「秋霖」追記と冬の雷のこと
先ずは、30日の日記の表題、「秋霖(しゅうりん)」について、若干。
日記の冒頭、「秋霖(しゅうりん)とは、秋の長雨のことを言うとか。秋の季語として使われる。」と記した。
が、偶然というべきか、それとも、「秋霖」を使ったばかりなので、その言葉に敏感になっていただけのことなのか、ラジオ(30日付けNHKニュース)のお天気情報の話の中で、まさにこの言葉が登場した。
うろ覚えのままに、書き綴っておくと、季節の変わり目には、ぐずついて天気が一週間ほど続くことがあり、4月上旬のぐずついた天気を「なたね梅雨」と呼ぶように、秋から冬にかけての、は「山茶花(さざんか(梅雨」と呼ぶ…、と、聴いた。
そこまで聴いて、ちょっと不安に。じゃ、「秋霖(しゅうりん)」(秋雨)は、何時の時季のことを称するのか。
その前に、ネットで調べたら、「なたね梅雨」の別称に、「タケノコ梅雨」があるという。「山茶花」も「菜種(なたね)」も、「筍(タケノコ)」も、要するにその頃に咲いたり印象的だったりする植物の名称を冠しているわけである。
では、「秋霖」は、何時の時季を指す表現なのか。昨日のラジオだと、夏から秋の変わり目の長雨を表現する言葉なのだというのである。他の梅雨に並んで敢えて表現するなら、ススキの穂の風に揺れる光景が印象的だったりするので、<ススキ梅雨>とでも命名したら、なんて、個人的には思ったが、ススキは、河原などに行けば当たり前のように見られる…が、都会では、見かけるのが珍しくなってしまって、難があるのかもしれない。
そもそも、六月前後の所謂「梅雨」は、「梅雨」と称されるだけで、一切、冠せられこともないのだし、「秋霖」(秋雨)は、秋霖のままでいいのかもしれない。
昨日、車中でラジオを聞いていたら、雷の話を聴くことが出来た。やはり、NHKの放送でのことだった。「ラジオ深夜便」という番組だったろうか。語り手は誰だったか聞き漏らしている。気象学者の宮澤清治氏だったろうか。アンカーは宇田川清江さんだった。
話の大半は、仕事中(運転中)だったこともあり、雨の中、高速を走っていて、運転に相当程度集中していた小生は、幾つかの情報を断片的に拾っておくのが精一杯だった。
一番、意外だったのは、富山を含む北陸地方が、冬の雷の発生する年間の日数が全国でも際立って多いという話だった。
昨日、30日は、時折雨脚が弱まることがあったが、ほぼ終日、雨。それが、夜が深まると共に、不意に稲光が伴うことが幾度かあった。雷雨。稲光は、かなり遠いのか、眩しく光っても、音はなかなかしない。中には、光るだけで、音を伴わないことも。
そんな天気だったので、話題に、冬の雷などが採り上げられたのだろう(か)。
早速、「冬 雷 北陸」をキーワードにネット検索。すると、冒頭に、「北陸の雷の特徴」と題されたサイトが登場した。クリックすると、まさに小生が求めていた情報が載っていた。
なんとなく、雷というと、夏というイメージが小生には、ある。主に梅雨の初めから夏の終わり頃までの時季、午後から夕方にかけての時間帯に、不意を打つように強い雨が降り、そこに雷鳴が重なってくる、という印象なのである。
が、北陸に限っては、冬の雷が多い。雷雨は、九州や関東の山間部でも多いのだが、年間を通してみると、北陸地方が一番、多いという統計結果が出ている。その上で、「北陸は冬の雷日数が多い」というわけである。
また、「夏の雷は午後から夕方にかけて発生することが多く、冬の雷は発生する時間に偏りがない」という。
小生は、郷里である富山を離れて三十年以上となる。子供の頃、例えば、冬の季節など、雷が多かったのかどうか、記憶に定かではない。追々、やや遠い昔の記憶を辿って、どんなだったかを思い出していきたい。
北陸に限らないが、冬の日本海は荒れる。雪交じりだったりすると、逆巻く波に凄みさえ覚える。そんな空に稲光し雷鳴が轟いたりしたら、さぞかし、凄まじき光景だったろう。
尚、上掲のサイトには、「冬季雷(上向き雷、多地点同時落雷)の例」という興味深い写真も載っている。そんな様子を天変地異大好きだった(である)小生だって子供の頃、眺めたことがあったろうに。
確か、同じ番組(同じく宮澤清治氏)の話の続きで、寒ブリの話もあった。
