秋霖
秋霖(しゅうりん)とは、秋の長雨のことを言うとか。秋の季語として使われる。
いつまでも降り続く雨を「霖雨(りんう)」と言うが、それが秋だと、「秋霖」ということになるわけだ。秋雨(あきさめ)という言葉もある。春雨だと、陽気も暖まってきて、降る雨がそれほどでないのなら、「春雨じゃ、濡れていこう」と気取ってみるのも乙なものかもしれないが、秋雨は濡れるのは辛い。体の芯まで冷えそうだ。
秋雨と書いただけで、秋の長雨を意味するようで、通り雨のような短い雨は、どう表現するのか疑問だが、秋時雨という言葉があるらしく、どうも、秋の雨は、長く感じられるもののようである。
やはり冷たさが身に沁みるから、それほど長く降らなくても、秋の雨はなかなか止んでくれない…と、憾み節が浮かんでしまうのだろう…か。
秋霖、なんと美しい味わいのある、響きも素敵な言葉だろう。これが当用漢字から除外されたが故に、使われなくなったというのは、秋の雨以上に淋しいことではなかろうか。俳句などの季語としてのみ使われるのは、なんとも惜しい。秋雨という言葉の使用のほうが、実は歴史の浅い言葉だという説もあるが、小生は未だ確認できていない。
明日からは雨がちの天気になるとか。木曜日の夕方に、ふと真ん丸の月を見て、感激のあまり、思わず、「満月だ!」と叫びそうになったが、さすがにお客さんが乗っていて、押し黙って、信号待ちの折に、じっと月影に見入るばかりだった。
帰宅して月齢をネットで調べたら、やはり満月だったのである。その月も、呆気なく雲間に隠れてしまう。
雲の波 月影返し 地は雨に
秋霖に 身も凍るのか 土の中
今日は、会社の用事もあって、帰宅が遅れ、たださえ、スケジュールの厳しい中、執筆や読書に割く時間がなくなってしまった。実は、過日より、どうしても書きたいと思っているテーマがある。小説作品にすれば、中編にはなるだろうテーマだが、今の自分は掌編に仕立てるのが精一杯。
今日、金曜日(乃至は、その真夜中過ぎ)のうちに書きたいと思ったが、生活のリズムが狂ってしまって、肝心の夜中には披露困憊の極が来てしまい、例によってロッキングチェアーで居眠り。結局、今日は書けず終いだ。残念である。
これは自分へのプレッシャーの意味もあるので、そのテーマを大凡のところだけでも書いておきたい。半分は備忘録のようなものだ。
タイトルは、仮題だが、「蛇の目」という。といって、蛇に仮託して物語を書こうというわけではない。それは小生の苦手とする表現方法だ。
そうではなく、蛇という俗に言う冷血動物の、その象徴が目にある。冷たい目。心など、欠片もないような目。愛情の微塵も感じられない目。懇願する相手を情容赦もなく食い殺してしまうに違いないと思わせる目。自分のことを熱い思いで見詰めている、恋い焦がれている、身を焼く思いでその人のために眠れない夜を過ごしてまでもいる、そんな相手の気持ちも知らないで、平静を保ったままで居られる目。
けれど、小生は、蛇の目、つまり感情表現をしない、感情が瞳孔にさえ洩れて来ることのない目に、むしろ、実は熱い感情、あまりに切なく寂しい、そして怯えた心を感じてしまう。
それは、子供の頃などに周囲にさんざん弄ばれて傷つき破れてしまった、それゆえにもう心を開くことの出来なくなった臆病になってしまった閉じた心をモロに示している。
目が感情のブラックホールになってしまい、周りの人々の暖かい思いやりも、時に徒(あだ)となったかのように、ただ、呑み込んでしまって、そのまま全く反応として帰ってこず、同時に、自分の胸の中で焦がれ死ぬほどに苦しい思いがあっても、それが表には表れてこない、そんな目、あるいは心。
血の涙とは、そんな冷たい目の裏側でこそ流れているのではなかろうか。
人に触れたい、人の心に触れたい、人に触れられたい、人の心と絡み合いたい、でも、怯え萎縮してしまった心は、繋ぐべき手さえ縮こまっていて、せっかく差し出してくれた手を握り返す勇気も出ない。信じれないのだ。信じられないのは相手のこと、でも、それ以上に自分の性根。
蛇の目よ とぐろを巻いた 心見せよ
東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について「強制になるということでないことが望ましいですね」と発言されたという。
これは、小生には注目すべき発言だと思う。きっと、陛下は、特に東京の学校現場、特に卒業式などの行事の際、日の丸の掲揚が義務付けられ、君が代の斉唱も強制されている現実をニュースで知って、心を痛めておられるのだろう。
この発言は、棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたことに対し、陛下が答えたもののようである。
米長邦雄さんが自分の仕事がかのようなものだとは、ラジオで聞いたことがある。そういう方だから、石原慎太郎東京都知事も教育委員会委員に選んだのだろう。
宮内庁の羽毛田信吾次長は「行政施策の当否を述べたものではない」と政治的発言であることを否定した上で「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と園遊会後に開いた会見の中で話していた。
実際、1999年に施行された国旗国歌法は、日の丸を国旗、君が代を国歌と定めたが、義務規定や罰則規定はないのだし、法律が国会を通った際、当時の自民党幹事長の野中広務氏も「国旗・国歌は強制しない」と言明したものだった。
それが、石原都知事下の東京都では強制されている。財政などの権限が東京都にあるので、学校側は従うしかないのだろうが、悲しい現実だ。
自発的に、己の信条で日の丸掲揚と君が代斉唱をするなら、とやかく言う筋合いではない。
が、強制となると、思想・良心の自由を保障した憲法に違反するし、小生は、気に食わないのである。
十五年戦争の反省が十分にされているとは言えない中では、素直には日の丸を誇りに思えないのである。
国を愛する気持ち、郷土を愛する気持ち、その思いはいろいろであっていい。無理にこれだと決めなくていいし、まして、国家や権力を持つ当局が国や郷土を愛する形や表現方法をこれだと決め付けて国民に強制するものではないと小生は信じる。
国も人も 愛する形は さまざまに
新潟の被災現場も気になるが、イラクで拘束され、場合によっては死を宣告されている青年のことも気掛かりだ。
テロには屈しないという立派な言明。が、イラクをテロリストの巣窟にしたのは、誰だったっけ。ブッシュ現米大統領であり、それを支持した小泉現日本の首相らではなかったか。言い掛かりだと既に分かってしまった因縁を付けてまで、イラクの体制を壊してしまった。
イラクは危険だから行ってはいけない。正確に言うと、イラクは危険な国家にしましたので、今は行かれません、ではないのか。
が、自衛隊は民間人が立ち入れないような危険な地域には派遣してはいけないはずじゃなかったのか。不思議なことが多すぎる。
冒頭に掲げた写真は、東京の夜景。信号待ちの際に携帯で慌しく撮ったので、画像が今一つ。小さく、東京タワーが見えるはずなのだけど、さて。
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