音という奇跡
音楽が好きなのかどうかを自分を振り返って考えても、結論めいたものは出てこない。そりゃそうだ、音楽一般では、あまりに漠然としている。それが、<音>ということに広げていいのなら、それがたとえ音楽よりもさらに茫漠としているという憾みはあるとしても、好き、というより、音に依存しているとも言える。
無論、音にはいろいろある。分野はいろいろあっても、音楽と呼称されるもので、楽器に関連するもの、唄を中心としたもの、ハミングや口笛…。誰にも音楽とは呼ばれないだろう、部屋の中の冷蔵庫のモーターの音、水道の蛇口の栓が緩いのか、流し台にポタッ、ポタッと落ちる水滴の爆ぜる音。同居する人がいれば、別の部屋で動くスリッパの音、ドアのノブの音、テレビ、ラジオ、ステレオ、携帯、窓の外からの遠い歓声、喋り声、下手なピアノの練習の音、秋ならば虫の鳴き声、時折鳴る救急車のサイレン…、そして風の鳴る音。
耳が誰よりも敏感というわけではないと思うが、学生時代など一人暮らしをしていた時には、騒音・雑音には敏感だった。一人で居る時には、食事を摂ったり音楽を聴くとき以外には、ひたすら読書していた。徹夜で読むこともしばしばだった。そんな時、音は、どんな音も邪魔だった。音が微かにでも耳に入ったら、読書はたちまち中断させられてしまう。
そんな時、音の出処に怒ってみたりするが、同時に、たまに、自分は本当は読書が好きではないのではないか、本の世界に読み浸っていないのではないか、本当は外の世界へ出ていきたい、なのに、外部から、読書とは無縁な生きた、現に動きつつある、生の世界の、その突端が自分を、読書より、そこには本当の世界がある、読書よりも豊かな世界がある、読書というより書物のネタ元となる現実の世界がある、お前は、そんな世界にこそ、立ち会うべきなのではないかと耳元で囁かれているようで、それで、雑音に過敏になってしまっているのではないか…、そんなことを思ってみたりする。
音。音楽。自分には、好きな音は全て音楽である。音楽が、音を楽しむという意味合いで構わないのなら。別の何処の誰かが作曲した、誰かが歌っている、そうした人の手により形になっているものこそが音楽であって、自然世界の音の海は、音楽ではなく、あくまで音(騒音・雑音…)に過ぎないというのなら、別に音楽と称さなくても、いい。
自分は自分なりに音を楽しむまでである。
どんな音が一番、自分の琴線に触れる音なのか。
となると、下手に作曲された音楽以外の全てとは言わないが、風の囁きを中心とした自然世界の音の大半は好きなような気がする。
それは、絵画についても、写真芸術についても、あるいは文学などについても、同様で、自分がこの肉眼で皮膚で脳髄で胸のうちで感じ取り聞き取り受け止める生の世界の豊穣さを越えるようなものなど、ありえようとは思えないし、実際に、そうだったのだ。
蛇口から垂れる水滴の、その一滴でさえ、どれほどの幻想と空想とに満ちていることだろう。そしてやがて、瞑想へと誘い込んでくれる。その様を懸命に切実に見、聞き、感じ、その形そのままに受け止めようとする。そこには、音楽も文学も写真も絵画も造形美術も舞台芸術も、凡そ、どんなジャンルの芸術も越えた、それともその総合された世界がある。
その水滴一滴から、幾度となく掌編を綴ってきた。形は掌編という文章表現だが、それは自分には絵を描く才能も、音で表現する能力も、どんな才能もないから、最後に残った書くという手段に頼るしかないからであって、しかし、創作を試みながらも、そのまさに描いている最中には脳髄の彼方で、雫の形や煌き、透明さや滑らかさの与えてくれるまるごとの感動を、その形のままに手の平に載せようという、悪足掻きにも似た懸命の営みが繰り広げられている、想像力が真っ赤に過熱している。
さて、主題の音に戻ろう。話を音楽に限ってみても、物心付いた時から、ラジオやテレビなどでいろんな音楽に接してきた。保育所や学校での童謡などから歌謡曲、演歌、民謡。
その中で、音楽に関して、転機とも言えるほどに衝撃を与えられたのは、一つは、学生時代になった当初に聴いたメンデルスゾーン(のヴァイオリン協奏曲)であり、もう一つは、シュトックハウゼンだった。
