の上から掛ける人もいるというが、その日は、お酒の匂いはしなかったような。
 さて、小生、お寺の本堂というか、受付に足を向ける。先ほどの二人がいないかと探しながら。受付の女性に、二人連れの御婦人の方、見受けませんでしたかと訊く。墓地の方へいらっしゃいましたよ、と返事する。
 小生、仏事用包装された箱(熨斗袋付き)を小脇に抱え、墓地の方へ。受け付けに行く前に眺め渡した限りは、二人の姿を見受けなかったのだが、もう一度、墓地の中を歩き回って探すことに。
 が、二人の姿は見えない。尤も、数人の墓参の方々の中に二人が紛れ込んでしまった可能性もある。さっきの二人連れの姿格好は、どうだったっけ。
 小生、お客さんのプライバシーということで、原則、運転中もそうだが、降りる際にも、あまりジロジロ、お客さんを見たりはしない。鞄など持物には注意するが。
 なので、二人の顔や、まして服装など、はっきりしない。そもそも、無骨な小生のこと、女性のファッションなど眼中にない。一日、一緒にいても、さて、その日の相手の服装の色は、スーツだったかラフな格好だったか、イヤリングは、髪型は、顔は、靴は、そのどれにも自信を持っては即答できない。これは、自信を持って断言できる。
 小生、段々、不安になってきた。目当ての二人は、あの集団の中の婦人達ではないのか…。そういう目で見ると、そのようにも思えてくる。声を掛けて、訊いてみようか。でも、なんとなく違う気がするし。先方も、冴えない中年男に関心など持っていないようだ。忘れ物のことには、さすがにもう気付いているはずだから、小生が小脇に抱えている箱を見れば、ああ、あれ! という表情に変わるはずだし。
 墓地では、それらしい二人連れが見当たらないので、もう一度、受け付けに戻って、中を覗いて回ったり、それでもダメなので、仕方なくタクシーの方へ戻ろうとした。車の中で待っていたら、そのうち、寺の門から二人が出てくるはずだ、それを待っていよう、と思ったわけである。
 で、受付から門へ向かって歩いていったら、ちょうど、門から入って来る御婦人の二人連れに遭遇。どうやら、二人は、タクシーの方からお寺に戻ってきたようなのである。
 二人は、あ! という表情をした。パッと明るくなった。
 小生、あの、先ほどのお客さんですよね、と声を掛ける。二人も、頷いて、そうですと答え、忘れ物しちゃって…。
 で、小生、念のためもあり、箱の上の熨斗袋に記入してある名前を御婦人に尋ねた。帰って来た名前は、ちゃんと合っている。当然だが。
 万が一にも、別の人に忘れ物を渡しては、恥の上塗り以上の失態である。携帯電話も、渡す際には、電話の色を訊いたり、電話にもう一度、架けてもらったりして、相手の確認をする。当然のプロセスだろう。
 箱を渡すと、年輩の方のご婦人は、そこは年の功というのだろうか、熨斗袋の中身をさりげなく確認している。こちらとしては幾分、不愉快だが、それも、当然のプロセスだから、理解できる。中身は、推して知るベシだろう。箱の中身は、軽かったので、煎餅か海苔か、なんて、余計な詮索はしなくてもいいだろう。
 小生が仕事もあるし、急ごうとしたら、ご婦人は「待っていただけますか」と訊く。「ええ、いいですけど」と答えると、「用事はすぐに済みますので、そしたら駅まで戻りますので、また、乗せてってください」と言う。
 こちらは、何も異存があるはずもない。タクシーを回送から空車にして待機。待つこと数分だったろうか、戻ってこられた。で、また、駅へ。駅までは基本料金で済む距離である。降車の際の支払いの時、お釣りを渡そうとすると、「お釣りは、取っておいてください」という。
 小生は、忘れ物を届けた際、一切、<謝礼>は貰わないことにしている。何故なら、プロのドライバーとして、忘れ物をさせたこちらに不手際があったわけだから、相手が感謝しているのだとしても、貰うのは筋ではないと思うからである。
 でも、お寺から駅までの短い走行の際、「今日は、忘れ物、しちゃって、運が悪い、今日は日が悪い、とんだお彼岸になっちゃったと思ってたけど、届けてもらって、よかった。いい日になりました」などと御婦人は語っていた。その気持ちの現れなのだろうと、その時は受け取ることにした。額が大きいと、躊躇うが、あくまで気持ちの範囲に収まるのだし。
 さて、小生、二人が降車される際に、「お忘れ物、ございませんか」と声を掛けたのは、言うまでもない。別に皮肉で言ったわけじゃなく、習慣として言ったに過ぎないのだが、先方様は、どう思われたろうか。
 顔が笑っていたから、そう、きっと結果として微笑ましいエピソードになりました、という気持ちだったに違いないと思うのだけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/18

山茶花の頃

s-DSC01094.jpg
 
 火曜日だったか、車中でラジオを聞いていたら、山茶花のことが話題になっていた。が、すぐにお客さんをお乗せしたので、ボリュームを下げ、運転に集中したこともあり、どんな話だったのか、分からない。
 ただ、頭の中に、山茶花という言葉だけが響く。花の名前というのは、どれもこれも、イメージを掻き立ててくれる。同時に、その名前の付け方に、感嘆するばかりである。前にも書いたが、小生など、歌や句を作られた方より、花など植物の名称を決められた方たちこそ、天才なのだと思う。
 道端で咲く草花を見て、それぞれにこれはこういう名前にしよう、ということで決まっていったのだろうか。それとも、それぞれの草花にちなむ何かの逸話などがあったのだろうか。
 この山茶花という植物の名前も、サザンカという必ずしも流麗・華麗という音の響きではないのに、耳に心地良く感じられるというのは、何故なのだろう。
 そのうち、ふと、遠い昔に歌った、童謡の一節が脳裏に浮かんできた。「さざんか さざんか 咲いた道♪」であり、さらに「たきびだ たきびだ おちばたき♪」と続く。そう、「たきび」である。
 今は、都会ならずとも、焚火など、許されない地域が多いのではなかろうか。山や海のキャンプ地などでは、水をバケツに用意して、みんなで燃え盛る火を囲んで焚火を楽しむ、なんてことが行われているのだろう。小生も、小学生だったかの林間学校で、そんな楽しみを持ったことを微かに思い出す。
 あるいは、大学生だった頃、どういう経緯があってのことか、俄かには思い出せないが、多くは新入生が集まって、キャンプの真似事をし、焚火を囲んだことがあったと、今、思い出したりする。
 この山茶花という植物の名称については、日本において定着するまでには、やはりいろいろな混乱もあったらしい。「椿(つばき)の漢名(中国名)「山茶花」が、 いつの頃からかこのサザンカの名前として間違って定着した。」などというエピソードは、面白い。
 山茶花と椿は、花の感じなど、外見はよく似ているようである。「春に椿、夏に榎、秋に萩、冬に柊と言われるほど、春の季語として有名なツバキ。一方サザンカは冬の季語。ですから秋の終わりからツバキが咲いてると思ったら、まずサザンカかな?と疑ってよく花をみてください。他の花と同じように花びらが散っていたらサザンカですから。」というのは、参考になる話だ。
「さざんかは日本特産種で九州や四国に自生する。」という。そして、「江戸時代に長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師ツンベルクさんがヨーロッパに持ち帰り、西欧で広まった。」だから、「学名も英名もサザンカ(Sasanqua)」なのだとか。
 
 さて、童謡「たきび」を思い出したので、少しだけ、この童謡の事に触れておきたい。
 まず、「童謡「たきび」のうた発祥の地」は、現在の東京は中野区の上高田である。岩手生れの「童謡の作詞者・巽聖歌(本名 野村七蔵 1905~1973年)」が、この童謡を作ったのは、「昭和5、6年頃から約13年の間、功運寺のすぐ近く、現在の上高田4丁目に家を借りて住んでい」たのである。
(ちなみに、小生も、上京した折には、新宿区の西落合のアパートに住み、ついで中野区上高田に移り住んだ。西落合は新宿区だが、実際には上高田へは徒歩で数分だったはずである。上高田のアパートが風呂付きなのが魅力で転居したのだった。界隈には、哲学堂公園や新井薬師寺などがあることなどは知っていたが、「たきび」の作詞者・巽聖歌が居住していたことがあったとは、当時、まるで知らなかった。)
 この「たきび」という童謡には、作られたのが戦中ということに関わる、有名な逸話が残っている。
 「童謡についての一考察 志村和美」というサイトを覗くと、「この童謡は戦時中に「たきびも敵機の目標になる」などという理由で軍部などからNHKの幼児の歌のおけいこ番組などの放送をさしとめされた。」というのである。
 さらに、「戦後の音楽教科書がこの童謡をとりあげたとき、各社版とともに水の入ったバケツと大人の姿が挿絵の中に描かれていたものである。」などと書いてある。

 現代においては、余程、人里離れた場所でないと、焚火をするのは、難しい。が、小生のガキの頃は、町になっていたとはいえ、農村の名残の濃かったこともあり、庭先でゴミを燃やすのは当たり前だったし、ドラム缶か何かの風呂に入った記憶もある。当然、木屑などを燃やす。煙も立ち昇る。が、近隣の誰彼から苦情が来るなどということは、なかった。
 何処の家でもやっていたことで、何も焚火という意識はなく、必要があれば、木切れなどを燃やして、紙屑を燃やしたり、季節によっては、サツマイモを焼いたりする。丁度いい火加減だったのか、ホクホクになった、ちょっと焦げた部分もあったりする焼き芋を頬張るのは、無類の楽しみだった。
 そんな時、みんなして、童謡など、歌ったものだったろうか。

 さすがに、今の住宅事情では、焚火どころか、紙切れ一枚だって燃やすのは、憚られる。焼き芋など、庭先で焼くなど、ちょっと考えられない。
 ホクホクに焼きあがったサツマイモは、現状では夢の夢として、部屋の中では、読書などして、夢想の世界を旅して回る。遥か数千年の昔から、遠い未来へ、東京の都心に繰り広げられるドラマから、世界の出来事まで、極微の世界から銀河の彼方にまで、想像の輪は、何の制約もなく広がっていく。時に、危ない、禁忌の世界へも、本能と欲望の導くがままに踏み迷っていく。
 というわけで、月曜日には、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男・鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫)を読了した。「ポリフォニー小説」という性格と、「カーニバル性」という観点は、今となっては、現代小説論の古典なのだろうし、小生には目新しさは感じなかったのだが、それは、ある意味、常識になっているからなのだろう。
 だからだろうか、時折、引用されているドストエフスキーの小説の断片を楽しみに読んで行ったりして。
 自宅では、週初めから、カフカの『アメリカ』(中井正文訳、角川文庫)を読み始めている。小生などにカフカ論を期待しないだろうが、彼の『変身』は原書で(翻訳では7回か8回。ドストエフスキーの『白夜』と並ぶ愛読書だ)、『城』は、翻訳書だが、繰り返し読んだものとして、改めてカフカの世界の摩訶不思議さを感じている。
 あくまで虚構の作品、想像力の産物なのだが、個々の場面はリアルに描かれているのだが、しかし、どの場面も夢の中に自分がいるような気がする。夢の中での出来事の渦中に自分があって、その掴み所のない分析不能のカフカ独特の浮遊感は、他のどんな作家も真似などできない。
 車中では、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出文庫)を読み始めている。古沢岩美の挿絵もあって、懐かしい。学生時代、アパートで息を潜めるようにして読んだものだった。サドの一連の本、作者不明の『我が秘密の生涯』、バタイユの一連の本、などと併せ、文学的な優劣など度外視して、貪るように読んだ、そんな本の一冊。昔の自分に再会するようで、なんだか息苦しくなるが、さて、四半世紀ぶり以上の時を隔てて読むと、どんな感想を持つものか、それもまた興味津々だったりるす。

 掲げた写真は、昨日の「冬 曙 (ふゆあけぼの)」と題した日記に掲げた写真の数分後に撮ったもの。場所は、小生がよく朝焼けの写真を撮るのと同じ場所である。どことなく不穏な空。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/17

冬 曙 (ふゆあけぼの)

s-DSC01092.jpg

 冬曙 (ふゆあけぼの)が、冬の季語なのかどうか、その前に季語なのかどうかも、分からない。「夜明け 季語 冬」でネット検索してみたら、その筆頭に、もう、例によってというべきなのか、山崎しげ子(随筆家)氏の手になる(「季語の風景」 )一文「冬 曙  ふゆあけぼの」をヒットしたのである。
 写真(写真部・河村道浩)もいいし、文章も簡潔で読みやすく味わいがあるということで、人気があるのだろうか。そこには、句が載っている:

 山の肌冬曙の中に現(あ)れ

 写真と同氏の文章と共に、この句を味わうと、知らぬ間の冬の訪れを風景の中に感じつつも、同時に何か切ないような艶かしさも覚えたりする。
 ところで「夜明け」をネット検索のキーワードにしたのは、今日、掲げる写真が、小生のこのサイトでは恒例になりつつある、夜明けの写真だからである。夜明けといっても、未明から午前に懸けての表現(名称)は、未明・夜明け・早暁・暁・払暁・明け・明け方・曙・朝方・早朝などと数々ある。
 ここに有明などを同列の中の一つとして加えていいのかどうか、躊躇うが、朝方を示す表現も、恐らくは、まだまだあるのかもしれない。
 掲げた写真は、朝の6時1分頃、場所は東京のやや郊外にある住宅街。
 小生が朝の写真を撮るのは、別に、恒例にしようという目算があってのことではなく、仕事がほぼ終わりに近付き、疲れ具合など、場合によっては車を回送の状態にしてあるので、写真を撮る余裕も出てくるからである。
 朝の写真を撮るのなら、バランスを取る(?)意味でも、夕焼けなどの空も撮ってみたい。仕事柄、ずっと外を(東京の都心を)車で走り回っている。日中は渋滞もあり、安全を図る意味でも、カメラはトランクに仕舞ったままにしてある。間違ってもカメラを取り出して、撮っちゃおうという気を起こさないためにも、カメラは手の届かないところに置いてあるのだ。
 が、撮りたいと感じる瞬間は、日中や早暁、夕方に限らず、しばしばある。昨日にしても、夕五時半過ぎ、国会議事堂方向へ向かうため、九段坂上で左折し、皇居周辺の内堀通りに入ってしばらくしたら、右斜め上の空に思いがけず三日月が目に飛び込んできた。
 幸いにして、信号に引っ掛かり、しばしの月見。
 思いがけず、というのは、12日が新月ということもあり、また、週末から週始め、雨がちだったりして、お月さんとも縁が薄かったから、まして、夕方の五時台ということもあり、月影に恵まれるなど、全く、予想していなかったから、そんな、不意に、という感じを抱いたのだろう。
 雲も消え去っていて、完全には暮れきっていない空に、三日月が冴え冴えと輝いている。
 江戸など、昔の人は、月の満ち欠けをどのように感じていたのだろうか。確かに、日々、少しずつ変化していく。変わりようは規則ただしい。月食、日食などのように、思いも寄らない時に(昔の人には)不意打ちのように生じる満ち欠けではない。
 だから、月の姿が日々変化すること自体には、何の違和感も抱かなかったろう。でも、しかし、何故に満ち欠けするのか、という点には疑問を抱いたこともあったに違いない。太陽と月と(地球と)の位置関係に思いが至ったのだろうか。
 それとも、あくまで月単独の<現象>であり、とにかく月はあのようなものなのである、人は、その現実を受け入れ、その人なりに思い入れをするのみだったのだろうか。
 
 ちなみに、「月」は秋の季語である。「名月」も、勿論(理由はともかく)秋の季語。では、三日月は? 
 尤も、月が秋の季語だといいつつ、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」なんて名句があるじゃないか、これは春霞の月を描いて秀逸じゃないか、ということになるのだが、それでも、俳句の世界では月とだけ出てくると、秋の季語と決まっているようである。
 そうそう、三日月があるくらいなので、二日月もある。二日酔いがあるくらいだから、三日酔いがあるようなものか、って、これは言葉遊びでした。
 三日月には、また、別称が多数ある。若月・眉月・始生魄・哉生明・朏魄・麿鑛・彎月・繊月・初月・虚月・蛾眉・(夕月)…。それぞれの名称を時間があれば、調べてみたくなる。きっと、名称の使われる経緯、作られるに際しても謂れがあったに違いないと思うのだが。