寒ブリというと、「ブリ街道」を思い起こすし、「氷見の寒ブリといえば、東京の築地市場でも高値で取引されるブランド品」だったりする。正月の帰省の折には、ブリの照り焼きや、天然ブリのお造りなどを食べるのが楽しみである。
その寒ブリについて、冬の雷に関連付けると、「晩秋から初冬にかけて、富山湾では、雷鳴とともにシケに見舞われることがあります。これがブリの豊漁を告げる「ブリ起こし」です」となるわけである。
富山で採れるブリには、養殖モノはない、すべてが天然もの、なのである。
小生自身、「ブリ街道」は、「ノーベル街道」ということで、雑文「ノーベル街道をちょっとローカルに見る」を書いたことがある。
武装勢力に拉致された香田証生さん(24)さんについて、悲痛な情報があった。昨日の政府の情報の連絡や情報管理の狼狽振りには呆れたが、今朝、未明の厳しい情報に吹き飛ばされてしまった。バグダッド市内で発見された首を切断されたアジア人とみられる男性の遺体の身元確認が最終的にされていない段階では、迂闊なことは言えない。
が、万が一、最悪の結果が確認された時、政府やマスコミは、どのような報道をするのだろう。また、例によって、自己責任論を持ち出すというのか。危険と警告された地域に勝手に入ったのだから、自業自得と、政府は責任を回避するのだろうか。
なるほど、無謀な行動だったことは間違いないと思う。が、若く好奇心と善意(かなり無邪気な)に溢れる若者が、良識ある人々の制止を振り切っても、イラクの惨状を自分の目で見てやろうと思うという気持ちも、無碍に愚かなものと断じる気にはなれない。
そもそも、自己責任を問われるのは、日本の政府当局であり、英米などを中心とする無謀かつ非道なイラク攻撃を支持した出発点が問題だったのではないか。そんな方針を支持した与党筋らの責任もある。大量破壊兵器は見つからなかった、だけじゃなく、最初からなかったと分かっていたのではないか、ないと分かりそうだったから、査察を中断させたのではないか。フセインの非道を喧伝する論調があったが、その情報の出自は怪しいことが段々と分かってきている。
イラクへの攻撃は、大義がまるでないことが分かっている。英米などの難癖であり、因縁であり、でっち上げでの、フセイン政権が気に食わないから、政権を倒して、英米日(イスラエル)に都合のいい体制へ持っていこうという意図以外に何があったのだろうか。
資源確保とイスラエルの安寧。そのためには、都合の悪い政権は倒す。日本もその受益者なので、目を瞑って、英米にくっ付いていく。
国益には、二つあると思う。一つは、文字通りの利益であり利害である。小泉政権の眼中にあるのは、この意味の利益追求だけである。
もう一つの、国家としての尊厳という国益は、全く顧みられない。アメリカに媚を売って、現ブッシュ政権に褒められて、有頂天になる一方で、アジアやヨーロッパでの尊厳は、低下の一途を辿っている。国連の常任理事国になろうという意図が一部にあるようだが、アメリカ追随と利害打算しか視野になく、大義の欠片も持てない、理念もビジョンもない国家に、どんな役割を担えるというのだろうか。
やはり、エコノミックアニマルの本領発揮だけ?!
イラクを、NGOなどの民間人が活躍できないような危険な状態に陥れ、数万人が、場合によっては十万人を超えるかもしれない、イラクの民間人の犠牲が生じたのは、英米や日本の責任でなくて、誰の責任なのだろう。
犯行(実際に、遺体の身元確認がされたなら、だが)が、指弾されるべきテロリストグループによるものであり、その蛮行を許す訳には行かないが、小生が懸念するのは、この事件を契機に、テロリストは許せない、自らの手で、イラクの治安に当たらねばならない、自衛隊の権限を増やすべきだ、政府による渡航制限を厳しくすべきだ、さらには、国論がテロリスト憎しの名のもとに、タカ派一色に染められるのではないかという怖れだ。
昨年、日本の外交官が暗殺されたが、彼等の意志を尊重し受け継ぐためにも、政府はイラク侵攻、イラクへの自衛隊の派遣を実行すると、彼等の死が利用された。
今度も、仮に香田さんが悲しい結果に見舞われた時には、打算的に利用しようというのだろうか。政府や与党、マスコミの論調を見守りたい。
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