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2004/11/17

冬 曙 (ふゆあけぼの)

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 冬曙 (ふゆあけぼの)が、冬の季語なのかどうか、その前に季語なのかどうかも、分からない。「夜明け 季語 冬」でネット検索してみたら、その筆頭に、もう、例によってというべきなのか、山崎しげ子(随筆家)氏の手になる(「季語の風景」 )一文「冬 曙  ふゆあけぼの」をヒットしたのである。
 写真(写真部・河村道浩)もいいし、文章も簡潔で読みやすく味わいがあるということで、人気があるのだろうか。そこには、句が載っている:

 山の肌冬曙の中に現(あ)れ

 写真と同氏の文章と共に、この句を味わうと、知らぬ間の冬の訪れを風景の中に感じつつも、同時に何か切ないような艶かしさも覚えたりする。
 ところで「夜明け」をネット検索のキーワードにしたのは、今日、掲げる写真が、小生のこのサイトでは恒例になりつつある、夜明けの写真だからである。夜明けといっても、未明から午前に懸けての表現(名称)は、未明・夜明け・早暁・暁・払暁・明け・明け方・曙・朝方・早朝などと数々ある。
 ここに有明などを同列の中の一つとして加えていいのかどうか、躊躇うが、朝方を示す表現も、恐らくは、まだまだあるのかもしれない。
 掲げた写真は、朝の6時1分頃、場所は東京のやや郊外にある住宅街。
 小生が朝の写真を撮るのは、別に、恒例にしようという目算があってのことではなく、仕事がほぼ終わりに近付き、疲れ具合など、場合によっては車を回送の状態にしてあるので、写真を撮る余裕も出てくるからである。
 朝の写真を撮るのなら、バランスを取る(?)意味でも、夕焼けなどの空も撮ってみたい。仕事柄、ずっと外を(東京の都心を)車で走り回っている。日中は渋滞もあり、安全を図る意味でも、カメラはトランクに仕舞ったままにしてある。間違ってもカメラを取り出して、撮っちゃおうという気を起こさないためにも、カメラは手の届かないところに置いてあるのだ。
 が、撮りたいと感じる瞬間は、日中や早暁、夕方に限らず、しばしばある。昨日にしても、夕五時半過ぎ、国会議事堂方向へ向かうため、九段坂上で左折し、皇居周辺の内堀通りに入ってしばらくしたら、右斜め上の空に思いがけず三日月が目に飛び込んできた。
 幸いにして、信号に引っ掛かり、しばしの月見。
 思いがけず、というのは、12日が新月ということもあり、また、週末から週始め、雨がちだったりして、お月さんとも縁が薄かったから、まして、夕方の五時台ということもあり、月影に恵まれるなど、全く、予想していなかったから、そんな、不意に、という感じを抱いたのだろう。
 雲も消え去っていて、完全には暮れきっていない空に、三日月が冴え冴えと輝いている。
 江戸など、昔の人は、月の満ち欠けをどのように感じていたのだろうか。確かに、日々、少しずつ変化していく。変わりようは規則ただしい。月食、日食などのように、思いも寄らない時に(昔の人には)不意打ちのように生じる満ち欠けではない。
 だから、月の姿が日々変化すること自体には、何の違和感も抱かなかったろう。でも、しかし、何故に満ち欠けするのか、という点には疑問を抱いたこともあったに違いない。太陽と月と(地球と)の位置関係に思いが至ったのだろうか。
 それとも、あくまで月単独の<現象>であり、とにかく月はあのようなものなのである、人は、その現実を受け入れ、その人なりに思い入れをするのみだったのだろうか。
 
 ちなみに、「月」は秋の季語である。「名月」も、勿論(理由はともかく)秋の季語。では、三日月は? 
 尤も、月が秋の季語だといいつつ、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」なんて名句があるじゃないか、これは春霞の月を描いて秀逸じゃないか、ということになるのだが、それでも、俳句の世界では月とだけ出てくると、秋の季語と決まっているようである。
 そうそう、三日月があるくらいなので、二日月もある。二日酔いがあるくらいだから、三日酔いがあるようなものか、って、これは言葉遊びでした。
 三日月には、また、別称が多数ある。若月・眉月・始生魄・哉生明・朏魄・麿鑛・彎月・繊月・初月・虚月・蛾眉・(夕月)…。それぞれの名称を時間があれば、調べてみたくなる。きっと、名称の使われる経緯、作られるに際しても謂れがあったに違いないと思うのだが。

 それにしても、何故、「月」というと秋とされてきたのか。恐らくは(以下は、小生の単純な憶測に過ぎないが)、まず、夏とは違う日の短さ、つまりは夜の長さが挙げられるだろう。
 秋であっても、日中は明るい。が、釣瓶落としではないが、秋の日は一気に暮れていく。すると、雲の少ない空だと、暮れなずむ空に星影や月影が冴え渡ってくる。丁度、昨日の小生の感じた、不意打ちの感を覚えたりするわけである。
 この月影の冴え、というのには、更に他の条件も背景にある。そう、なんと言っても、空気の違いである。夏場は、暑苦しいし、蒸し暑い。それは、湿気のせいが大きい。この湿気が、空を幾分か以上に曖昧なものにしてしまう。それは、湿気で視界が若干だろうが、遮られるということと、下界の生命界、植物や昆虫などの動物の蠢きが身近にある。鳥の囀りなど、生き物の生命力を愛でる機会が多いということ以上に、蚊や虫などにうんざりさせられたりする。
 空の若干の不透明さと下界の賑やかさなどが相俟って、空を眺める気分を鬱陶しいものにさせているのかもしれない。
 それが、秋となり、その秋も深まっていくと、虫の鳴き声も聞かれなくなり、かのクマ騒動も新聞紙を賑わすこともなくなって(つまり、動物たちの活動や植物達のムンムンする草の匂いも和らぎ)、夜などは、今とは比較にならない暗さに町中でも恵まれていた(畏怖の念を抱かされていた)だろうし、空に明るい月や星は、時に凄みを持って天において地にある我々を睥睨しているように感じられたりしたのだろう。
 星月夜にあって、人は、天界と対峙するというより、月の船に乗り、星の煌く海、雲の峰々を漕ぎ渡っていったりしたのではなかろうか。そう、背中を吹き抜ける風は、とっくのうちに爽やかさではなく、寒気を覚えさせるものになっている。人肌も恋しくなる。
 それにしても、掲げた写真は、朝、六時である。ちょっと暗すぎるような。写真のほぼ中央に写る丸く淡い光は、勿論、太陽ではない。といって、月影でもない。有明の月だったりしたら、嬉しかったが、住宅街に、それとも、吹き払われることのなかった雲に遮られて、月の姿を見出すことができなかった。
 そう、電信柱にぶら下がる街灯である。その街灯が、やたらと眩しく光っている。空は雲も切れていて、もう少し晴れ渡った感じを写真に撮れるかと期待していただけに、ちょっと意外なほどの暗さが際立つ。
 時代の雰囲気なのだろうか。夜明けという言葉でネット検索したのだけど、本当の夜明けには、まだ相当に時間が掛かるという暗示なのか。
 それでも、夜は明ける。人は動き出す。とにかく、今日の一日を生きるのである。

 夜明け前月の影追う未練かな

 雲の峰月影覆って遠い朝

 三日月に不意を喰らって惑う我

 月影を面影と読む秋の夜

 
(「冬 曙 (ふゆあけぼの)」のことに触れることができなかった。調べられなかったのです。誰か、この言葉について知っている人、何でもいいので、教えて下さい)

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