 それにしても、何故、「月」というと秋とされてきたのか。恐らくは(以下は、小生の単純な憶測に過ぎないが)、まず、夏とは違う日の短さ、つまりは夜の長さが挙げられるだろう。
 秋であっても、日中は明るい。が、釣瓶落としではないが、秋の日は一気に暮れていく。すると、雲の少ない空だと、暮れなずむ空に星影や月影が冴え渡ってくる。丁度、昨日の小生の感じた、不意打ちの感を覚えたりするわけである。
 この月影の冴え、というのには、更に他の条件も背景にある。そう、なんと言っても、空気の違いである。夏場は、暑苦しいし、蒸し暑い。それは、湿気のせいが大きい。この湿気が、空を幾分か以上に曖昧なものにしてしまう。それは、湿気で視界が若干だろうが、遮られるということと、下界の生命界、植物や昆虫などの動物の蠢きが身近にある。鳥の囀りなど、生き物の生命力を愛でる機会が多いということ以上に、蚊や虫などにうんざりさせられたりする。
 空の若干の不透明さと下界の賑やかさなどが相俟って、空を眺める気分を鬱陶しいものにさせているのかもしれない。
 それが、秋となり、その秋も深まっていくと、虫の鳴き声も聞かれなくなり、かのクマ騒動も新聞紙を賑わすこともなくなって(つまり、動物たちの活動や植物達のムンムンする草の匂いも和らぎ)、夜などは、今とは比較にならない暗さに町中でも恵まれていた(畏怖の念を抱かされていた)だろうし、空に明るい月や星は、時に凄みを持って天において地にある我々を睥睨しているように感じられたりしたのだろう。
 星月夜にあって、人は、天界と対峙するというより、月の船に乗り、星の煌く海、雲の峰々を漕ぎ渡っていったりしたのではなかろうか。そう、背中を吹き抜ける風は、とっくのうちに爽やかさではなく、寒気を覚えさせるものになっている。人肌も恋しくなる。
 それにしても、掲げた写真は、朝、六時である。ちょっと暗すぎるような。写真のほぼ中央に写る丸く淡い光は、勿論、太陽ではない。といって、月影でもない。有明の月だったりしたら、嬉しかったが、住宅街に、それとも、吹き払われることのなかった雲に遮られて、月の姿を見出すことができなかった。
 そう、電信柱にぶら下がる街灯である。その街灯が、やたらと眩しく光っている。空は雲も切れていて、もう少し晴れ渡った感じを写真に撮れるかと期待していただけに、ちょっと意外なほどの暗さが際立つ。
 時代の雰囲気なのだろうか。夜明けという言葉でネット検索したのだけど、本当の夜明けには、まだ相当に時間が掛かるという暗示なのか。
 それでも、夜は明ける。人は動き出す。とにかく、今日の一日を生きるのである。

 夜明け前月の影追う未練かな

 雲の峰月影覆って遠い朝

 三日月に不意を喰らって惑う我

 月影を面影と読む秋の夜

 
(「冬 曙 (ふゆあけぼの)」のことに触れることができなかった。調べられなかったのです。誰か、この言葉について知っている人、何でもいいので、教えて下さい)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/16

冬に入る

tanu-7171.jpg

「冬に入(い)る」というのは、冬の季語のようである。「11月 季語 句」をキーワードにネット検索してみて1万を越える検索結果の14番目に見出したもの。
 それは、「黛まどか「17文字の詩」99年11月の句」と表題にあり、当該頁を覗いてみると、次の句が載っていたのである(その解題は、案内のサイトを覗いてみてほしい)。
 但し、「「冬に入る」とは、陽暦で11月7~8日に当たる「立冬」のこと。俳句ではこの日から季節は冬に入るとされています。」という点だけは、小生自身のメモとして転記しておこう。ま、俳句の世界では、先週から冬に入っているわけである:

 大切なもの皆抱へ冬に入る

 尤も、その前の、「団栗の拾はれたくて転がれり」も、なかなか暖かみがあって、いい。団栗(ドングリ)が秋の季語として出ていて、秋の季語として、今日、採り上げるにも相応しい。
 が、今夜は昨日の雨のせいもあり、寒気が入り込んでいるようだし、いよいよ晩秋の趣が濃くなっている。まだ、冬には幾分の間があるのだが、これまでの中途半端な温みに馴れた体には、冬の到来を予感させて、つい、「冬に入る」を選んでしまった。

 今度は、「冬に入る」をキーワードにネット検索してみる。四千余りの検索結果の筆頭には、なかなか好ましいサイトが浮かび上がってくれた。「季語の風景|冬に入る」である。
 写真(写真部・河村道浩)も素晴らしい。「文・山崎しげ子(随筆家)」となっている。小生の日記を読まれてきた方なら、ああ、前にもこのサイト(書き手)が出たな、と感づいたことだろう。
 文章もいいが、彼女の句も素敵だ:

 蔦の葉の紅を深めて冬に入る

 そうそう、この一文を読んでいて、菱田春草が「落葉(らくよう)」と題された屏風絵を制作して二年程で失明し、「三十八歳の若さで他界した」ことを知った。
 せっかくなので、その絵を「国民絵画の創出―菱田春草『落葉』」というサイトにて、鑑賞してみる。岡崎乾二郎氏の興味深い解説があり、小生としては、このサイトの発見だけでも、日記を書いた甲斐があったというものである。

 この他、ネット上で、「冬に入る」を織り込んだ句が幾つも見つかった(ちなみに、このキーワードだと、上掲の黛まどか氏の句は9番目に登場した。人気を実感する)。ここでは一つだけ:

 凪わたる地はうす眼して冬に入る    飯田 蛇笏

 何故、一つしか挙げないか。実は、「冬に入る」と題された小説があるらしいと分かったからである。それは、「 「冬に入る」を検証する。 ……… 上野友紀子 」をヒットしていたことで分かった。
 このサイトによると、「「冬に入る」は、昭和二一年(一九四六)一月に筑摩書房より発行された雑誌『展望』
の創刊号に掲載されている。 」という。
 どうやら、終戦直後の日本の食糧事情、衛生状態の劣悪さが齎した数千を越えるという餓死者という現実を背景にした小説のようである。
 だが、書き手は誰なのか…。読み進めていくと、中野という名前が出てくる。ということは!
 よって、「冬に入る  中野重治」をキーワードにネット検索する(ヒット件数34!)。すると、やはり案の定で、中野重治の小説なのだった。
 言うまでもなく、中野重治の「冬に入る」という題名は、(恐らく)俳句の季語とはまるで関係ない。検索の網に掛かった「中野重治研究【1】 中野重治と「戦後最初の五年間」  草間健介」を覗いてみる。草間健介氏は、「中野は、単純に季節の「冬」に入ることをさして題名としたのではないと私は考えている」と書いている。
 ついでながら、上掲の一文に引用されている、イェーリング『権利のための闘争』の言葉は、峻烈で、小生には眩しい。念のため、転記しておくと、「あらゆる権利の心埋的源泉、を法感情という。法感情が被った侵害に対して反応する力は、法感情の健康さを試す試金石である。感受性すなわち権利侵害の苦痛を感ずる能力と、実行力すなわち攻撃を撃退する勇気と決断は、健全な法感情の二つの規準だ。」
 たまには、こういう文章も読んで、気合を入れておかないと。

 さて、日記らしいことを少々。この久しぶりの連休は、メルマガも出したし、掌編も一つ書いたし、日記は欠かさず書いたし、この「無精庵徒然草」の別室として、掌編など創作系を載せるための「無精庵方丈記」を設け、三つだけだが、未アップだった掌編などをとりあえず載せたし、まあ、やるだけのことはやったと思う(思いたい)。
 ところで、メルマガなどで示してあるように、この「無精庵徒然草」は、ニフティと同時に、melmaでも出している(「melma!blog」後者には、カウンターが初めから備わっていて、ただ今の数字は、7066である。一日に150回以上、数字が増えている。
 ちなみに、ニフティの「無精庵徒然草」には、土曜日の深夜に設置。今のところ、累計アクセス数が65 となっている。両方を合わせると、日に200回以上の来訪がある、ということなのか。他にホームページへの来訪もあるし、覗かれる回数だけは、なかなかのものだ。
 なんだか、ちょっとプレッシャー?!
 そのプレッシャーを跳ね除けるには、駄句作りというプレジャーが一番:
 
 冬に入る心構えもそこそこに
 秋の香を愛でる間もなく冬に入る
 紅葉を待ち焦がれる間に冬に入る
 ひとり寝の憂きに疼いて冬に入る
 味噌汁を啜る音聞き冬に入る
 冬に入る落ち葉の蒲団被りつつ
 降る雨がいつしか雪に冬に入る
 静かさを持て余しつつ冬に入る

 掲げた絵は、小生がtanuさんサイトで7171というきり番をヒットしたと告げたら、プレゼントとして作ってくれたもの。忙しいのに、ありがとう! 嬉しい! 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/15

荒む心

 荒(すさ)む心などと、穏やかでない表題を選んでしまった。
 別に、仰々しく現代社会を切ってみせよう、などというのではない。
 先月、小生は、「適正診断」を受診してきたのである。これは、独立行政法人の自動車事故対策機構が主宰しているもので、タクシーやトラック、バスなどのドライバーや、その管理業務に携わる者など、自動車運送事業者に義務付けられている、文字通り、車の運転の適正を診断しようというもの。
 小生は、タクシードライバーになって九年を越えた。二種免許を取得したのが、95年の8月、正式に運転手として働き始めたのが翌9月の下旬なのである。
 当初は、自分に運転もそうだが、接客業であるタクシー稼業が務まるか、心配だったが、とにかく、無事これ名馬じゃないが、今日まで大過なく勤めてくることができた。自分なりの努力もないわけではないが、やはり、東京という交通事情の厳しい、地理も複雑を極める場所で、なんとかやってこれたのには、運もあったのではないかと思う。
 ドライバー…、日本語では、運転手。まさに、「運」に弄ばれ天に転がされる面も多々、あるのだ、だからこその運転手なのだと、つくづく思う。
 昨年の10月に、酔払い運転の車が信号を無視して(気がつくのが遅れて)交差点に突っ込んできて、あわや大惨事になりかねない状況に見舞われたこと、小生、肝に銘じているところである(この詳細は、「小生、事故の当事者となるの巻」を参照のこと)。
 自分が気をつけても、どうにもならない…、生きている道路をつくづくと実感したし、運転する状況は一瞬ごとに変化する、決して同じ状況など(似た状況はあっても)ないのだということを、仕事をするたび、日々、痛感している。

 さて、本題に戻ろう。適正診断の結果票を過日、貰った。その内容に、実は感じるところがあったのである。
 9年に渡るタクシードライバー歴で、この診断を多分、4回受けている。
 一番最初の時は、結果が良かった。診断は、主に二つに分けてされる。心理適正診断と視覚機能診断である。
 最初の時、良かったと言うのは、その両者が、適正だったということである。
 それが、視覚機能診断は、多少の波はあっても、ほぼ適正に終始し、今回も、概ね良かった(5段階評価の5がほとんど)。
 が、心理適正診断のほうは、診断結果が低下の一途を辿っているようなのである。ほとんどが、5段階評価の3で、中には2もあった。小学生の頃の通知表より、若干、マシな程度の結果である。
 ちょっとショックだった。この心理適正診断は、「感情の安定性」「協調性」「気持ちのおおらかさ」「他人に対する好意」「安全態度」の5項目ある。それらの診断結果が芳しくなかったということなのだ。
 しかも、診断ごとに劣化しているようでもある。むしろ、この低下傾向に感じるものがあったのだ。
 上記したように95年の9月にタクシー業務に携わった。最初の1、2年は、地理不案内もあり、接客業の難しさを痛感したり、とにかく無我夢中の日々を過ごした。
 が、景気もバブルが弾けた後遺症も癒え始め、経済成長率も3から4%になってきたりして、とにかく、忙しかったのである。休憩も、回送にして路上の人影を避けるようにして、取るしかないという状況だった。
 それが、一変したのは、97年の8月だった。橋本龍太郎氏が総理大臣の頃で、旧大蔵省のいいなりになったのかどうか分からないが、その4月に消費税が3%から5%になり、特別減税を廃止するなどし、消費税アップの駆け込み需要が一巡した8月に、一気に経済が奈落の底に突き落とされてしまった。
 加えて、タクシーへの規制が緩和されて、タクシー業界への参入が容易になった。結果、タクシーの台数が一気に増えた。これらのことが負の相乗効果となって、日本経済のみならずタクシー業界も直撃してしまったのである。
 小生(に限らないが)の売り上げは、前年比8割、7割と落ちていって、98年の1月には5割を切るまでに落ち込んでしまった。
 その後、特別減税の実施などがあり、多少は持ち直したものの、消費税アップ前に比べて7割のレベルを超えることは、結局、今日に至るまで、なかったのである。
 このことは、小生のみの売り上げがダメなのではなく(それだったら、小生の怠慢に尽きる!)、大方のドライバーの数値を見ても、同じ傾向を示す。特に小生のように、流しでの営業を好む者の打撃が大きい。
 この3割以上の売り上げの低下、つまりは収入の低下は大きい。しかも、消費税アップ前は、月に一度は休んでいたりする。今は、お盆と正月以外は、休まない(休めない)のに、3割の低下なのである。
 生活は、完全に一変してしまった。好きな美術館通いも止め、たまに誘われていく温泉も借金の上積みを覚悟となり、昨年は多少の無理をしてライブに行って楽しんだりしたが、それは論外となり、今年に入っては、文庫本も含め、本を買うのを止めてしまった。口に入るもの以外は、電気・ガス・水道・電話を除けば、払う項目で大きいのは、税金という始末である。
 つい最近、食べ物以外で買い物をして嬉しかった。それは傘。それも、ビニール傘で、なんと、スーパーで105円で売っていたので、つい、衝動買いをしたのである。傘を買ったのは(数年前に福袋の中に入っていたのを除くと)、十数年ぶりだと思う。
 生活が最低限の水準でやっと保たれている…。テレビも数年前に壊れたのを機に、やめた(NHKの受信料も、昨年から支払いを止めてもらった)。
 別にカネが全てだと思わないが、外出の一切ができない(動けばカネがなくなるようで)というのは、やはり異常だと思う。走っても走っても、お客さんが見つからず、仕方なく、適当なところに車を付けて、お客さんをずっと待つ。そんな日々が数年続いている。空車で走り回るだけの日々というのは、繁忙で体が疲れる以上に、遥かに神経が磨り減るものである。
 一体、オレは何をやっているんだ、という日々の7年が続いているのだ。不況なのにタクシーの台数を増やして、利用者には便利なのだろうけど、運転手は苦しいだけ。まさに、文字通りの身を切るだけのサービス業になってしまっている。
 そんな中、工夫の余地は、いろいろあるのだろう。でも、業界全体の地盤沈下という現実は微動だにしない。
 タクシーをやっていて楽しいことはいろいろある。その数々を書いてみたいが、そんな元気など、出ない。自分なりに走るルートを探し、お客さんの多そうな場所を見出し、売り上げを伸ばしていく…、そんな日々が儚い夢だとあっては、元気も出ようがないのである。
 やってもやっても、成果が出ない、その不毛の日々が自分の心を荒れさせているような気がする。荒(すさ)む心。余裕のない心。思いやりに欠ける心。情緒不安定な精神状態。その全てがやがて安全態度の劣化に繋がっている…。
 というわけで、今回の日記は、愚痴に終始しました。

 話は飛ぶけど、「無精庵方丈記」も、宜しくね。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

秋湿り

 今日のタイトルを、最初は「雨冷え」にしようかと思っていた。シトシト降りつづける底冷えしそうな冷たい雨を思えば、何気なく付しても、違和感のない、そんな気がしたのである。
 実際、「雨が降り寒さを感じる事。 秋の季語」と説明しているサイトもある。
 が、例えば、別のサイト「季語の四季」だと、「雨冷え」は、冷やか・秋冷・朝冷え・夕冷えなどと同列にされており、「秋も深くなって、冷え冷えとしてくる感じ」なのだが、「冬の冷気とはちがい、快い冷気」となっている。困ってしまう。
「秋湿り(あきじめり)」は、これも別のサイトによると、「秋の頃、長く降り続いて湿りがちな事。また、その雨。」とあり、昨夜来のじっとりした長雨に相応しい表現であるような気がする。
 しかし、歳時記も手元にないし、秋の季語にはそれぞれに微妙な使い分けなり、言葉の使われてきた伝統もあって、使い方を間違っているのかもしれない。
 他にも、前にも紹介した、秋霖(しゅうりん)など、秋微雨(あきこさめ)、秋さづい(あきさづい)、秋時雨(あきしぐれ)、秋驟雨(あきしゅうう)…と、数々の秋の雨を表現する言葉があることを思うと、たださえ季節の移り変わりにも、豊穣なる言葉の世界にも鈍感で疎い小生、気が遠くなるようだ。

 夏の暑さの名残の残る頃だと、雨が降ると、近くの雑草の原から湧き上がる咽るような草の香に鬱陶しくなったりしたものだが、さすがに今ごろともなると、匂いも篭ったりしない。虫の音も、とっくに聞かれなくなっている(尤も、未明に季節外れの蚊に悩まされ、仕舞うのを躊躇っていた蚊取り線香を慌てて使う羽目になった)。
 生命のざわめきが、雨に祟られ、一層、深い静寂の海に沈んでいってしまうようである。今も緑を保つ木の葉の多い、東京の場末の街路樹の葉っぱたちも、雨に息を吹き返す、というより、身を縮こまらせているようだ。
 本を読んでいても、ふとした折に雨の音が耳に障る。部屋の中が、冷え切っているから、好きな雨降りなのに、寒々として感じられてしまう。