メンデルスゾーンからバッハ、ブラームス、ベートーベン、モーツァルト、やがてワーグナーに至る真っ当(?)な流れは、別の機会に。
ここでは、仙台市の片隅の山間のアパートの一室でシュトックハウゼンを聴いた衝撃の一端を少々。
が、悲しいことに、小生がシュトックハウゼンを学生時代に聴いたのは、多分、一度きりであり、それもFM放送で現代音楽の特集の一環で聴いたものだったと思う。
音楽にも疎い小生のこと、シュトックハウゼンも既に音楽の世界では古典の域に入っていることなど知る由もない。それは、後にヴォルスやフォートリエ、デュヴュッフェなどの絵画に圧倒されたのだけど、それらが絵画史では数十年も昔に現代の古典に収められていて、改めて鑑賞する人に特に新鮮な衝撃を与えているようには見受けないことに逆にショックを受けたにも近いかもしれない。
要は自分は文学に限らず多くのことに無知だったに過ぎないのだが、自分にはシュトックハウゼンの音楽を聴いた時、頭の中に宇宙空間が広がっていくような気がしたのである。
絶対零度に向かって限りなく漸近線を描きつつ近付いていく宇宙空間。裸で空間に晒されたなら、どんなものも一瞬にして凍て付いてしまう、恐怖の空間。縦横無尽に殺人的というより、殺原始的な放射線の走っている、人間が神代の昔から想像の限りを尽くして描いた地獄より遥かに畏怖すべき世界。
感情など凍て付き、命は瞬時に永遠の今を封じ込められ、徹底して無機質なる無・表情なる、光に満ち溢れているのに断固たる暗黒の時空。
その闇の無機質なる海に音が浮き漂っている。音というより命の原質と言うべき、光の粒が一瞬に全てを懸けて煌いては、即座に無に還っていく。銀河鉄道ならぬ銀の光の帯が脳髄の奥の宇宙より遥かに広い時空に刻み込まれ、摩擦し、過熱し、瞬時に燻って消え去っていく。
小生は、初めて人の手で作られた<音楽>で、自然界の音に匹敵するかもしれない音を聴いたと感じたのだった。 爾来、シュトックハウゼンの音楽作品を聴いたのは、数年前だったか、タクシーの車中でのことだった。が、恐らくは学生時代に聴いた曲とは違う…。それとも、自分という人間が変質し劣化し、音を音として聴く感受性も気力も萎えてしまっていて、受け止めきれなかったのかもしれない。
音に、それも、人の手が加わった音に奇跡を感じた唯一の時だったような気がするのである。もう、三十年ほどの昔の話である。
なお、シュトックハウゼンについて、もう少し、まともな話を知りたいなら、例によって松岡正剛が千夜千冊で取り扱っている。
カールハインツ・シュトックハウゼン『シュトックハウゼン音楽論集』(清水穣訳 1999 現代思潮社)
掲げた写真は、鎌倉宮の姿である。
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コメント
あるサイトを覗いたら、「鎌倉の名所「鶴岡八幡宮」と「長谷の大仏」を訪ねる!」という記事があった:
http://ameblo.jp/tonton3/entry-10014601145.html
そういえば、小生も一昨年の秋のこと、鎌倉で一泊したことがある。その帰りの日の昼前、鎌倉宮などを観て来たのだったと思い出した。
この記事と「「地震」は「なゐ」という」に載っている写真は、携帯で撮った鎌倉宮の画像:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2004/10/post_24.html
投稿: やいっち | 2006/07/13 21:49
「ドイツ作曲家のシュトックハウゼンさん死去」
http://www.asahi.com/obituaries/update/1208/TKY200712080048.html
カールハインツ・シュトックハウゼン氏(電子音楽のパイオニアとされるドイツの現代音楽作曲家)ドイツのメディアによると5日、西部ケルン近郊の自宅で死去、79歳。死因は明らかにされていない。
1928年に音楽教師を父に生まれ、51年にケルン音楽大で教師の資格を得て、52年にパリで現代音楽の大作曲家メシアンに師事。「テレムジーク」など古典から離れた前衛作品で電子音楽のパイオニアと呼ばれ、ジョン・レノンらロック界にも影響を与えた。
