忘れてた!
日記なのに、月曜日にやったことを何も書いていない。
もっとも、書いた文章の大半は、この日記である。「「地震」は「なゐ」という」を25日の夜半前に書き、「タクシーメーターの音」をつい先ほど、書き上げアップさせた。
但し、25日の正午前後に、「ディープスペース(1)」という掌編を書いている。
タイトルから察せられるように、例のクラゲの絵を見て、さらには、クラゲの素晴らしい写真が載っているサイトを覗きながら、「ディープタイム」「ディープブルー」に引き続く、三度目の正直を、性懲りもなく試みたわけである。
しかも、うまく行かなかった証拠に、「ディープスペース(1)」と(1)となっている。どうやら、蛇足となりそうな創作が続くかもしれない。
ま、クラゲから得るイメージを納得行く形で表現できていない以上は、しつこく拘っていくしかないのだ。
さて、読書のほうは、相変わらず、牛歩というのか、のんびり楽しみつつ、毎日、続けている。
月曜日は、ようやく、「寺田寅彦随筆集(5)」を読了し、過日、さる方から戴いたミハイル・バフチン著「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)を読み始めた。
小生は、前にも書いたが、ドストエフスキーに高校時代より傾倒し、小説に関しては、全作品を最低3回は読んでいる。「罪と罰」は六回だったりする。
そんな小生だが、ドストエフスキー論なるものは、読まない。小生が読んで受けた衝撃をどんな作家や評論家であろうと、ほんの僅かでも読み解ける、あるいは、より深めさせてくれるとは到底、思えないし、実際、成り行きでそれなりにドストエフスキー論を読みはしたが、全く、得るものはなかった。
小林秀雄しかり、埴谷雄高しかりである。埴谷雄高にしても、ドストエフスキー(やポーらに)傾倒したのだったが、小生は、埴谷の読解で理解を深めようという発想は、抱いたことがないし、そんな期待も抱かなかった。あくまで埴谷の文章に親しみたかっただけである。たまたま題材がドストエフスキーに及ぶことがあったというだけのことだった。
かといって、自分の感じているドストエフスキーの世界を自分なりに表現しようとも、思ったことがない。衝撃は衝撃として沸騰しているままに胸に抱えておくつもりなのである。
それでは、何故に、バフチンの「詩学」を読むかというと、彼の詩論を読みたいからに過ぎないのだ。まだ、冒頭の部分を齧っただけだが、有名なポリフォニー論が出てきて、それなりに興奮はさせてくれるし、一個の詩論として興味は持てそうな気がするのだ。
さて、寺田寅彦の随筆集と並行して読みつづけている白川静の「中国古代文学」も、今月中には読了できそう。なかなか歯応えのある本だった。かなり背伸びしながら読んできた。あと少し、頑張れば頂上だ。
それから、これは、これから追々に試みたいことなのだが、クラゲに絡む掌編ではないが、小生の好きな絵画を見て、自分なりの小説(短篇の虚構作品)乃至は随想文を書き連ねてみたいと思っている。前から試みたかったのだが、文章だけをアップするのではつまらない。どうせならネタ元(?)の絵画の画像も同時にアップさせたい、そうでないと、片手落ちのような気がして、ずっと躊躇ってきたのだ。
でも、現代の作品だと拙いが、古典(50年以上経過したもの)だったら、画像のアップも可能性ありなので、近い将来の取り組みの対象として、楽しみにしているのである。
ま、今の「ディープ」シリーズは、その発端というか、導火線に火を点けたとは言えるのかもしれない。
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