 そんな背中がゾクゾクするような昨夜半過ぎ、小生は読んでいた本を置き、スタンドの明かりを消し、やおら、パソコンに向かった。
 そう、創作に専心するためである。例によって、何を書く当てもない。なのに空白の頁を画面上に用意する。まっさらな画面。一体、何を書いたらいいだろう。
 こんな時、弱気になると、つい、過去の作品を覗いて見たくなる。が、これだけは、我慢する。無論、人様の作品も尚更、目の毒になるし、どうしても引き摺られてしまうので、閲覧するなど論外である。
 が、どうにも弱きの虫が疼く。そんな時は、連作に限る。先月末より、「ディープスペース」シリーズを書いていて、第二作は「バスキア!」、第三作は「ポロック!」、第四作は「フォートリエ!」と書いてきたので、第五作目を書くのが無難だろうと思う。
 では、一体、次に、どの画家をイメージするか。クレー? ムンク? デュヴュッフェ? ミロ? ヴォルス? あれこれ思い浮かべた挙句、過日、展覧会があったデルヴォーだ! と思い至った。
 その前に、「バスキア!」、「ポロック!」、「フォートリエ!」というタイトルだが、これらの作品は、別に画家を採り上げたわけではない。また、画家の特定の作品をイメージしたわけでもなく、もっと懸け離れた位相に立って書いている。諸作品を見て、様々な印象を受けるが、その個々の印象などは忘れ去って、あくまで小生の脳裏に残滓としてこびり付いている何かを、掻き削るようにして書いてみたのである。
「デルヴォー!」も、同様である。
 というより、デルヴォーというと思い浮かぶ、「機関車 ガス灯、ギリシャ彫刻、母」などの紋切型のキーワードを作品の中に鏤めるようにして書いた、といったほうが近いかもしれない。
 他にも、ハンス・ベルメールや、エゴン・シーレ、清宮質文、長谷川潔…と、数知れない作家の作品が小生を刺激してくれる。
 それにしても、絵画の世界というのは、現実の世界なのだろうか、虚構の世界なのだろうか。風景画を見て感じ入ったりするというのは、傍から見ていて滑稽とまでは言わないまでも、どこか奇妙だったりする。
 写真作品についても、時に同じ感懐を持ったりすることがある。画廊などで写真の数々が展示してある。人々が見て回る。なるほど、小生にも感じるものがある。秘境や酷寒の地、あるいは日常では見逃しがちな人の表情、路傍の花々。
 でも、それだったら、確かに簡単には見れない場所の絵柄なら、それは専門家の手になる写真を見るに敵うはずもないが、道端の草花や木々、路傍や家の片隅の小動物なら、自分の目で見れるし、一滴の水滴の与える完璧感・宇宙漂流感などは、写真や絵や音楽より、我が肉眼で感じるもののほうが遥かに豊かじゃないか、と思ったりする。
 何を好き好んで人様の作品を介して自然や風景を眺める必要がある。
 勿論、芸術家の目の先に垣間見られる世界は、ボンクラな小生とは隔絶した世界があるのだろうとは思う。
 けれど、それでも、小生は、真っ白な画面に向かい、目は画面を見ているはずなのに、脳裏の奥では、なんだかまるで異質な世界、虚構の世界という安易な言葉でしか、取りあえずは指し示すことの出来ない、とてつもなくはるばるとした夢幻なる世界が広がり始めている。
 自分にできることは、その世界の断片を下手な腕でもぎ取るようにこの世に持ち来たらすだけのことなのである。もがないで、もっと優しく繊細に、その形そのままに、とは思うけれど、これは技術と修練と丹精篭めた思いが必要で、なかなかに叶わぬ心の塩梅の問題があって、尽きせぬ夢、見果てぬ夢の世界のことのようだ。

[閑話休題じゃなく、編集後記でもなく、お知らせ]:
 おっと、肝腎なことを書き忘れるところだった。当面、メルマガの配信は続けるものの、従来、虚構作品の類いは、メルマガでの公表を介さず、時間の空いた時に随時、直接、ホームページに掲載していたが、これでは、いつまでたっても、書き下ろしの虚構作品の、書いてすぐのアップという理想の状態が実現しそうにない。
 そこで、このブロッグの別窓を作り、そのサイトに随時、アップしていくことにした。そのあとで、暇な折にホームページに安置する、という段取りなのである。
 但し、ここしばらくは、今までホームページに掲載しきれていない諸作品を随時、掲載していくことになる。溜まっている作品を収納し終わった段階で、我が理想であり、ネットの強みである、書いた虚構作品を、ホットなうちに、もしかしたら御こげのある状態で公表するという状態が叶うものと思う。
 その別窓とは、「無精庵方丈記」である。この日記風、エッセイ風の「無精庵徒然草」共々、宜しくお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/14

むかごの秋

s-DSC01091.jpg

 タイトルをどうしようかとネットを巡っていたら、「むかご」に出会った。
 尤も、その前に、薺粥(なずながゆ)という言葉が気になっていて、この言葉にしようと思っていたのである。できれば画像などを閲覧できるサイトはないかと探しているうちに、この「むかご」に行き当たったのだった。
 それに、「広辞苑」によると、薺粥(なずながゆ)は、「正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥」ということで、やや季節外れでもある。
 そうはいっても、何故に「むかご」が引っ掛かったのか、分からない。何か、遠い遠い記憶、思い出というには朧すぎる記憶の欠片が、脳裏の片隅でモヤモヤしている。
 先に進む前に、むかご(零余子) の画像を見ておきたい。「食材事典   美味探求」を参照する。
 示したサイトの説明によると、「山芋の葉の付け根にできる小指の頭ほどの球芽です。小さな粒の一つ一つに山芋の香りとコクが凝縮されています。 噛んで外側の皮をプスッと破ると中のトロッとして、かつ上品な中身が出てきます。くどくはないがコクはあるのです」とある。
 さらに、「ムカゴご飯は秋の味覚」とも。
 出来上がった、「むかごの炊き込みご飯」を別のサイト「花山村の自然薯で見てみる。
 ここでは、むかごの炊き込みご飯(零餘子飯)の画像と共に、むかごの自然薯や山芋からの出来方などが説明してある。
「「むかご」とは自然薯や山芋が子孫を効率的に増やし残す目的で、つるの途中(葉の付け根)にたくさんつくる5mm~10mm程度の小さなイモのことです。葉の1つ1つにできるので、1つのつる全体では、大小合わせて100個以上できます。」という。
 小生は、幼い頃にでも、むかごご飯などを食べたことがあるのだろうか。栗御飯や赤飯、たけのこ御飯、松茸ご飯などは、目にしたことはあるが(というのも、松茸ご飯は、松茸・椎茸が嫌いなので、目にしても口にしなかった。松茸を除けながら、ご飯だけ食べていた記憶がある)、むかごご飯となると、どうったろう。
 ただ、朧な記憶の隅を掻き削るようにして思い出してみると、むかごを何処かの林か森で拾って遊んだ微かな場面が浮かんでくる…ような気がする。
 何処かの森か林…。実に、情ない話である。お袋に、里か、それともお袋の姉妹の嫁いだ山間(やまあい)の家に遊びに行った時の体験があるのかもしれない。
 拾い集めて、一体、どうしたものだったか。
 ただ、「いちぢくにんじん さんしょでしいたけ ごぼうでむかごで ななくさやえちゃん ここのでとう」だったか、童歌(わらべうた)というには、流行った歌ではないのだが、何かの遊びの折に、この歌を聞かされたような、歌ったような曖昧な感じがある。
 それともラジオで聞いたのだったか、あるいは近所の誰かに聞いたのか。
 もどかしい。スッキリしない。でも、むかごの感触、手の平に一杯載っけたり、投げて遊んだような…、そうだ、投げた記憶はある!
 まさか、この歌で、一から十までの数え方を学んだわけでもなかったし。
 そういえば、銀杏(ぎんなん)ではないが、むかごを焼いている場面、それとも臭いを覚えているような。これも、曖昧すぎて、もしかしたら、むかごを焼く場面をテレビで見て、それで子供の頃の記憶がフラッシュバックされたことが、それこそ、ずっと以前にあっただけかもしれない。

 むかごは、秋の季語である。ネットで「むかご」という言葉を織り込んだ句を探してみた:

  二つづつふぐり下がりのむかごかな     宮部寸七翁
 
 これは、「日刊:この一句」で発見。坪内稔典氏の説明も読める。

  むかご飯むかご少なく炊くがこつ

 この句は、「ふらんす堂 おすすめ新刊紹介」で発見。遺句集の『恒子の玉手箱  後藤恒子句集』の中にあるようだ。

  落ちてもう土の顔する零余子かな

 この句は、「島春句自解」の中で見出されたもの。

  繚乱の木の香草の香むかごめし

 これは、「2002年12月 藍生 主宰句 崩れ簗 黒田杏子」で発見。
 最後の二句以外は、俳味より川柳の味がするような。手触り感や外見などといったむかご特有の持ち味なのだろうか。それとも、俳句の守備範囲の広さなのだろうか。
 小生の好みは、「二つづつふぐり下がりのむかごかな」も捨てがたいが、「落ちてもう土の顔する零余子かな」が印象的。ドングリじゃないけど、地面に落ちちゃうと、もう、前から落ちていたような溶け込み方。そして、本当に土に還っていく。

 さて、例によって、小生の駄句を示しておかないと、示しが付かない?!

  むかご生(な)る梢の先の秋の空

  むかご投げ木の幹に鳴る音を聞く

  むかご採り夢中で拾って投げ遊ぶ

  むかごの実踏み躙っても癒えぬ傷

 以下の一連の句は、それぞれある人の句(川柳)に寄せて、あるいは連想する形でひねったもの。ある方の句は、「旧無精庵徒然草」で読める。

          恋に暮れ理性の柱根腐れし

          古い夢熾き火のごとく燻って

          マイウエイ歌ってる傍からリストラに

          ときめきをひといろに染め明けの月

          鬱にても風邪を引いたらクシャミする

          税金を督促されて早五年

          何か言う白々しさも思いやり

          しがらみを背負いつづけて生き甲斐に

          遠ざかる面影追って眠られず

          生きていく年輪の数癖を持つ

 忘れていた。今日、二週間ぶりにメルマガを配信した。目次だけ、示しておく:

   目次:●1.閑古鳥が鳴く!
      ◎ 勝手にサイト紹介:田川未明さんサイト
      ●2.前田普羅のこと
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 冒頭に掲げた写真は、金曜日の営業も、ようやく終わりに近付いた土曜日の朝焼けを撮ったもの。徹夜仕事の後の陽光は、やたらと眩しい。何もわるいことをしたわけでもないのに、責められているような。夜通し働くんじゃないよ、とでも、伝えたいのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/13

木枯らし1号が吹いた

s-DSC01055.jpg

 車中での楽しみは、時にお客さんと交わすお喋りもあるが、最近は、お客さんが一人でも、携帯電話で誰かと話をしたり、そうでなくとも、ピッピッと何かやっている。メールでも流そうとしているのか、ゲームに興じているのか、いずれにしても、数年前よりはお客さんとのお喋りという楽しみの機会も減っている。
 尤も、自分に付いては、あまりに長い不況で口を聞く元気もなくなっているような気もするのだが。
 で、お客さんが乗っていない間は、ラジオ(やCD)を聞くのが楽しみであり、また、情報源ともなっている。
 音楽のことは、前にも書いたし、今日は、ラジオから仕入れる雑然たる情報を思い出すままに書き連ねてみたい。
 ここなどにメモ書きすることで、後日、エッセイやコラムを書く時の格好のネタになる、そんなことを期待してのことだが、大半は気になりつつも、次から次へと飛び込んでくる情報の渦に押し流されていくのだけど。

 今週初めの営業の時(月曜日)、「俳句力」という言葉と話を(NHKラジオで)聞いた。小林木造という方が、まさにこのタイトルの本を出されたという。一部では話題にもなっているらしい。小生は、全くの初耳である。
 調べてみると、『俳句力―ゆっくり生きる』(日本放送出版協会)である。なんだ、NHKが自社で出した本の宣伝をラジオで行っているだけのことか…、そんな落ち(?)もあったけれど、それでも話の内容は、聞きかじりだが、なかなか面白かったという印象が残っている。
 ネットで本書の謳い文句を調べると、「東京・荻窪の古びた木造アパートに暮らす自然観察漫画家が、緻密な四コマ漫画で描く、「俳句的生き方」の世界。『NHK俳壇』テキスト掲載「俳句一年生」と、都市の小自然を描いた「東京地方区フィールドノート」を収載。」とある。
 ちなみに、著者名=俳号の「木造」は、著者が木造アパートで長年暮らしてきたことから採ったという。紹介文の中の、自然観察漫画家というのもポイントで、必ずしも売れっ子ではないらしい(?)著者が、漫画を描くに際し、自然観察を積み重ねてきた、その経験が俳句作りに生きている、そんな話も聞けた。
 ネットで探すと、「日刊ゲンダイに掲載された書評」が見つかった。「この作品は教育テレビの講座番組「NHK俳壇」のテキストに掲載されていた連載の単行本化」だとか、「著者の小林木造氏は、生活の糧として官能劇画を描くかたわら、趣味で描いた小さな動植物をテーマにした「自然観察漫画」で注目を浴びる漫画家」といったことが書いてある。
 その上で、「空き地に咲いているソバの花や、公園のケヤキの幹に産み付けられたシロホシテントウの卵など、多くの人が見過ごしてしまう身の回りの小さな「自然」を注視したその作品は、ミスマッチと思われる俳句に相性がぴったりなのだ。というよりも、小さな命をいとおしむように見つめるその作品自体がもはや俳句の域に達しているようにも思える」という紹介が関心を惹く。
「本書では、俳句に初めて挑戦することになった著者が歳時記を買いそろえるところから始まり、句会や吟行に足しげく通って俳句を作る過程をこまやかに描きながら、句会の仕組みや、句作のポイントなどを紹介する」というが、この四ヶ月あまり、駄句作りに勤しんできた(?)小生には、俳句にまともに取り組む著者の姿勢が眩しいし、参考になる。
「俳号の木造は、住まいの築38年の木造モルタルアパートにちなんで思いついたもの。著者は、この風呂もクーラーもないアパートに26年間も住み続けているという」のも、著者の売りに(出版社によって?)なっているのだとしても、それはそれで一つの姿勢なのだと感じ入る。
「自己表現は個の確立につながっていくから「俳句力とは、イコール生きる力」と」著者は主張しているらしいが、確かに小生についても、執筆という形で自己表現をすることで、ふわふわした我が人生に幾許かの芯が通っているのではと思ったりする。書く、徹底してあれこれと書いていくということに拘っていくことで、やっとバラけがちな自分が保たれているのかもしれない。
 著者がどんな漫画を描かれるのか、一つくらいは見たかったが、ネットでは見つからなかった。
 小林木造氏の情報をネットで検索していたら、『中年からの俳句人生塾』(著:金子兜太 海竜社)という本の、やはり「日刊ゲンダイに掲載された書評」が見つかった。本書については、ここでは敢えて中身について触れないが、過日の日記でも金子兜太氏の名が出てきたこともあり、近いうちに読んでみたい本としてチェックしておく。

 同じ日だったと思うが、補助犬の話を断片的にだが聞いた。
 補助犬という名称は、やや耳に馴染みが薄いかもしれない。介護犬や盲導犬、聴導犬と、人の生活などを介助する犬がいろいろあるが、その総称らしい。
日本介助犬アカデミー」という特定非営利活動法人の公式サイトがある。
 その表紙の冒頭に、ちゃんとした説明がある。
「身体障害者の自立を助ける犬-身体障害者補助犬- には、視覚障害者の誘導をする盲導犬、聴覚障害者の耳の代わりをする聴導犬、そして肢体不自由者の動作を介助する介助犬があります。」という。
 ラジオでは、介助犬の話を聞きかじったようである。介助犬の訓練内容とは、「上肢機能の代償として落としたものを拾ったり手の届かないものを取ってきて渡す他、電気等のスイッチ操作、ドアや引き出しの開閉、荷物の運搬、車椅子を引く、姿勢保持や歩行を助ける、体位・肢位移動など、障害者のニーズに合わせた作業訓練を受けます」という。
 ここには、詳しくは書かないが、犬が好きという方に限らず、詳細を上掲のサイトに当たってみて欲しい。特に、「よくわかる補助犬同伴受け入れマニュアル  ~盲導犬・聴導犬・介助犬~」は、もっと広く知られてもいいのかと思った。
 話では、話の本筋ではないのかもしれないが、アナウンサーから、補助犬(介助犬)について、最後に何か特に言っておきたい事はありますかという問いへの返事が印象的だった。
 書き漏らしているが、話をしていたのは、高柳友子氏(日本介助犬アカデミー専務理事、東京医科歯科大学大学院国際環境寄生虫病学分野講師、内科医師)だったと思う。
 さて、彼女が最後にされた話とは、介助犬(補助犬)も、基本的には犬であり、生きている動物だと言うことだ。
 つまり、こうした犬は、上述したように訓練された犬であり、やたら吼えたりはしないし、まして人にどうこうはしないが、ただ、例えば、尻尾を踏まれても「ワン!」の一声も発することがない、というわけではない、ということ。
 何をされても大人しくしていない、虐められても黙っていることを期待されるのは酷だという話。そりゃそうだよね。あくまで、人のパートナーであり、その前に生きている動物なのだということは、周りの人も理解すべきなのだろう。

 他にも、ラジオで今週聞いた話だけでも、いろいろある。羅列しておくと、「童歌(わらべうた)」の話(小生、エッセイ「童謡・唱歌の世界に遊ぶ」などで採り上げてきたが、これからも折を見て、改めて探究してみたい。童歌の世界は奥が深いのだ)、「十月桜」の話、「明珍火箸」の話(ラジオで火箸同士がぶつかって生じる音だったろうか、澄んだ妙なる響きを聴いて感動したものだった)、「ニキータ・ミハルコフ」という映画監督の話、前にも違う脈絡で触れたことがあるが、「炭の復活」の、「11月13日、ヘリコプターの初飛行成功」にちなむ話(但し、「ヘリコプターの日」は、4月15日である。