ソロ楽器から巨大ステージまで約300の作品を残し、近年は7つのオペラから成る「光」や、1日24時間を音楽化する連作「音」などに取り組んだ。2001年の米中枢同時テロを「最高の芸術作品」と評して波紋を広げた。 (共同)
=== === === === ===
ブログの本文にあるように、学生時代、FMで聴いたシュトックハウゼンの曲(曲名は忘れた)に衝撃を受けた。
この時から、幾度となく当時聴いた曲のイメージを通奏低音とするような小説を書きたいとチャレンジしたもの。
これからも何度かトライするだろうな。
合掌
投稿: やいっち | 2007/12/08 20:02
シュトックハウゼンの訃報に関連して下記の記事を紹介しておく:
http://pfalz.exblog.jp/6709609/
この中で紹介されている9・11事件に際会してのシュトックハウゼンの発言。「ハンブルクの記者会見で、事件直後、彼は語っている」として:
「あそこで起きた事は、― 今あなたがたは発想を転換しなければいけないのです ― 偉大な芸術であり、それがなされたのです。ある行動をなんでも貫徹することは音楽においてなかなか夢想することが出来ないもので、連中は十年間も狂ったように訓練して一つの演奏会に全てを懸けて死ぬのである。これは、宇宙に存在するものの中で最高級の芸術作品です。想像して御覧なさい、あそこで起きた事を。つまり連中は一つの上演に集中して、一瞬の内に五千人の人々が復活に追い遣られるのです。こんなことは私には出来ません。作曲家としてはお手上げです。想像して御覧なさい。私が一つの作品を創造して、あなた方は驚愕するのみならずその場で死ぬのですよ。死んで復活するのです、なぜならばそれはあまりにも狂っているからです。芸術家の幾人かは、それでも考え得る限界を越えて突き進む可能性を試みているのです。そうして、覚醒して他の世界を開くためにです。」
常識で考えて(考えなくても)碌でもない発言。その真意は何処にある。真意そのもの?
「死んで復活するのです、なぜならばそれはあまりにも狂っているからです」の中の「それ」は何を指している?
常識人は公の場ではこんな発言はしないだろう。
ただ、芸術家の限界ってのは、凡人には窺い知れないものなのだろうと思うしかない。
投稿: やいっち | 2007/12/11 11:17
大雑把にしか意訳していないことが多いのですが、この「それ」は創作したとする作品です。しかし、その作品が、テロ攻撃に直接掛かっているから問題なのです。
「連中は十年間も狂ったように訓練して一つの演奏会に全てを懸けて」も、該当の作品ルヒトの一部を補うのがもっとも好意的な解釈ですが、それでもとするのが新聞評です。
本日三時間に渡ってラジオで特番をやってましたが、本人へのインタヴューなどを含めて、ドイツ語学科を修めた割には言葉を充分にもっていない喋り方が目立ちます。番組の内容も表面的で十分には深まらない原因が問題です。
投稿: pfaelzerwein | 2007/12/13 01:40
pfaelzerwein さん
日本ではシュトックハウゼンにはあまり関心がないのか、ほとんど報道されなかった。小生はネットで知った次第。
まして、彼のこうした発言は、小生が迂闊だったこともあってか、pfaelzerwein さんの記事を読むまでまるで知らなかった。
シュトックハウゼンの文章は読んだことがありません。著作があるのかどうかも知れない。哲学に関心を持ったというが、だからといって言語表現に優れるとは限らない。直観か直感で<考える>人なのかもしれない。
徹底して自己のセンスを通す人なのか、仲たがいも多かったとか。
人や社会とワンクッション置いた付き合いなど端から考えない人だったのでしょうか。
使わせてもらった翻訳の中味、極論めいているけれど、芸術家だったら頭の中では考えそうなこと。
でも、それを堂々口にするのは、奇矯すぎると社会から思われても仕方がないのでしょうね。
いずれにしても、論議が深まらないのは、なんとなく想像が付くような…(最初から論議が成り立っていない?)
投稿: やいっち | 2007/12/13 04:02