 一週間で聞いただけで、これだけなのだ(他にも聞いたが洩らしていると思う)。もう、エッセイなどのネタは、ゴロゴロしている。
 ここに小生が車中で、暇の徒然に感じたことを多少なりとも、それも箇条書きで付け加わるわけだし、他に、仕事中に見る都内の風景や奇妙な看板、広告、人物などを並べ立てると、項目だけで日記がパンクしてしまうのである。
 これなど、タクシー稼業の余禄というものだろうか。
 
 そうだ、一つだけ、金曜日に何処かで見かけた店の看板(店名だったかな?)に絡めて遊んでいたことをチラッと。
「やまとや」と書いてあったと思う。
 小生、結局は挫折に終わったのだが、この「やまとや」を使って、駄句など綴れないかと、苦心惨憺していた。
「やまとや」を三文字ずつに組み直して、「やまと」、「やとま」、「とまや」、「とやま」、「まとや」、「まやと」にする。
 例えば、「やまと」は「大和(他に、山戸や山門など)」だし、「やとま」は、「屋と魔」とか「矢と魔」などだし、「とまや」は、「苫屋」(参照:見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ)だろう。
 また、「とやま」は、言うまでもなく「富山(他に、外山や戸山など)」だし、「まとや」は、「的や(つまり、無理を承知で的屋だ?!)」だし、「まやと」は、訳が分からないのだが、無理を圧して「マヤと」とか、「麻耶(真野など)」などと当て嵌めるわけである。
 あとは、順列と組み合わせで、何か駄句がひねり出せないかと、休憩を兼ねて駅で待機しつつ考えていたら、お客さんが乗ってこられて中断、あとを続けることができなかった。
 ま、そんな遊びなどをダラダラとやっているわけである(そんなことばっかり、やっているわけではない! 念のため)。
 参考のため(何の参考なのか、小生にも、さっぱり分からないが)、帰宅して寝入ろうとしたら、ふと、そうだ!「トマト」もあるじゃないか! と閃いたことを蛇足ながらに付け加えておく。
 ま、これで、駄句を綴るための素材は、随分と纏まったわけなのだが、さて。

 冒頭に掲げた写真は、十日前に都内で撮ったもの。写っているのは東京タワーである。ちなみに、小生、一度は上ってみたいと思いつつ、今日まで念願が叶っていない。誰か一緒に登って欲しい。
 さて、その写真、写るは粉雪…、かと思いきや、ジャーン、違うのです。近くの工事現場を通ったら、埃を舞い上げないように撒く水を跳ね上げ、フロントガラスなどが呆気なく飛沫に汚れてしまったのです。
 黙って、十一月の三日に都内で小雪が降りました、この写真がその証拠です、などと言ったら、皆さん、信じてくれるだろうか……。やっぱり、無理そうな雰囲気。
 というわけで、表題の「木枯らし1号が吹いた」に、とうとう、全く辿り着けなかった。ま、頭の中に木枯らしが吹いて、書くのを忘れた、などとも言えないし、この話題は後日、(覚えていたら)書くかも。
 以下の駄句の仕掛け、分かるかな:

 木枯らしよ富山の苫屋飛ばすなよ
 木枯らしに草葉の陰で地蔵泣く
 木枯らしも澱む心を吹き抜けず
 木枯らしを丸ごと受けて撓む木々
 木枯らしか唐辛子かと聞き違え
 木枯らししきりの夜の東京
 木枯らしな吹きそ我が胸に
 木枯らしは冬将軍の先触れか
 木枯らしな吹きそ彼の髪に
 木枯らし白樺の枝葉殺いでいく
 木枯らしに洗濯物の揺れており
 木枯らしな止みそ塵埃の消ゆるまで
 木枯らし空気の澄みて星増える

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/12

金星の光と影…影法師

s-DSC01077.jpg

 いきなり金星の話題などを持ち出すのは、別に、「木星、月、金星が天体ショー」をこの10日の明け方に演じて見せてくれたからではない。
 小生が、この「金星と木星の間に月」が並ぶ光景を肉眼で目にしていたら、大騒ぎしているところである。
 また、天文学ファンなら、常識なのだろうが、今年は、金星の年だから、というわけでもない。「130年ぶりに見える大天文現象「金星の太陽面通過」をはさんで、2004年前半は夕空で宵の明星,2004年後半は夜明け前の東の空で「明けの明星」として絶好の観測条件とな」るなんてことは、今日、たまたまネット検索していて初めて小生は知ったのである。
 当然のことながら、「2004年11月5日ごろ、明け方の東の空で金星と木星が接近」するという天体ショーも、見逃している。

 実は、過去にメルマガに掲載した文章で、そろそろホムペの「エッセイ祈りの部屋」にアップするのに相応しい文章はないかと探していて、それはそれで見つけたのだが、その過程で、「金星が作る影法師?!」(02/01/20 記)という文章を見つけたのである。
 短いので、全文を引用しておく:

 ある本(佐々木正人著『知覚はおわらない』青土社刊)を読んでいたら、ちょっと驚く記述に出会った。
 その本の中のインタヴューの中で、ある人が、「金星の光が強くて、月のない夜には外に出るだけで金星の光が影法師をつくった」と述べているではないか。
 本当だろうか。小生には、本当だとも、そんなことはありえないとも言えない。
 事実なのだとしたら、機会にさえ恵まれたら、自分で確かめることができる…。
 ところで、愚かなことだけど、その記述を読んだ瞬間、小生は、金星が作る影法師を赤く脳裏に描いてしまった。
 勿論、そんなことはありえない。金星が赤いったって、赤くなりえるとしたら、人の周囲が赤っぽくなるのであって、影法師は、影なのだから、黒っぽいに決まっているのだ。
 でも、一瞬とはいえ、そんな赤い影を思い描いてしまったことは否定できない。
 それでネットで「金星 影法師」で検索を掛けてみた。過去にそんなログがあるかもしれないかと期待したのだ。
 結果は、否定的なものだった。
 けれど、小生が読んでいるのと全く同じ対談が、ネットにアップされているのを発見した。せっかくなので、その対談を読めるサイトを紹介しておこう:
ジェームズ・タレル・インタヴュー: 光に触れる意識」(インタヴュー:佐々木正人
  (転記終わり)

 何故、発見なのかというと、「04/10/23」に配信したメルマガで、「光害(ひかりがい)のこと」というコラム風の一文を載せている。その内容の一部は、都会でも余分なライトを加減すれば天の川を見ることができる、さらに、その天の川の光で自分の影が地上に生じるという感激を味わえる! というものだったが、その内容に深く関連するように思えたからだ。
 自分はそんな文章を既に書いている。それも、我が地球の直近の惑星である金星の跳ね返す光で地上に自分の影法師を作れるかも、と。
 そうはいっても、本当に、金星が作る影法師なんてものがありえるのか、未だに半信半疑なのも、事実。
 それだけに、「ジェームズ・タレル・インタヴュー: 光に触れる意識」は、貴重なインタビューなのだと思う。二年前にネット検索で見出したインタビューが未だに読めるのは嬉しいものだ。
 このインタビューの中で、佐々木氏の「光は接触の対象ですか?」という問いに、タレルははっきり「接触です」と答えている。光に触れるという感覚。これは、神秘的な感覚なのだろうか。光を机や紙などの、あるいは水や風などのような物質の流れ・動きと同じように感じ取ることが可能なのだろうか。
 ただ、小生は、皮膚で感じることは、出来ないが(恐らくは、あたら、目が見えるばかりに視覚などに頼ることが当たり前になっていて、皮膚感覚が鈍っているのだろう)、少なくとも夜の空に光の在り難きことを感じることくらいはできる。
 月光のこと、星星のことなど、これまでも散々、書いてきたとおりである。
 
 金星というのは、古来より、何か胸騒ぎを呼び起こす星だったように思われる。そうはいっても、月が出ていると、金星の影は、ここで言う影とは存在感という意味だが、大概は薄まってしまう。弱々しげになりがちである。
 ただ、いずれにしても、金星は水星と同じく、地球から見ると太陽の近くを回っているので(太陽から大きく離れない為)、日の出前や日の入り後のみしか観測できない。宵の明星、明けの明星と呼ばれる由縁で、太陽の光の弱い頃合いに、月光の影響もそれほどない中、地平線(山並みの上)近くに見ることが多いわけである。
 金星探査は、これまで幾度となく行われてきて、金星表面の映像も見ることができる。表面が、二酸化炭素におおわれた「灼熱地獄」だったことも分かってきている。生命体の存在の可能性も薄まってしまった。
 その意味で昔ほどの神秘感を持って金星を眺めることは叶わなくなっている。
 それでも、「ギリシャ神話のアフロディテ、ローマ神話のビーナスと同一視され、錬金術では銅のシンボル、占星術では栄養・富・幸福をもたらす穏健な惑星である。 中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚あるいは太白とよんで区別した。軍事に関する占いに用いられた。」ことくらいは知っていてもいいと思う。
 この中で、「太白」という言葉が出てくる。
「金星 太白」をキーワードにして、ネット検索してみると、「*第三章*金星と神話&宗教」という頁をヒットした。どうやら、「西洋占星術サイト ~月的空間~」という占星術のサイトの中の頁のようだ。
 そこで、「中国では、金星とも太白ともいい、初めは宵ノ明星と暁ノ明星とを別々の星と考えて、長庚(ちょうこう)、啓明(けいめい)と呼びわけていました。唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられたようです。」という一文を発見。
 唐の詩人、「李 太白」! というと、李白のこと?! 急いで「李太白」で検索。すると、筆頭に、『李太白伝』(岡野俊明 作品社)が現れた。
 その本の紹介に、「世の常道を歩むことを拒んだ李白が生涯追い求めたものとは――。唐代の群像の中に描き出した本格的詩人伝。」とした上で、「杜甫とともに〈李杜〉と並び称される、唐代随一の詩人李白。しかし、杜甫とちがって、官職につくことのなかった李白に関する具体的な資料は乏しく、その生涯にいくつもの空白がある。まず、李白はどこで生まれたのか。これもいまに至るも謎のままである。」などと説明されている。
 恥ずかしながら、小生、李白が李太白だったことも知らなかった(何処かで読んだことがあるはずだが、頭を素通りしていた。太白は、字(あざな)なのである)。
 それにしても、「唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられた」というのは、さすがは歴史に名を残す詩人ならではの逸話である。
 せっかくなので、一つだけ李白の詩を掲げておく。「秋浦の歌」である。

 白髪三千丈
 縁愁似箇長
 不知明鏡裏
 何処得秋霜

 この詩の、とても分かりやすい解釈が読めるサイトがある。
 念のため、読み下し文だけ、示しておくと、「白髪三千丈、愁いによりて箇の如く長し、知らず、明鏡のうち、いずれの処にか秋霜を得たる」となる。
 余談ついでだが、小生が学生時代を過ごした仙台には、太白区がある。これは、「太白星(金星)が落ちてできあがったという伝説をもつ太白山に由来してい」るのだとか。太白山について紹介したサイトは数多くある。標高はそれほど高くない太白山(標高:321.7)が人気があるのは、美しい円錐形をしているからだろうか。

 なんだか、例によって、何を書きたかったのか、まるで見えない雑文になってしまった。ま、日記のつもりで書いているのだし、覚書になればそれでいいのだ、自分としては。
 ただ、このままでは申し訳ないので、ここまでに出てきた言葉・影法師にちなむ歌や句を挙げておきたい:
 
 埋火(うずみび)や壁には客の影法師      芭蕉

 梅咲やしやうじに猫の影法師    一茶

 霧黄なる市に動くや影法師    漱石(ロンドンでの句)

(注)芭蕉の句は、「(続猿蓑)」からのものである。

 せっかくなので、小生も恥を忍んで(恥知らずにも?)句を呈しておこう。

 影法師寄り添いすぎて薄い影
 影法師草葉の陰に揺れ惑う
 影法師風の音にも怯えるか
 軒端にて猫の姿の影法師
 影法師光と戯れ消えていく
 面影を脳裏に浮かべ追う我か

 さて、最後である。冒頭に掲げた写真は、水曜日の営業も終わりに近付いた木曜日の未明の空の模様である。水曜日までの安定した天気も、ようやく下り坂に差し掛かり、午後には曇天、夕方には雨が予想されていた。
 妖しい空模様。なんとなく心模様でもあるような。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004/11/11

優曇華の花

 優曇華(ウドンゲ)というのは、「仏教の中で「三千年に一度花を開くという想像上の植物」のこと」で、「優曇華の花というのは,“めったにないもののたとえ”として使われる用語」のようである。
 昨日付けの日記で、曼荼羅華のことなど」という表題にしたからだろう、その日の営業に出て、しばらくしてからだったろうか、そういえば、ウドンゲ(の花)ってのもあったなあ、と思い出したのである。
 思い出そうとして浮かび上がってきたわけではない。どうやら、頭の中で勝手な連想の波動が生じていたらしい。曼荼羅華、華(ゲ)、→ウドンゲというわけであろう、か。
 ところで、ウドンゲの花と呼ばれる花の実体は何かと言うと、「クサカゲロウの卵」なのだとか。
 尤も、「優曇華の花は,クワ科のフィクス・グロメラタであると言われてい」るとしているサイトもあるのだが。
 が、やはり、クサカゲロウの卵をウドンゲの花と勘違いしたと説明しているサイトが多いようである。「K's Natural Living ~花のある暮らし~」というサイトの、「クサカゲロウの話 その2」を覗くと、「クサカゲロウが卵から孵ったあとはこのような真っ白な卵殻が残り、あたかも花が咲いたようです・・・。」として、可憐で何処か夢幻的な画像が掲げられている。
 面白いのは、「クサガゲロウを漢字でどう書くと思われますか?もちろん草蜻蛉ですよね?!」以下の一文。「草の間に身を潜めているから”草”カゲロウだと思っていたのですが実は・・・なんと”臭”カゲロウだったんです・・・(^^ゞ」という。「クサカゲロウを手でつかむと独特のにおいを出すらしいのです。そこから付いた名前だそうです。」だとか。
 そこで、クサカゲロウをもっと調べようと、ネット検索をしてみたら、「も吉の物置部屋」の中の「クサカゲロウ」のをヒット。
 そこに載せられているクサカゲロウの姿もなかなか優美だが、「曇華はウドンゲと読み、三千年に一度しか咲かないというインドの伝説の花だ。サンスクリット語のウドゥンバラ・プシュパに優曇波羅華の字をあてたものがさらに略されたらしい。」などと書いてあることが目を引いた。
 まさに余談になるが、「世間には「優曇華」っつう名前のうどん屋が相当数存在することを知った」というので、ネット検索してみたら、なるほど、本当だった。世の中には、安易な仕方で店名を付ける店も多いのだ。
 そうはいっても、実は正直のところ、小生など、優曇華→ウドンゲ→グドンゲ→愚鈍気と連想していた。そんな小生よりは、まだましなのかもしれない?!
 それより興味深いのは、次の一文だ。「クサカゲロウの卵以外にも優曇華の花と呼ばれているものがいくつか存在する。バナナの花なんかもそのひとつで、わが国では珍しいことからウドンゲ扱いを受けていたらしい。」しかも、「不思議なことに、「日本における優曇華の花は凶兆だった。」というのである。
 さて、この「優曇波羅華」という言葉は、『法華経』の「妙荘厳王本事品第二十七」に出てくるようである。その下りを前後の脈絡なしに引いてみると、「優曇波羅華(ウドゥンバラ・プシュバ)の咲き難い様に、仏に会いたてまつる事はさらに難い。諸難をまぬがれることもまた難い。願わくは我らの出家をゆるしたまえ。」などである。
 話が、またまた逸れるが(といっても、何かを書かなければならないという義務もないのだが)、「サンスクリット語のウドゥンバラ・プシュパ」を漢語に訳して、優曇波羅華となり、それが更に略されて優曇華となったようだが、そもそもサンスクリット語の言葉を漢語に訳すというのが、実に崇高と言うか、とんでもない荒業だったような気がする。
 無知なるがゆえの勝手な思いに過ぎないのだが、原語の「ウドゥンバラ・プシュパ」が、どういう意味合いを持つのかが、まず疑問に思う。思うが調べようがない。
 また、このサンスクリット語の言葉が、優曇波羅華と訳されることに、語義的な正当性あるいは妥当性があるのかどうか、全く分からないで居る。近代、あるいは現代においては、翻訳するとは、基本的には意味を訳すことに尽きる(全てではないのだとしても)。
 が、遠い昔はどうだったのだろう。ただ、直感的には意訳以上に、語感的な近さが重視されていたような気がする。
 もっと、卑近な言い方を素人の大胆さで遠慮なく言わせて貰うと、駄洒落的な訳に近いような気がするのである。
「ウドゥンバラ・プシュパ」→「ウドンバラ…バ」→「ウドンバラバ」→「ウドンバラゲ」で、そこに漢語を当て嵌める。千数百年の昔の中国語(漢語)の発音と、訳す以上は何かしらアリガタイ漢語を選択し、当て嵌める。
 単なる駄洒落ではなく、意味連関や、選んだ言葉の有難味の有無、そして膨大な仏教文献との連関性。つまり、その言葉の出てくる場面だけではなく、他の言葉(選んだ漢語の漢字)との整合性をも考慮に入れての高等なる駄洒落翻訳という難行。まさに、インドの古代文明・文化に匹敵する歴史と、漢字というとんでもない中国の財産があればこそ可能だったのだろうが。
 経典の漢語への翻訳というと、鳩摩羅什(くまらじゅう:350~409)などを思い出す。
 またまた余談だが、ネットでは、鳩摩羅汁と表記されている事例の多いこと! これって、クマら汁! 美味しそうな拙そうな、訳の分からない…代物だぜい。
法華経と鳩摩羅什」を覗いてみる。
「中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。」で、「7歳のとき母とともに出家した。はじめ原始経典や阿毘達磨仏教を学んだが、大乗に転向した。主に、中観派の諸論書を研究した。」という。「主な訳出経論に『坐禅三昧経』3巻、『阿弥陀経』1巻、『大品般若経』24巻、『妙法蓮華経』7巻、『維摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻などがある。」とか。
 洛南タイムス社の「山と遺跡とオアシスの覚え書き タクラマカン砂漠一周の旅 内田 嘉弘 第20回」にも、「宮本輝著『ひとたびはポプラに臥す』の―旅の始まりに―」からの引用の形で鳩摩羅什の説明が載っている。
 
 我々に馴染みの言葉、「彼岸」にしても、サンスクリット語の「パーラミター=波羅密多」の漢語訳から来た言葉だという。
 小生も名前だけは知っている般若心経。この経典は、「西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵の翻訳によるもので、これは、全600巻という膨大な量の「大般若経」から、エッセンスだけを抜き出してまとめた」ものだという。「正しくは「般若波羅密多心経」と言い、言語のサンスクリット語で分解すれば、「般若=プラジュニャー(最高の智慧)」・「波羅ム=ハラム(彼岸=悟り)」・「イ多=イター(渡る)」ですから、「彼岸へ渡るための智慧」とな」るのだとか。
 般若心経については、「美しい般若心経」が興味深い。

 またまた回り道が過ぎた。優曇華の花に戻る。
 優曇華の花は、『法華経』の日本での存在の大きさもあってか、古来より文献に登場する。『うつほ物語』、かぐや姫との絡みで『竹取物語』、『源氏物語』…。
『源氏物語』では、「若紫」の帖で、「優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね」の和歌が見出される。
 小林一茶にも、優曇華の花が詠み込まれている。

  甘い露芭蕉咲とて降りしよな
うどんげや是から降らば甘い露
日本のうどんげ咲ぬ又咲ぬ
法の世や在家のばせを花が咲く

 この中に、「甘い露芭蕉咲とて降りしよな」という句がある。優曇華が登場しない。
 ネット検索してみると、芭蕉の花は、優曇華の花の異称だとあった。
 が、俳句の世界では、優曇華も芭蕉の花も、共に夏の季語なのだが、優曇華というと動物の扱いになり、芭蕉の花というと植物の扱いとなる。
 が、一茶の句を見ると、いずれの「うどんげ」も、植物の扱いのようである。素人的には、得心がいかない。
 小生も、優曇華にちなむ句をひねってみたいが、悲しいかな、優曇華の花、それとも、クサカゲロウの卵(卵殻)を見たことがない。

 夢にても優曇華の花よ咲いてみよ
 優曇華よ愚鈍なる我憩わせよ
 優曇華よ花ならずとも咲いてみよ
 優曇華よウドンの汁(つゆ)に飛び込むな
 咲かぬはず虫の抜け殻優曇華は
 
 さて、日記らしく、今日、やったことを記録しておく。「エッセイ祈りの部屋」に、「いかりや長介さん死去 他(51-53)」をアップした。「いかりや長介さん死去」「ネット上のヒロイン追悼」「田尻宗昭氏のことをラジオで」の三つの文を一挙に載せた。いずれも、既にメルマガにて、半年あるいはそれ以上の以前に公表していたもの。
 載せた趣旨は、当該頁の冒頭に記してある。
 アップに際し、頁の途中に付記した一文だけでも読んでもらいたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/10

曼荼羅華のことなど

s-DSC01070.jpg

 9日付けの日記に掲げた写真の花は、曼荼羅華(マンダラゲ)だと、さる方に教えていただいた。
「朝鮮朝顔とも呼ばれ、ラッパ状の形をした花を咲かせる。江戸時代に渡来し、漢名「曼荼羅草」は「曼荼羅華」と呼ばれ、当時、種子と葉はぜん息の薬として使用していた。」という。
 また、「華岡青洲(1760~1835)は、この曼荼羅華の茎や根を精製し、全身麻酔薬「通仙散」を完成させた。この「通仙散」の人的効果を試すために、妻や母に用いたという話は、「華岡青洲の妻」としてよく知られている。」とも。
 確かに、この話はあまりに有名で、ドラマ(舞台)にもなり、歴史にも疎い小生も知らないではない。また、有吉佐和子著の『華岡青洲の妻』(新潮文庫など)は、今も読まれている(小生は、読んでいないと思う)。

 ついでながら、麻酔薬としての曼荼羅華を調べてみた。すると、「日本麻酔科学会 - 麻酔の歩み」というサイトが見つかった。
 そこには、「曼荼羅華(朝鮮アサガオ)は、3世紀頃中国の名医、華陀によって手術に使用されたという記録があります。青洲はそれを参考にしたと考えられますが、動物実験を重ね曼荼羅華を主とする6種類の薬草により「通仙散」を調合し、世界で初めて全身麻酔下に乳癌摘出術の手術に成功しました。」と書かれていた。
 さらに、「曼荼羅華の種子、根、茎、葉には麻酔薬の成分が含まれており、現在でも麻酔の準備薬(麻酔前投薬)として使用されています。青洲の行った麻酔は中枢神経作用の強いスコポラミンによるものと考えられます。」とも。

 が、恐らくは幾度か名前を目にしているはずの、この肝心の花の姿をじっくり見たことがない。あるいは、見たことがあっても、それと気付かないままに、あれ、でっかい花びらだなと思うだけで、通り過ぎてきた。
 その花を、タクシーで都内を走っていて、この頃、某所に来ると見かける。その度に、なんてでっかい花だろうと、口をあんぐりしていた。しかも、そうした大きな花びらが、何十個となく咲き揃っているとなると、もう、壮観なのである。
 で、このところ、デジカメで都内などの写真を撮りたいと思っている小生のこと、何とか写真に収めたいと思っていたが、生憎と幹線道路に面していて、場所が悪く、なかなか撮れないでいた。
 すると、8日の真夜中だったか、お客様を都内某所で下したところ、近くに、気掛かりでいた花と同じモノが咲いているではないか。そこは、お寺の門前だった。おお、チャンスとばかりに、夜中だし、ちゃんと写るかどうか心配しつつも、人通りも絶えているのを確認し、パシッパシッと二枚、撮った。
 車中で確認したら、見事な白の花びらがちゃんと写っている。なかなか優美で流麗である。
 ネットで、曼荼羅華のことを調べていたら、「Sankei ECONET 青洲ゆかりの曼荼羅華咲く 和歌山・那賀町(8/27)」という記事を発見。
 なるほど、華岡青洲の出身地は、和歌山県那賀町で、そこには、「青洲の里」があるということも分かった。「青洲が住居兼医院や医学校などに使った建物がある春林軒の庭やその周辺で咲いており…」とある。季節になれば、訪ねてみるのも床しいかもしれない。
 
 曼荼羅華は、四華(しけ=4種の蓮華)のうちのひとつだと言う。「四華とは、瑞相(喜ばしい兆し)の現れの一として、空から降るという四種の蓮華(れんげ)をいう。ちなみにその四蓮華とは、一は白蓮華=曼荼羅華(まんだらけ)、二は大白蓮華=摩訶曼荼羅華、三は紅蓮華=曼珠沙華、四には大紅蓮華=摩訶曼珠沙華をいう。」のだとか。
 尤も、別のサイトを見ると、「曼荼羅華(まんだらげ)」は、「天から降り注ぐ【天華(てんげ)】」の一つであり、「喜びを祝い、天から降り注ぐ花で[曼荼羅華・摩訶曼荼羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華・蓮華]の五種類を五天華という。」などと書かれている。

 曼珠沙華は、秋の季語として有名だが、曼荼羅華は、どうなのだろう。
 ま、こんなこともあり、昨日の日記に既に曼荼羅華の写真を載せていることもあり、再度、載せるのは、少々、躊躇いもあるのだが、昨日のは、やや斜に構えたような、少し違和感を覚えさせるものだとしたら、本日のものは、ラッパのようだと、よく評される花の形を真正面から捉えたもので、趣(おもむき)もかなり違うと思うので、敢えて載せさせていただく。

 曼荼羅華仏の教え放つごと
 曼荼羅華闇夜に咲いて我惑う

 ところで、ある方から、汗駄句川柳について、コメントを戴いた。個別の句への感想ではなく、小生の句業(苦行?)全般へのアドバイスだった。
 その意見は載せられないが、小生の返事だけは、以下に載せておく。尚、文中の、「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、今や世界的に有名な映画作家になられたコメディアンの北野たけし氏の往年の名作である:


  """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""

 Rさん、こんにちは。
 いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
 
「七五調のリズムは日本語に染みついたもので、自然に分かりますから、伝統的な俳句や川柳では、上句、中句、下句の間に間隔をとりません」
 なるほど、納得しました。今後(本日以降)、作るものについては、そのようにします。過去の作品については、手の及ぶ限り…。
 当面、昨日まで作ったものについては、現状の表記になるかも(推敲も、後日)。

  事実  赤信号みんな止まって待っている
  標語  赤信号みんな止まって待ちましょう
  警句  赤信号止まらぬあなたはあの世行き
  川柳  赤信号みんなで渡れば怖くない
  俳句  赤信号一陣の風渡りけり

 六文錢さんの示してくれた、事実の報告、標語、警句、川柳、俳句の違い。
 この点について、同じ題材を用いての説明、とても、勉強に成りました↑
 ただ、何処まで理解できたかは、自信がありませんが。

 小生、「汗駄句川柳」と自称していますが、この七月に句を作り始めました。
 実のところ、将来的にどのような方向へ持っていくか、未だ、展望は勿論、まるで皆目、真っ暗闇の状態、全くの手探りの段階なのです。
 川柳と自称していても、とりあえず、俳句じゃないようなので、じゃ、川柳と安易に括っているだけで、作りながらも、その時の気分で思いつくまま、なのです。
 その意味で、川柳に真面目に取り組んでいる方には、不愉快な姿勢に見えるのかなと、自分としても忸怩たるものがありつつ、作ってきております。
 川柳と俳句の違いも、ネットで色々読んでみても、歴然と違う、あるいは小生にもうっすらとは違いの分かる場合もありますが、区別の付かない場合もあるような。
 試行錯誤を多少続けて、そのうちに、自分が標語や警句を目指すべきか、川柳なのか、俳句が好みなのかが分かってくるのではと期待しています。
 小生、俳句は、ほとんど、川柳は全くに近いほど、読んでいません。和歌・短歌も僅か。小説(ほとんどが短篇)作りから、ちょっと足を突っ込んでみた…。
 勉強することが膨大で、眩暈がしそう。
 今年は未だ、小説に比重を大きく置いているので、本格的には取り組めず、大抵が、掲示板に書き込みした際に川柳(標語・警句・事実?)を付している、それを集めているだけです。
 来年に向け、少しずつ考えていきたいと思っています。

  """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 
 そのあと、また、Rさんよりアドバイスなどを戴いた。それについては、後日、改めて。

 さて、今日は忙しくて、あまりサイト巡りをできず、従って、掲示板に書き込みをする際に付す駄句も、綴る機会を得ていない。
 以下は、小生のサイトの画像掲示板に戴いた画像へのレスに付したもの。写真が、夕陽の光景だった:

 秋の暮日の落ち際の麗なる
 秋の日に急かされるごと夕陽追う

 今日も、なんだか、慌しいと言うのか、書いたものというと、このブログ日記が昨日、今日の分。あとは、「ディープスペース」の第四弾で、「ディープスペース(4):フォートリエ!」だけ。
「ディープスペース(3):ポロック!」が、「http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/introduction/pray-5.htm">私という千切れ雲の先に」というエッセイがベースになっていたのに対し、「ディープスペース(4):フォートリエ!」は、「夜 の 詩 想」などの瞑想的随想をベースにしている。
 作品的には、やや妄想的モノローグ風掌編となっている。
 ホームページには、「タクシーとオートバイの部屋」を更新した。
 週末には、溜まっている掌編をアップさせたい。

 最後に、今日は、趣向を変えて、汗駄句ではなく、駄洒落文を掲げておく。掲示板において、ある方の書き込みへのレスとして書いたもの。大本のネタは、「やじきた問答(1-5)」である:

 今日は悲シーレ。
 照るデルボーずが役に立たず、雨がクールベから? 芸シャガールが来ないから? 意識がモローだから? 髪型と服がマティスしてないから? 彼氏がムンクれているから? michioを間違えたから? 友がダヴィンチにふされたから? 手を弥一したから?
 ううん。おシーレを拭くのを忘れたから! なので、お手を拝借!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/09

二十六夜の月

s-DSC01069.jpg
 
「二十六夜」と書くだけで、月のことを指していることは、分かる人は分かる。が、小生は分からなかったので、備忘録というわけではないが、少しは頭に銘記するためにも、敢えて、恥を忍んで、「二十六夜の月」という表題にしておく。
 あるサイトによると、昨晩あたりの月は、二十六夜と呼ぶらしい。それとも実際には、もう少し、細身だったようだし、二十七日月だったのか。

 などと書きながら、上記には少々のウソが混じっている。月曜日の営業もまた、仕事が閑散としたもので、お客さんを探すのにも疲れてしまい、走りつかれると、神経ばかりが磨り減るようで、公園などの脇に車を止めて、やたらと休憩を取っていた。その都度、月影を追い求めたが、まだ、新月には日にちがあるはずなのに、見つからない。
 終いには、お客さんどころか、月の姿を追うのも、諦め気味になってしまった。
 が、お客さんはともかく、月の姿を、もう、すっかり明るくなった六時過ぎだったかに、天頂というほど高くはないが、かなり高い位置に月を偶然、見つけた。
 今日も仕事は暇だったと、溜め息を吐き、ふと、見上げた空に、ほっそりと見る影もないほどに痩せ細ったお月様のお姿をお見かけしたのだった。
 なんだか、小生の仕事の出来の悪さを象徴しているかのような月の窶れ具合だ。

「二十六夜」(の月)という表現がある…。「陰暦の正月と七月の26日にも夜半に月の出るのを待って拝したと言われています。月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が姿を現すと言い伝えられ、特に江戸では七月に高輪・品川などで、盛んに行われたそう」だという。

 先に進む前に、「二十六夜」という名称について。これは、「一般にある特定の月の出を待ってこれを拝する行事」である「月待」の一つで、十五夜や十三夜などは、多くの方が聞いたことがあるだろう。以下、「月待の民俗」というサイトを参照させていただく。
 十九夜待とか、二十二夜待など、いろいろあるが、「最も多く行われたのが二十三夜待」だという。「十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした安産祈願の行事が主流」だとか。
 話を戻して、小生、好奇心で、「二十六夜」をキーワードにネット検索してみた。

 すると、筆頭には、「No.146秋の道志二十六夜山」というサイトが現れる。上位に現れる大半が、二十六夜山に関連するもの。
 例外は、「Sankei Web 【著者インタビュー】坂東眞砂子さん『春話二十六夜 月待ちの恋』 と、あと一つだけだった。
 坂東眞砂子さんの『春話』に後ろ髪を引かれつつ、先に進むと、この二十六夜山は、故田中澄江さんの晩年の著でも馴染みの山なのだとか。
「No.146秋の道志二十六夜山」を覗くと分かるのだが、「日本には二つの二十六夜山がある。 その二つともが道志山塊にあるという」のである。

 道志村! 十数年の昔、枯れ葉の季節に、オートバイでその村を通り富士山近郊へよくツーリングしたものだった。河口湖、山中湖周辺をのんびり走り、紅葉を愛で、高原の空気を吸い…。そんな、ゆったりした気分を満喫した頃も自分にはあったのである。
 さて、このサイトにも、「二十六夜」のことが触れられている。尤も、「特に江戸では七月に高輪・品川などで、盛んに行われ」たということは、書いてない。
 その代わり、「女衆だけが集まって一夜を明かす行事」と書いてあるのを読むと、俄然、興味が湧く。
 そう、「三日月の夜といえば、かなり暗い夜だ。 一体、里の女たちは何を思ってこの行事に参加したのだろうか。 そして二十六夜山の山頂での彼女たちの会話はどんなものだったのだろうか」と思わずには居られないのである。
 あああ、女衆だけが集まって一夜を明かす行事って、一体、なんじゃ?!
 さらに、「都留周辺の隠れキリシタンが、二十六夜の月にかこつけて、仏を拝むと称して、ひそかに山上に集まり、マリアへの祈りを捧げたのではないか、といった田中澄江さんの説」なども紹介されている。
 ところで、「No.146秋の道志二十六夜山」だと、「日本には二つの二十六夜山がある」というが、 「月待の民俗」というサイトによると、静岡県賀茂郡南伊豆町も含め3ヵ所あるという。
 このサイトは、『二十六夜山』というサイトへ繋がっている。この頁を覗くと、「二十六夜待の信仰」や、二十六夜山のことが詳細に分かる。
 いずれにしても、月の神秘と女性(安産祈願)と豊作とが絡み合っている習俗のようだ。
 
 と、ここまで書いて、あれ? である。小生、別に二十六夜のことを書こうと思って、この日記を綴っているわけではない。あくまで日記なのである。たまたま今朝、六時過ぎに見た月が、二十六夜の月か、それとも二十七日月だったというだけのことなのである。
 小生の、今朝、やや薄絹を透かしたような弱々しい細身の月を見ての感覚では、むしろ、有明の月という感興のほうが強かった。が、有明の月という表現が今の時期に相応しいのかどうか、今一つ自信がなくて、使うのを躊躇い、月の形のほうへ話が流れてしまったのだった。
 この「有明の月」のみをキーワードにネット検索してみると、「検索結果 約 2,530 件中」、その二番目に小生のエッセイ「有明の月に寄せて」が登場するのは、発見だった。あまり読まれているとは思えない小生の拙稿が上位に来ているということは、世間の人は、少なくともネット上では、今更、有明の月なんて、話題にはしないということなのか、どうか。

 小生は、その点、月影には、随分とお世話になっている。特にタクシーの仕事を始めてからは、夜中などに、公園の脇に車を止めて、あるいはそうでなくとも、都内を走り回っていても、期待通りに、時には意想外の場所乃至は時に月影に遭遇して、慰められている。
 お月さんには、もう、数十年の昔に、人類が足跡を残したのだし、今更に月の神秘を語ったりしたら、お前は、天動説に囚われているのか、月や太陽は、昇ったり沈んだりするように見えるけれど、あれは、ただの勘違い、錯覚、思い込みに過ぎないのであって、我々の地球だって太陽の周りを巡っているんだぜ、これを地動説という、なんて、もったいぶって説教を喰らいそうである。
 小生だって、地動説は知っている。宇宙の万物が、それぞれに相対的に動いてることは、そんな噂くらいは聞いたことがあるし、読んだことがある。
 小生は、ただ、胸に感じる直截な思いを語っている、陳べている、吐露しているに過ぎないのである。
 月影が小生を追ってくる。この世間に忘れられたような、パッとしない小生も忘れずに、歩いていく先までくっ付いてきてくれる。
 それは、小生だけを追っているのではなく、誰をも追うのであり、地上の星だけじゃなく、虫けらも風に舞う木の葉も、埃だって、月のお蔭で影を持っている。そう、地上の万物を平等に光の渦に浴させている。しかも、その光たるや、拠って来るところは、太陽なのだということ、月はその陽光を撥ね返しているだけに過ぎないということ。
 そんなことも分かっている。でも、その誰をもどころか、何物をも、そう、森羅万象もが、宇宙に浮き漂っていることだって、知らないではない。
 けれど、胸のうちに感じる何か。一切が相対的な中で感じる何か。その何かをいつか、感じるままに表現してみたいと思うまでなのである。

 日記なのに、今日の記録は何も書いていない。この不況で打ちひしがれている、なんて書いても、つまらないし、随想に耽ってみたわけなのだった。
 さて、掲げた写真は、昨夜半だったかに都内のあるお寺さんの門前で撮ったもの。花の名前は例によって分からない。
 随分と大きな花で、幅は手の平より大きかった。実は、花の形がもっとよく分かる写真も撮れたのだが、掲げた写真のほうが、妖しい雰囲気が濃厚で、何か非日常的な世界に誘い込まれそうな妖艶ささえ感じさせ、つい、こちらを選んでしまったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/08

行く秋の夜長には

「行く秋」も「夜長」も、共に秋の季語である。俳句などで、一つの句に共に使うのは、季重ねになり、望ましくないとされる。
 しかし、タイトルに一緒に使う分には、構わないだろう(と思うのだけど)。
 この土日、久しぶりの休みということで、ブログ日記も含め、書評や掌編など、いろいろ書いたし、ホームページの更新もし、読書も少々した。
 惜しむらくは、せっかくの秋晴れで散歩日和だったのに、家に閉じ篭りっきりになってしまったこと。秋の麗らかなる日を過ごすには、少々、勿体無い過ごし方だったのかも。
 上に、掌編を書いたとあるが、ちょっと?マークが付く。
 というのも、夜半に作った作品は、過去にエッセイに書いたものの一部を抜粋し、手を加えたものなので、完全な創作ではないからだ。
 で、その書いたものとは、「ディープスペース」の第3弾で、第2弾が、副題として「バスキア!」だったのが、今回は、副題が「ポロック!」である。といっても、「バスキア!」もそうだが、「ポロック!」も、必ずしも彼等の作品や仕事・思想などに寄り添う形で書いたのではなく、ほとんど名前だけを借りたと言っていいほどに、奔放に書いている。
 尚、「過去にエッセイに書いたもの」とは、「エッセイ祈りの部屋」の中の、「私という千切れ雲の先に」である。そのうち、「ポロック!」をアップした際には、比較対照してみてほしい。
 さて、ポロックというと、小生の好きなアーティストの一人で、89年から92年の頃に、彼のアート作品を見ながら(他にも、ミロ、フォートリエ、デュヴュッフェ、クレー、ムンクなどを見ながら)、夜毎、創作活動に励んだものだった。
 会社の仕事が忙しく帰宅が夜半近く。それから仮眠を取って、真夜中過ぎに起き出し、友人の仕事の手伝いでテープ起こしの仕事をし、その上で、未明の頃に、ワープロに向かい、せっせと、ほとんど無理やりにない頭を振り絞って、それこそ掻き削るようにして創作した。で、朝方の五時過ぎにようやく就寝。
 その頃の睡眠時間は、三時間もあったろうか。小生は、もともとタップリ寝るほう、少なくとも七時間は寝るほうなのに三時間の睡眠の日々が数年、続いた。挙げ句、体を壊したり、会社で眩暈を起こしたり、とうとう93年には、ほとんど腑抜け状態になってしまって、会社から帰ると、まさに寝たきりになってしまった。92年末には友人の仕事の手伝いもなくなり、会社も暇になっていて、土日は、しっかり休めていたのだが、自宅では、晴れていてもカーテンを締め切りにして、寝ているだけになっていた。起き上がる気力がまるで湧いてこないのだった。
 とうとう、終いには、メニエル症状とでも言うのか、目覚めてベッドから起き上がろうとすると、その勢いが脳髄の中で加速し、意識が、あるいは風景が滅茶苦茶にグルグル回転するようになってしまった。嘔吐感。酩酊感。幻滅感。
 それでも、小生は、書くことだけは続けた。脳味噌を削るように、指先で氷を削るように、それとも、何処かの壁に爪を突き立てるように。
 自分にもう少し、才能があれば、書くものに、何がしかのインパクトがあったり、人の共感を呼んだりするのだろうけれど、友達にさえ、馬鹿にされるようなものしか書けない。
 そうはいっても、自分でこうだ、と思ったとおりに書いていくしかない。
 書くのは、ここまで来ると、業のようなものだ。意味など、あとから誰かが付けてくれたらいい、あるいは、いつか自分が今以上に枯れたなら、その時、ゆっくり、暇の徒然に、あの文章は、そんな意味があったのだ、こんな意図が含まれていたのだ、なんて、思い返してみればいいのだろう。
 11月も、はや、一週間が過ぎた。秋も手を拱いているうちに、あっという間に過ぎ去っていく。秋の夜長を感じているというのに、季節の移り変わりは凄まじく早い。皮肉なものである。
 徹底して書く。でも、楽しんで書く。いろんなものを書いていく。そんな自分をいつか、愛しく思えたりするのかもしれない。
 秋の夜長。夜の深さ。どこまでも深まり行く夜。夜の底の底。夜の果ての旅。そんな無明なる旅を満喫できるのも、書くことに徹しているからなのだろう。言葉の千切れた欠片たちが宙を舞っている。なんとか、舞い散る葉っぱを拾いたい。地上に落ちてしまわないうちに、この手の平に受けたい、受けて、葉っぱを織り成して、花輪とはいかないとしても、月桂冠のように葉っぱの環を生み出したい。その葉っぱが緑濃いものでなく、枯れ葉であったって構わない。
 
 さてさて、分けの分からない駄文になってしまった。
 以下、例によって駄句の嵐とさせてもらう。俳句とは到底、呼べないとして、どうやら川柳とさえ、呼べない句の数々だ!
 
 渋柿も 天日に干せば 甘柿さ
 渋柿を みんなで剥いて 天に干す
 軒先に 揺れる干し柿 遠い雲
 干し柿の 香り漂う 秋の庭

(以下の句たちは、中島みゆきの「東京ららばい♪」(唄:中原理恵)の歌詞とメロディを思い浮かべながら綴ったものです。歌詞については、小生のサイトの掲示板(9953/9954)を参照してください。)

 カウンター 滑るはグラスか 人生か
 二人寝て 別々に起きて 消えていく
 触れ合いは 体と心 引き裂くか
 焦がれ合い 結び合っての 孤独かな
 孤独でも 感じる心が あればいい?
 誰がいい? 誰でもいい? オレじゃダメ?
 酒飲んで 胃の腑を吐いて 紛らす孤独
 幻の 愛欲の海 死ぬまでも

 すべてある なんでも叶う 夢以外は
 東京の 片隅に咲く 花の露
 這い伝う 茎裏の露 滲んで見え
 東京は 都か砂漠か 誰が知る
 夢破れ 不貞寝しても 明日は来る
 子守歌 自分で歌う 年になり
 擦れ違う ただ擦れ違う 都会かな
 一度きり 掛け替えのない 時を流す
 東京タワー 見下ろす先の 光の渦
 ネオン街 明滅するは 人生か
 浮き沈み 繰り返すのも 限りあり
 軒先の 植木の花に 託す夢
 ないものを ねだる思いを 誰か知る

 今夜は、画像を載せていないので、干し柿を作る様子を見ることが出来る素敵なサイトを紹介しておきます:
田舎干し柿の風景!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/07

山粧う…紅葉のこと

「山粧(よそお)う」は、「紅葉に彩られた秋の山を、擬人法で描いた季語」だという。似たような風景を表現する季語に、「装う山 野山の錦 紅葉の錦 草の錦」(「季節のことのは」)などがある。いずれも、使ってみたい言葉だ。
「山粧う」に形の上で似たような一連の表現に、「山笑う」「山滴る」「山眠る」がある。
「山粧う」が、秋の山々が紅葉で色付く様子を現すのに対し、「山笑う」は、春の山々が一斉に芽吹き若葉でパッと明るくなる様子を、「山滴る」は、夏の山々が青葉でみずみずしい様子を、「山眠る」は、冬の山々が広葉樹林なら葉が落ち尽くし、針葉樹林なら雪を被って静まりかえった様子を現す。
 実は、なんとなく、今日のタイトルには、「そぞろ寒」を使いたかった。この言葉は、「なんとなく寒かったり、わけもなく寒かったりというのが「そぞろ寒」で、秋だけではなく早春の肌寒さにも使いますが、季語は秋に定着してい」るという。
 気分的に落ち込んでいたこともあり、「そぞろ寒」を考えたけれど、さすがに今日の陽気では、似つかわしくない。ここは、気分とは逆に、「山粧う」で行こうと思い直したのである。
 というのも、過日、「山粧う」でネット検索したら、大和路は吉野の紅葉を捉えた見事な写真を発見したので、是非、見てもらいたかったのである。前にも書いたが、吉野は桜で有名だが、実は、紅葉の季節にこそ吉野の醍醐味が見られるということをラジオで聞き、実際に観に行くことは叶わない以上は、せめて、画像だけでもと、探していて、例えば、「奈良の紅葉」というサイトや、「紅葉写真館」という紅葉の写真を専門に展示しているサイトなどを見つけたのだが、上掲の一枚には、圧倒されてしまったのである。
 こんな風景を前にして、紅葉のメカニズムを忖度するのも野暮な話だが、興味があるので、簡単にでも触れておきたい。
 たとえば、「カエデともみじ」というサイトがある。カウンターを見ても、かなり人気のあるサイトのようだ。
 その、「6.紅葉、黄葉のメカニズム」のを見てみる。そこには、下記のように説明してある:

秋から冬にかけて、気温の低下とともに、葉の葉柄の付根の部分にに離層と呼ばれるコルク層が形成され、葉と茎の間で水や養分の流れが妨げられます。光合成により作られた糖分が葉に蓄積され、これからアントシアンという赤い色素が形成され、葉緑素が分解されて緑の色素が減少していきます。この過程でいろいろな紅葉になります。一方、葉緑素が分解されていく過程で、今まで目立たなかった黄色のカロチノイドという色素が目立って現れてきますと黄葉になります。植物の種類により、この過程には個性があり、紫、赤、橙、黄というように様々な色が形成されます

 以下、「紅葉がより美しくなる条件」や、「紅葉前線」、さらには、どんな木が紅葉で、あるいは黄葉で美しいか、などが縷縷、書いてあって、興味が尽きない。
 紅葉と言うと、カエデやモミジということになる。「紅葉」は、「こうよう」と読めるが、「もみじ」とも読める。漢字表記がポツンとあるだけだと、どちらに読むべきか、迷ってしまう。気分次第で選ぶしかない。
 そういえば、この一文を書いていて、小生、以前に、紅葉について雑文を書いたことを思いだした。「紅葉の季節:「枯葉よ~♪」」という一文である。
 その冒頭に、「表題に「紅葉の季節」と書いた。人はこれをどう読むだろうか。」と書いてある。小生、似たような疑問を2年ほど前にも持ったわけである。その文章の中では、「こうよう」と書いて、「紅葉」もあるし、「黄葉」もある、などとも書いている。上代では、ほとんどが「黄葉」という表記だった、それが、「平安時代になって、『白氏文集(はくしのもんじゅう)』の表記の影響などもあり、「紅葉」と書くようになった」などとまで、書いている。
 さらに、「もみじ」という言葉の語源探索も行っていたのだ。
 ほとんど、中身を忘失していた(汗!)。
 しかも、良寛さんの歌も引用していたとは!:

 秋山をわが越えくればたまほこの道も照るまで紅葉しにけり

 良寛和尚には、他にも、次のような句(歌?)もある:

 山ほととぎす秋はもみぢ葉

 ネットで次のような驚くほどの洞察を示すを見つけた。「平成13年度 子どもたちが作った俳句」ということで、掲げたのは、小学六年生の句だというのだが:

 おち葉たち つぎの葉のため ちってった

 思わず、絶句してしまった。
「紅葉」というと、そのままのタイトルの曲「紅葉」(作詞:高野辰之作曲:岡野貞一)も忘れがたい。「秋の夕日に 照る山紅葉♪」で始まる文部省唱歌である。今も、歌われている…のだろうか。
 モミジの句というと、有名な句がある。とても可愛らしいもの。が、小生、その句を思い出せない。確か、「雪の朝 もみじもみじの 足のあと」というような句だったと思うのだが、正確な文言を紹介できないのが残念である。誰か、知っていたら、教えて欲しい!
 でも、まあ、上掲の小学生の句が、今日の収穫だったので、慰めとしておこう。

 さて、話は変わって、昨日は「柿日和」ということで、柿に触れたのだが、掲示板に柿の思い出について、書き込みをしてもらって、そういえば、小生には「柿 の 花」という小品があることを思い出した。せっかくなので、紹介させてもらう。

 今日は、日曜日。久しぶりに(三週間ぶりに朝からのんびりできた一日となった。天気にも恵まれ、外出日和だったのだが、ホームページの更新をブログ日記に力を入れていることもあり、ここしばらく怠っていたので、せっせと更新作業に勤しんだ。
 といっても、手間取ることもあり、居眠りもたっぷりしたので、アップできた文章は、僅かだった。まず、「タクシーとオートバイの部屋」に、「高速道路二人乗り規制撤廃のニュース/タクシーメーターの音」を、「書評と著作の部屋」に、「ウエルベック著『素粒子』/ミラン・クンデラ『生は彼方に』」を、「エッセイの部屋」には、「一人暮らしの地震対策(他) をアップ。
 他に、「このサイトのこと…キリ番…」の頁を手直し。過日、キリ番を踏んだということで戴いた素敵な絵をアップした。やれやれ、である。
 
 この一文は日記である。昨日、書くつもりで忘れていたことを、幾つか、書いておきたい。
 昨夜半だったか、シャワーを浴び、浴室を出たら、足元に黒っぽいモノがチョロチョロと。「すわ! ゴキブリか?!」と思って、ちょっぴり恐々、目を凝らしてみたら、それはコオロギだった。一週間前だったかに、見かけていた奴が、今も生きているということ? 同じ奴かどうかは、尋ねても返事してくれる訳もなく、コオロギの人相ならぬ虫相を見分けられるほどに、虫に親しんでいるはずもなく、分からない。
 でも、直感的には、同じ奴だと思う。
 それにしても、我が部屋の中で何を食べて生き延びているのだろう。このところ、健気なことに小生は、二週間に一度は掃除機を掛けている。なので、床には以前ほどには残飯などは落ちていないはずなのだが。
 そのコオロギ、小生が真夜中過ぎの三時頃だったか就寝しようと、灯りを消そうとした瞬間、今度は天井をウロチョロ。いずれにしても、我が部屋には、恐らくは、ダンボール類の後ろに隠れている蜘蛛と併せ、二匹の友が住んでいるわけである。
 尤も、ダニの数を入れると、友(?)の数は膨大なものになると思うのだが。

 昨夜は、今日、7日に、小生の敬愛する方が誕生日を迎えるということで、前夜祭を気取る訳じゃないが、久しぶりにピザを宅配で注文した。貧乏なる小生は、ピザが食べたくなったら、スーパーで数百円のものを買ってきて、それで我慢するのだが、その方の誕生日を祝うという名目で、ちょっとだけ羽目を外したのである。
 遠くにいるその方に向かい、誕生日、おめでとう! と叫びつつ、ピザを、しかも、ローステッドポテトも併せ、まるごと食べたのだった。食べ過ぎ!!!!
 では、何故、当日の今日、ピザを取らなかったのかというと、田舎から、鱒の寿司を送ってくることになっていたので、さすがに食事の制限はしつつも、食欲旺盛なる小生と言えども、鱒の寿司を食べ、ピザも目一杯、食べるというのは、少々度が過ぎると、少しは自制したのであった。

 ホームページの更新作業に勤しんだので、肝心の文章書きは、ほとんどできなかった。ただ、過日、読了した白川静氏の『中国の古代文学(一)』の簡単な書評エッセイだけは、書いておいた。
 読書のほうは、他に、先月、拾ってきた『90分でわかる 日本史の読み方』(加来耕三監修、かんき出版)を先週、読了、さらに、今日、長々と読んできた、『おくのほそ道―現代語訳/曽良随行日記付き』(潁原 退蔵/尾形 仂 (翻訳) 角川ソフィア文庫)を読了した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/06

柿日和

 今日の日記の表題をどうすうるか、何もアイデアが浮かばないでいた。こんな時は、まさに、困った時の(秋の)季語、というわけで、秋の季語で何かいいのがないかと探していた。
 このところ、日記のタイトルに窮すると、季語を漁るという癖が付いてしまった。いいことなのか、拙いことなのか、判断が付かないでいる。
 すると、「柿日和」という言葉が見つかった:
東京クリップ(43)
 そこには、「秋日和という言葉は、広辞苑によれば「強い日差しの秋の晴天」と説明されていますが、澄んだ秋空に黄色い柿を見ると、この「秋日和」という言葉が浮かびます」とある。
 小生の「広辞苑」(電子辞書)は壊れているので、秋日和の説明の記述を確かめることができない。この「柿日和」というのは、秋の季語なのだろうか。
 ネットで「柿日和」が使われている句を探してみる。すると、次の句が見つかった:

 アンパンを抱へ坂道柿日和     岡本洋子

 丁寧に(季語/柿日和)とある。
 季語であることは分かったが、さて、秋の季語なのかどうかは、分からない。もしかすると冬の季語のような気もする。「柿日和」で言う柿は、熟した真っ赤な柿なのだろう。青空を背景に熟した柿という光景、真冬でなくとも、秋も深まり、冬の到来の気配が濃く漂う。
 さらに柿日和の含まれる句を探すと、次の句が見つかった:

 岡本太郎記念館へ電話をかけし柿日和    皆吉司

 この句へのコメントに、「岡本太郎記念館はたしか川崎市にあるのではなかったか。川崎市には有名な柿・禅寺丸の原木がある王禅寺がある」という一文がある。王禅寺と柿というと、小生も数年前、雑文の中で採り上げたことがある:
秋の日と柿の木と(付:余談)
 一部だけ、転記すると、

 秋も深まってくると、小生は田舎の風景を思い出す。
 裏の田圃に面した小さな畑の端に、一本、ポツンと柿の木が所在なげに立っている …、という風景である。
 柿の実をもいだ後は、秋の日に特有の抜けるような青い空に、葉っぱも落ち尽くして幹と枝だけになった柿の木が、一層、寂しそうである。
 小生の感傷的な気持ちがそう、思わせるのか、昔の空は、今より遥かに青く澄んでいたように思えてならない。それとも、田舎の空気は、今、住んでいる東京の空とは違うということに過ぎないのか…。
 秋の日に落ち忘れた実が一つ、二つ残るだけの柿の木が一本、田圃の脇に立っている風景というのは、小生ならずとも、多くの日本人にとっての原風景の一つなのではなかろうか。
 柿食えば鐘がなるなり法隆寺、なんて俳句があったな、そういえば。
                             (以上、抜粋)

「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」は、言うまでもなく、正岡子規の句である。法隆寺とあるくらいで、斑鳩の里で作られたのだろう。昔は、法隆寺の近くに茶屋「柿茶屋」があったという。その茶屋で柿を食っていると、ふと、法隆寺の鐘楼の鐘の響きが聞えてきて、感興を得て詠んだのだろうか。
 ネットでさらに調べると、「聖霊院の前の鏡池の辺には(中略)正岡子規の有名な句(中略)の句碑がある」とか。
 子規のこの有名な句について、一体、何時頃、詠まれたのか知りたくなった。結核に冒されていた子規が、奈良へ旅したことがあったということなのか…、そんな元気のある時期もあったのか…、子規が懐かしく、床しくてならないのである。
 すると、次のサイトが見つかった:
里実だより
 その「2004年9月1日(水) 子規のくだもの好きは尋常ではない 」という項を読む。
「「くだもの(続)」では、具体的なくだものの名前をあげ、むさぼり食べたことが語られています」とある。そういえば、子規の果物好きは有名なのだった。
 さらに興味深いのは次のくだりである。「最後の部分で、東大寺近くの宿屋で柿を食べた際、東大寺の鐘の音を聞いた時のことが書かれています。その時のことを詠んだ句が有名な次のものです」として、以下の句が掲げられている:

 柿食えば鐘がなるなり東大寺

 このサイトの筆者ならずとも、ん? である。東大寺じゃなくて、法隆寺だろう! 
 で、一般的には、既に紹介したように、「法隆寺近くの茶店で柿を食べている時、時を告げる鐘の音を聞いて詠んだ、と説明される」わけだが、この一文では、「説明されることが多いようですね」とあるのだ!
 ということは、一般的に流布している説明はウソ乃至は間違いなのか?!
 ちゃんと、この点については説明されている。「こういう説明もあります。翌日、子規は法隆寺に行ったそうです。そこで、場所は東大寺から法隆寺に変え、昨夜の鐘の音を思い起こし、「柿食えば」の句を詠んだというものです。これが一番信憑性があるようですね」という。
 筆者は、「写生の方法を説いた子規ですが、形象化された作品には、ありのままの事実を写しているようでも、そこには虚構が入り込んでいる、ということなんでしょうか」と、この一文を締め括られている。
 つまりは、一般的な説明は、あながち間違いではないが、説明不足なのだ、ということなのだろう。
 小生、「くだもの」「くだもの(続)」を読んでいないので、確たることを自分の意見としては言えないのだが、興味深い話だった。

 表題の「柿日和」から、話が飛躍してしまった。こんなことを書くつもりじゃなかったのだ。が、未だに秋日和が秋の季語なのか冬の季語なのか分からないままに、あれこれ調べ書き綴っているうつに、何を書きたいのか、綺麗さっぱり忘れてしまった。
 ま、こんなもんである。

 長くなったので、小生なりの仕方で締め括っておきたい。そう、駄句駄句である:

 回遊魚 寿司屋さんでも 回されて
 太巻きを まずは食わせる 母の知恵
 皿の数 数える時だけ 血が巡る
 回転寿司 三廻り目には まけろっての

 句作はね 英語で言うと、ハイキング?!

 サンタさん お風呂の中で 茹ってる
 サンタさん 体の煤を 洗ってる?

 淡雪や 綿菓子の如 溶けていく
 淡雪も 根雪になると 恨めしい
 淡雪や 熱燗に浮かべ 風情かな
 降る雪や 目元で溶けて 涙かな
 舞う雪を 仰ぎ眺めて 空に飛ぶ

 何れも、方々のサイトの掲示板での書き込みに付した川柳の数々である。
 ああ、我が画像掲示板に戴いた素敵な画像と書き込み(473)へのレスとして詠んだ句もあった。広島、島根県の県境(萩の近く?)吾妻山で撮った写真だという:

 吾妻山雲の波間に日を抱く
 吾妻山雲を逆巻き日を招く
 吾妻山流れる汗も雲となる

 そうだ、表題の「柿日和」にちなんで、一句、ひねっておこう!

 庭の柿 空の青さを 際立たせ
 熟し柿 カラスの目にも 眩しきか
 吊るし柿 落ちる夕陽を 跳ね返す
 柿日和 揃って眺めた 遠い日よ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/05

ラジオを聴く

s-DSC01062.jpg

 タクシーでの仕事で、楽しみなのは、ラジオだ。学生時代や、社会人になってもテレビがない時は、ラジオが独り者の身には掛け替えのない友だったりしたものだ。
 9年前にタクシードライバーという仕事を選んで、ラジオの楽しみを改めて認識し直したものだ。別に、ラジオが楽しみで運転手になったわけではないが、ラジオの聴取ができることは実に嬉しいし、楽しい。
 無論、お客さんを乗せている間は、消すか、お客さんが要望されるチャンネルを選ぶ。が、悲しいかな、不況が続き、走らせている中で、半分以上は、空車なのである。つまり、10時間以上は、ラジオが友という状態になっているわけである。
 音楽にしても、クラシックからジャズ、民謡、民族(民俗)音楽、歌謡曲、ポップス、演歌、ロック、とにかく、耳に入るものは、何でも聴く。音楽通の方は世に沢山、いらっしゃると思うけれど、幅広いジャンルの音楽を聴いている、それも選り好みせずに、となると、かなり少なくなるのではないか。

 そんな中、昨日は、若林 美智子さんの話を聴き、また、演奏を聴くことができた。
 彼女は、東京生まれだが、病弱だったため幼少の頃から母方の祖父母の住む富山県の、「おわら風の盆」でも有名な八尾で育てられた、という。この富山に縁(ゆかり)があるということで、小生、耳を欹(そばだ)てた。
 富山で育ったということもあるのだろう、三味線がやがて胡弓に魅せられることになったのである。「祖父の若林久義(平成4年10月、83歳で没)は「越中おわら節」の胡弓の名手で、特にその個性的で独特な音色で聴く人を唸らせた」とのこと。その「祖父の演奏を子守歌代りに聴いて育つうちに胡弓に興味を持ち始めたが」…、その後に、交通事故で大怪我をするなど、いろいろとドラマが待っているわけである。
 彼女の胡弓の音には、彼女ならではの音色があるとの、ご主人の談話が印象的だった。

 さらに、桜で有名な大和路の吉野が、実は紅葉でも、素晴らしい。というより、紅葉こそが吉野の醍醐味なのだという話も伺うことが出来た。
 せっかくなので、小生、駄句を連発:

 山粧い 妍を競うか 吉野山
 艶やかに 今を盛りの 吉野山

 他にも、3日から4日にかけては、アメリカの大統領選挙の報道が、どの局でも聞けたのは、言うまでもない。ブッシュ現大統領が再選された。当面の経済や現日本の政権からすると、都合がいいようだが、長い目で見ると、どうなるものやら。イラクでは、ベトナム以上の悲惨な状況が生じているらしい。
 自己責任論が台頭してか、日本のマスコミも、イラクの惨状はほとんど伝えない。もしかして自己責任論というのは、マスコミや日本の世論の関心がイラクの実情に向くのを逸らすために、一部の報道機関などが政府の意向に沿う形で、意図的に流しているのでは、なんて、憶測を逞しくしたくなる。


 車中では、三島憲一著の『ニーチェ』(岩波新書)を読み始めていると、昨日の日記に書いた。自宅では、相変わらず、ミハイル・バフチン著『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)と『おくのほそ道』(松尾芭蕉著 潁原退蔵・尾形仂訳注 角川文庫)をゆっくりと読んでいる。
 前にも書いたが、小生、ドストエフスキー論は、基本的に読まない。それでも、バフチンの書は、内容が濃いので読み応えがある。長い本だが、最後まで読みそう。
『おくのほそ道』は、この本では二度目だが、さまざまな版で読んでいて、通算すると、5か6回にはなると思う。
 ところで、本では、ちょっと嬉しいことがあった。もう、10年ほども以前に図書館から借り出して読み感銘を受けた鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(中公新書)を4日の朝、ゴミ箱で拾ったのである。こんな本を拾うことができるなんて、仕事の不調を補ってあまりある僥倖だった。そのうちの再読が楽しみである。

 何処かの掲示板で北海道が話題に。そのサイト主の方が北海道の方だから、当然といえば当然なのだが。そのサイトの掲示板に、小生は以下のような書き込みをした:

 北海道は二度ほど旅行したけど、またゆっくり旅してみたい。北大(?)の並木道とか。北大、狙ってたけど、届かなかった。雪の科学者、中谷宇吉郎博士の随筆が好きだったし。雪の研究が今じゃ、人工の雪を降らせるまでになった…。時代ですね。

 粉雪や 昔は天から 今は頭に
 降る雪や 本物かどうか 分からない
 降る雪を 口で溶かして 天の味

 さて、年間掌編百篇制作という目標。先月までで、84個。残す二ヶ月で16個。胸突き八丁が続く。夜半に、今月最初の作品を書いた。先月末に、「ディープスペース」という作品を書き上げたが、その続編である。
 といっても、物語として続いているというわけじゃなく、連作的に書いている。深い空間。小生の過去の作品を読んだことのある方は、ビビビと来るだろう。そう、 「ディープタイム」や「ディープブルー」のこと。
 後者の2篇は、かの「クラゲ」の絵をイメージして書いたものだが(成功はしていないが)、「ディープスペース」は、当初は、クラゲの絵を念頭に置いていたが、次第にイメージは離れていって、もっと自由な虚構空間を遊ぶつもりになっている。
 ということで、昨夜半に書いたものは、「ディープスペース:バスキア!」となっている。
 バスキアとは、言うまでもなく、ジャン・ミッシェル・バスキアのことである。小生が、この十年、一番、気に掛けているアーティスト。
 尚、ホームページへのアップは、なんとか、近いうちにと思っている(のだが)。

 さて、冒頭に掲げた写真は、4日、仕事がそろそろ終わりという朝の5時半頃だったかに撮ったもの。前にも、同じ場所で朝の明ける様子を撮ったことがある。
 実は、この一時間前、まだ薄暗い中、朝焼けの赤が混じり始めた、実に素晴らしい光景が同じ場所で見られ、すかさず写真に撮ったのだが、目にしている光景とは、似ても似つかぬ写真になったので(ほとんど真っ暗)、掲載を断念したのである。ああ、我が腕前の貧しさよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/04

文化の日だったっけ

s-DSC01056.jpg

 昨日、三日は文化の日だった。三日だということは、さすがに分かっていたが、その日が祭日だったとは、会社の駐車場に来て初めて気がついた。
 尤も、どうも、日中にしては、普段着姿のお父さん方の姿をよく見かける。どう見ても、出勤という風ではない。仕事にあぶれて焦っている風も伺えない。もしかして、という予感はあったのだが。
 どうにも否定できなくなったのは、駐車場に車が妙に多いことに気付いてからである。えっ、もしかして、今日は休日なの? 分からないが、週日であれば、小生が出勤する頃には、駐車場の車は、既に半分以下になっているはずである。残っているのは、小生のように拘束時間が約20時間の勤務形態ではなく、ナイト(夜勤)の車が大半。
 とにかく車に乗り込み、ラジオをオン。何気なく聴いていたら、文化の日がどうしたとか、叙勲がどうしたという話題が。そうだったのか、と、やっと得心が行った次第。
 一人暮らしをしていると、世間の波から取り残されがちである。そもそも、終日、会話というものがない。起きても、ボヤーとした頭のままに起き上がり、トイレを済ませ、食事をし、場合によってはテレビを見、昨夜、読み残した新聞など眺め、着替え、時間が来たら出勤。
 それらのステップを機械的に踏んでいく。鞄に詰め込むものの確認、財布や鍵束、そして戸締りなどの確認、そこには、当然ながら会話などの入る余地がない。新聞も、朝は開かないままに手に抱えて出勤し、待機中などに読むことにしているので、当日の予定なども、その日の夕方乃至は夜中までに知る。
 困るのは、衣替えの時季である。暑ければ、そのように、寒ければ、そのように衣服を用意するのだが、さて、いつ、衣替えしたらいいのか、さっぱり分からない。外を見ても、人通りは見えないので、今日は比較的寒そうだし、長袖なのか、上着を用意するだけでいいのか、見当が付かない。
 もっと、困るのは、常識が養えないことである。付き合いの範囲が狭いこともあって、結婚式や葬式、引越し、誕生祝い、その他の際に、何をどうしたらいいのか、まるで分からない。分からないだけではなく、ちょっと自分が面倒だと思ったら、もしかしたら義理もあって、付き合い程度のことはしなければいけない場合であっても、義理を怠ってしまう。
 すると、もう、人との付き合いが減っていく。狭まっていく。ドンドン縮小再生産を繰り返す。当面は、付き合いを怠るだけだったのが、もう、顔を合わせるのも、心苦しくなり、気が付くと、陸の孤島に居るような生活になってしまうのである。
 取りあえずは、都会(のはずれ)に住んでいるので、生活に不便はしない。健康に気を使いながら、細々とは生きて行ける。が、隣近所との付き合いも、面倒で憚っているうちに、知り合いさえ、近くにはいない。
 新潟は中越での震災を見て、隣近所との付き合いや、コミュニティの大事さを目の当たりにしている。かの、阪神・淡路大震災の時も、地域住民の交流の大事さが、報道などで繰り返し伝えられていたが、この度、震災を被った地域は、山間地であり、尚のこと、地元住民同士のつながりが濃い。仮設住宅を建設するにしても、何処か広いところに、まとめて沢山、作り、被災者を寄せ集めるのではなく、地域のコミュニティごとに、小さな単位(数)での仮設住宅の建設が望ましいという。
 年を取ると、新しい付き合いを構築するのは、結構、億劫だったりストレスになったりする。巨大な仮設住宅の集合地に近くで顔見知りもいないような形で寄せ集められたのでは、交流も何も叶わないのである。
 さて、翻って自分はどうだろうか。今だって、都会の片隅で孤立して生活している。それは、近くにコンビニもスーパーも病院も仕事先もあるから、大概のことは、他人様との付き合いを避けても(避けるつもりがなくても、自然と途絶えがちになっていく)、一人で暮らせる。
 暮らせていることは、確かに、そのとおりなのである。下手すると、一ヶ月だって、仕事以外では他人と会話をしないことがしばしばである。いつだったか、病気して一ヶ月以上、寝込んだ時も、誰一人、訪ねてこない現実の厳しさを実感した。このまま、息絶えていっても、誰かに気付かれるまで、どれほどの時間を要することだろうと思ったものだった。
 ただの一人も、心のパートナーを作れなかったのは、自業自得であり、仕方ないのだし、我が侭な自分だから、仕事以外では付き合いを持たないほうが楽だ、という思いもある。この生活の在り様は、自分が選んだ結果なのだと自覚しても居る。
 自由にできる時間が少ない中、読書や執筆ができるのも、一人暮らしだからなのだろうと思う。
 文化の日。祭日。そんな日に仕事して、文化の香りの欠片もない時の迷い子になっている。せめて仕事で少しは忙しかったら、余計なことを考えずに済むのだが、閑散とした仕事。街。一時間以上も町中を走っても、何処かお客さんのいそうなところで待機しても、何時間もお客さんにも見放された状態でいると、まさに、都会の片隅で自分は見捨てられているような、妙な錯覚に陥りそうになる。
 世には、文化に携われる立派な人も居る。が、さて、自分はどうかと言うと、自分なりに創造の根を不毛なる我が心の荒野に植え付けようと懸命である。空っぽの頭を引っ掻き回し、何がしかの想像の空間を作り出そうとする。
 今週は、車中に、三島憲一著『ニーチェ』(岩波新書)を持ち込んでいる。昨年から、貰った本、拾った本、昔読んだものの再読が読書のメインになっている。本書も、貰った本である。
 本書の謳い文句によると、「西洋の理性中心主義とキリスト教道徳を容赦なく批判し,力への意志,神の死,永遠回帰を説き,生は認識を通じて美となるべきことを主張したニーチェ.ハイデガーからドゥルーズ=ガタリまで,彼なくして二十世紀思想は語りえない.『ツァラトゥストラ』など深い孤独の思想を読み解き,彼の批判が現在の状況とどう関わるかを考える.」という。87年の本である。
 ニーチェは一時期は、芸術(ワーグナー)での生の救済を夢見た。
 目の前に突然、口を開けた深淵。絶望。神の死。それを美の創出で乗り越えようとした。
 小生は、美を追い求めつつも、むしろ、虚の時空を虚構の空間で埋めようとしている自分を感じている。空白、喪失、欠乏、徒労、その虚の空間を、さらに虚なる虚構の時空の創出で糊塗しようとしている…。
 学生時代だったか、文筆を田植えに喩えてみたことがある。田圃に手で苗を植えていく。そのように、原稿用紙の桝目に文字を埋め込んでいく。原稿は、自分にとっては泥田なのである。
 今は、原稿は、モニター画面である。というより、むしろ、液晶の画面、さらに言うと、電子の順列と組み合わせの抽象空間こそが、原稿用紙なのである。この物足りなさ。が、創出する空間が虚構の空間なのだとしたら、電子の波に形を与え、与えては崩し、崩しては新たな形を必死になって与えようと足掻く、しかも、出来上がった作品も、電子の気紛れな並びにしか残されていないという、この在り方こそが、創造に一番、相応しいのではと思ってしまう。
 その抽象の空間に束の間の形を創出し、その虚なる位相を墓場とする。
 人間にとって…、というより、自分にとって欠けているもの、他人には常識で見えているし、足りているはずのものが、欠如している。しかも、自分では自分の顔も背中も鏡などを使わない限りは、つまり、生の形では眺められないように、自分に一番欠けていて、しかも、必要なものも見えないのではないかと感じる。それこそ、突然、尻尾に噛み付かれた猫が、尻尾を追い掛け回すように、小生も尻尾を追ってグルグル回っているような気がする。追いつけない。
永遠に追いつけない。尻尾を切り離さないと、自分の実相を確かめることが出来ない。
 何が自分に足りないのだろう。
 でも、ひょっとして、本当は、とっくの昔に気付いていたりして。
 そんなことはないと信じたいのだが。

 掲げた写真は、文化の日の真夜中に撮った、オレンジ色に輝く東京タワー。肉眼では、もっと色鮮やかに見えていた。が、小生の腕前では、なんだか、夢の中に出て来る幻の搭のようだ。小説も、そう。自分の脳味噌の中では、傑作に感じられているのだけど、いざ、描いてみると、見るも無慙。
 これが悲しい現実なのだね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/02

朝、霧が出るとその日は晴れる

s-DSC01048.jpg

 表題そのままなのだが、今日、火曜日は、まさに「朝、霧が出るとその日は晴れる」となった。
 タクシーの営業も残すところ、あと二時間ほどになった頃、まだ、空は真っ暗だった。夜明けがやけに遅くなったなと思っていた。ある郊外の駅に車を付けて、お客さんを待って三十分あまり。ようやく、お客さんが乗ってくれた。さて、走り出すと、フロントガラスが濡れてくる。
(あれ、雨でもなさそうなのに、どうして水滴が? 朝露?)
 なんて、思いつつも、さらに走らせていると、未だ日の昇るにも間のある五時前の暗さだけじゃなく、霧が立ち込めていることに、ようやく気がついた。
 それも、濃霧と言いたくなるような濃さ。視界がかなり不良の状態。お客さんを下してからだったろうか、ラジオでは、霧の話題がちらほらと。他の地域はともかく、東京都内では全域で濃霧が漂っているらしい。
 そのラジオの話題の中で、「朝、霧が出るとその日は晴れる」という言い伝え(?)があるという話を聴いたのである。
 そこには、何かもっともらしいメカニズムがあるのかどうか、ネットで調べようと思ったが、適当なサイトが見つからない。せいぜい、朝霧が秋の季語だということに、改めて気付かされただけ。
 霧とは、「空気中の水の粒子が冷えて凝結し、細かな水滴になり浮遊する」なんて、説明しても、何を今更だろう。
 それでは、霧と靄(もや)と霞(かすみ)の違いはどうだろうか。
 気象庁などに問い合わせるのがいいのだろうが、ネットでは既に調べている方が大勢、いる:

 霧 : 微小な浮遊水滴により視程が1km未満の状態
 靄 :微小な浮遊水滴や湿った微粒子により視程が1km以上、10km未満となっている状態

 気になったのは、煙霧という言葉。同じく、「乾いた微粒子により視程が10km未満となっている状態。」という定義が示されている。「乾いた微粒子」!ってことは、つまりは、土埃などで視界が幾分か遮られている状態のことなのか。
 上掲の定義だと、霧は、地上世界に降りてきた(生じた)雲だということだ。
 靄は、「微小な浮遊水滴や湿った微粒子」とあるように、必ずしも、微小なる水滴だけじゃなく、煙(埃)なども靄の原因となりえるというわけだ。
 では、今朝の濃霧は、純粋な霧だったのだろうか。たしかに、湿度が極めて高かった。
 が、高気圧に日本列島がすっぽり覆われていることもあってか、風がなかった。
 ということは、排気ガスや埃、その他の「乾いた微粒子」の類いが、風があれば海にでも吹き流されるはずが、列島上に滞っているということになる。
 霧が生じるには、核になる物質が必要だという話もある。特に、東京などのように埃が多いと、湿度が高い場合、その埃を核にして大気中の湿度が水滴の形に結晶するという可能性が高まるということか。
 そういえば、今はどうなのか知らないが、一昔以上も昔のロンドンでは、濃霧が凄まじかったというが、やはり、産業が急激に発達し、工場の排煙が無制限に流れ漂って、霧の深さを過激なものにさせていたとか。
 今朝の東京の濃霧も、単に霧が深いと、風情を楽しんでいるわけもいかないのか。
 その前に、視界が悪いのだから、車を走らせている小生、可愛い小さな目を、パッチリバッチリと開けて、事故を起こさないよう、懸命な走行に努めていたので、霧の風情を愛でるゆとりもなかったけれど。
 あ! 霞(かすみ)のことを書いていない。
 霞というのは、霞んで見えるという表現もあるように、事情なり原因が何であれ視界が霞むこと。それこそ、霧で霞むこともあれば、土埃や煙で霞むこともある、というわけである。
 となると、小生の脳味噌は、どうなのだろう。いつも、霞が掛かっている…。ま、寝不足ということにしておこう。年のせいにしたくないし。
 ただ、老眼の度が進んでいて、近場は見えない。だから、読書は老眼鏡がないと、辛いのだが、遠方となると、下手すると若い頃以上によく見える。美女も遠くだと、くっきり見えるが、近付いてきて、さて、どんな素敵な人かと、ワクワクしていると、いよいよ目の前を通り過ぎるときには、姿かたちがぼやけてしまって、あの遠くで見かけた素敵な女性は何処へ行ったの、ってことになっている。
 でも、お蔭で、近場で見る限りは、大概の女性が綺麗(だろうな)に見える(そう、思っておく)というメリットもある。
 こうした小生の事情ってのは、脳味噌の霞み具合とは反比例している。頭脳の働きは霞んでいるのに、遠くがクリアー。不思議だ。
 そういえば、昔、霞ヶ関ビルという巨大なビルの先駆けのような高層巨大ビルが出来た時、あれは、政治的経済的に不透明な永田町の近傍にあるからだとか、光化学スモッグのひどくなり始めた、排気ガスのひどい時代だったので、そうした時代を象徴する意味で命名されたビルだという噂を聞いたことがある。
 政治の不透明さだけは、今も昔も変わらないってことなのか。
 
 せっかくなので(何がせっかくなのか、自分でも分からないが)駄句の数々で、この一文をきっちり、締めておきたい。例によって、方々のサイトの掲示板に書き散らしたものである:

(ホトトギスの異称:杜鵑・霍公鳥・時鳥・恋し鳥・早苗鳥・子規・浅羽鳥・文目鳥・古恋ふる鳥・妹背鳥・歌い鳥・卯月鳥・黄昏鳥・射干玉鳥・不如帰・夕影鳥など。他にも幾つかある。ホトトギスは、ウグイスに托卵する

 ホトトギス 時の鳥とて 夏告げる
 ホトトギス 古(いにしえ)恋ふて 鳴くとかや
 ホトトギス 子規をも早め 鳴くのかと
 ホトトギス 射干玉の闇 射竦めて
 ホトトギス 梢の陰で 番うのか
 ホトトギス 夕影寂しと 鳴き荒ぶ
 ホトトギス 高浜の空 恋ふて飛ぶ

(東京は、雪は年に数日降るだけ。気をつけるのは路面の凍結。何処が凍結しているか、夜間はよく見えない。特に朝方が危険。でも、用心していても、滑る時は滑る。まるで、あっし駄洒落みたいに、滑る!!)

 凍結路 滑って転んで 肝冷やす
 親父ギャグ 雪道よりも 滑ります

 はるばると 来つるものかな 秋薊(あきあざみ)

(ブルーデイジー…、別名は瑠璃雛菊だとか。イラクの地で散った若者を思いつつ)
 
 瑠璃色の 星屑の空に 旅立てる
 地の砂と 天の星とを 結びけん
 若き血の 滾りを癒す 星屑か

 冒頭に掲げた写真は、そろそろ濃霧も掠れはじめた朝、六時過ぎに、何処かの町角で撮ったもの。いつもながら、花の名前は分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/01

…と秋の空

s-DSC01044.jpg
 
 掲げてある写真の花は、ホトトギスだとか。あるサイトの掲示板にこの写真を投稿したら、ホトトギスですね、と即答された。人様のサイトに写真を提供しておきながら、道端で見つけた花です、なんて、無責任な書き方をしていた自分が恥ずかしい。
 過日、別のサイトの掲示板で、ホトトギスは鳥だけじゃなく、花の名前でもある、なんて知る機会があったばかりだったのに。
 なので、昨夜はせっせと、「ホトトギスのこと」という雑文を綴ってみた。例によって、ホトトギスのことも何も知らない小生、書きながら調べ、調べながら書いていくという、行き当たりバッタリの書き方だが。
 一週間ぶりに配信したメルマガにこの一文と、27日の日記に綴った「音という奇跡」を併せて、配信した。
 日記で書いたことをメルマガで配信するのも、変な話のようだが、そもそも、ホームページを覗く手段を持っていないか、いずれにしても出先だったりしてメールを折々覗くだけの方もいるわけで、ブログという形式の公表形式が面白そうと思いつつも、当面は若干、間遠になっていくかもしれないけれど、メルマガの配信も怠りなく頑張りたい。
 
 車中ではラジオが頼りである。情報源として、また、音楽など楽しみの糧として。実際、昨日にしても、武装勢力に拉致された香田証生さん(24)さんについての情報が、刻々とラジオを通じて耳に入ってくる。一度は、生存の可能性もあったのに、悲痛な結果になってしまった。このことは、昨日の日記に書いたので(その時点では、生死は未だ不明だったが)、ここでは省略する。
 印象的だったのは、情報が錯綜しているという以上に、政府の情報管理や整理の拙劣さだった。
 これじゃ、間違った情報で戦争に突入するのも、無理はなかったのかと、改めて思い知らされた次第。

 北陸が全国でも雷の発生件数の多い地域だということも、昨夜のラジオで知った。得られた情報をネットで得た情報と照らし合わせつつ、若干のことを、やはり昨日付けの日記に書いた。
 10月31日がハロウィンの日だということも、同日のラジオ番組で知らされた。世相が厳しいこともあるし、キリスト教の国じゃないこともあってか、あまり日本では話題にならない。
 尤も、クリスマスも、バレンタインデーも、キリスト教の文化や伝統・慣習に関わるものであり、それを商魂たくましい方たちが商売に結び付けたわけで、ハロウィンだって、かぼちゃなど野菜作りに携わる産業界の方が、うまく商売に結び付ける可能性がないわけじゃない。
 尚、我がサイトの画像掲示板に、何処かのホテルで見た、ハロウィンにちなんだ展示物の写真を提供していただいた(446)。ちょっと、覗いてみてもいいかも。

 土曜日から日曜日に懸けてのラジオで、ちょっと小耳に挟んだ…のだが、一体、どういうわけで耳に残ったのかが分からないこともある。それは、例えば、秋海棠 (しゅうかいどう)という名の花のこと。
 そろそろ秋海棠の咲く時季も終わりだというのに、どうしてこの花が話題に上ったのだろう。
 いずれにしても、名前が印象的だということある。
 中国名が「秋海棠」だというが、花の名前というのは、いつ、一体誰が、何に基づいて名付けたのだろうか。思うに、大概の詩や歌や小説の作者などより、花など植物の命名者こそ、よほど、天才的な創造者なのではなかろうか。
 詩や歌を綴るにしても、植物名の味わいや余韻などに、どれほど依存していることだろう。
 上掲のサイトに載っている松尾芭蕉の句を:

 秋海棠 西瓜(すいか)の色に咲きにけり

 せっかくなので、ちょっとだけ、秋海棠のことを調べておくと、花言葉は片思いだそうである。
 古くから、「雨に濡れたる秋海棠の花」とは、「古くから使われる憂いを秘めた美女のたとえ」として歌われていると、数々のサイトに記されているが、小生は初耳である(あるいは、耳にまるで残っていない)。典拠などは、何処にあるのだろうか。

 これは、別にラジオを聞いていて、耳に残ったというわけじゃなく、まるで本人としても頭に浮かんだ脈絡が分からない事案である。
 頼山陽(らいさんよう)の詩に、「鞭声粛粛夜過河」という有名な詩がある。読み下すと、「鞭声 粛粛 夜 河を過(わた)る」となる。甲斐の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信との戦いである川中島の合戦を叙景した詩のようである。
 念のため、詩の全容を示しておく:

 題不識庵撃機山図       不識庵の機山を撃つ図に題す

 鞭声粛粛夜過河        鞭声 粛粛 夜 河を過(わた)る
 暁見千兵擁大牙        暁に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年磨一剣        遺恨 十年 一剣を磨き
 流星光底逸長蛇        流星光底 長蛇を逸す

 意味などは、「頼 山陽の漢詩」などを説明したサイトを覗いてみてほしい。
 小生、子供の頃、この漢詩を川中島の合戦の様子を画面に写しつつ、朗々と謡うのを聞いていて、なんとなく、脳裏では違う詩に聞えていた。
 小生の耳には、どんなふうに聞えたかというと、「べんけい シクシク 夜 河を渡る」なのだった。
 義経を心ならずも叩いて、それで、安宅関を越えたはいいけれど、主君を叩いてしまったことを深く悔いての詩だ、というわけである。
 どうして、土曜日の営業中、「べんけい シクシク 夜 河を渡る」という文句が脳裏で幾度も響いてならなかったのかは、自分でもメカニズムが分からない(このように聞えていた、というのは、ずっと前のことなのだし)。

 そうそう、小生のこと、駄句も載せておかないと、物足りない:

 ホトトギス鳴かせて見たい手の平で 
 ホトトギスせめて見たいなその姿  
 ホトトギス鳴かず飛ばずで来けるかな  
 ホトトギス鳴かず飛ばずもいいものさ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2004年10月 | トップページ | 2004年12月 »