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2004/10/24

花鳥風月

 花鳥風月という言葉は聞いたことがある。あまり使ったことはない。どことなく面映い気がして、使う気にはなれなし、使うような場面に遭遇することもない。
 では、何故、唐突にこの場に花鳥風月という言葉が現れたのか。一応は、23日の「錦秋の候の気配が」や17日の「釣瓶落しの季節」の中に書いた随想に連なるのだ、と言いたいのだが、さて結び付けられるかどうか分からないままに、この言葉を机の上に放り出している。
 先に進める前に、花鳥風月を事典ではどのように説明しているのか、確認しておきたい。
『NIPPONICA 2001』によると、「自然の美しい風物。「花鳥」は鑑賞の対象となり、詩歌、絵画などの題材とされる自然の代表としての「花」と「鳥」を意味し、「風月」は自然の風景の代表としての「風」と「月」を意味し、狭義には「清風」と「明月」をさす。転じて、そうした自然の風物を鑑賞したり、それらを題材として詩歌、絵画などの創作にあたるなど風雅の遊び、風流韻事をいう。」とある。
 川柳も俳句にもズブの素人であるという特権で、思いっきり大雑把に両者の区分をすると、川柳は、主に時事的な事柄を扱う軽みのある表現であり、俳句はまさに花鳥風月を意識してのやや象徴的表現の試みだろうと思う。
 どちらも、既に長い歴史があり、先人の句作を意識しない訳ではない。俳句は特に先人の(中の感銘を受けた)歌や句を強烈に意識して句を作られているように感じる。
 川柳にしても、軽みを大事にした比較的時事的な事柄を扱うのであり、季語などはあまり気にしない、あるいはほとんど意識しないのだとして、それでも先人の仕事を意識しない訳ではない。同じ句を作る可能性は少ないのだとしても、意識には上っていなくても潜在的に覚えている作品が、つい、口を突いて出てくる可能性もありえないわけではないし、また、意識していて、その上で違う世界を詠み込みたいと願う。
 伝統(つまりは、先人の中の自分にとって感銘を受け勉強にもなった個々の作品や仕事の数々)をそれとことさら事挙げしなくとも、そういった先人の仕事を意識し気付き挙げてきた季語などに集約される言葉への思い入れ、言葉を使った場面場面を脳裏に鏤めつつも、その上で自覚的に自分なりの世界を構築する。その自覚の強いものが俳句なのだろうと思われる。
 かといって、その都度詠んで感銘を受けた作品であっても、その全てを覚えている訳ではない。むしろ、いいなと思った作品であってさえも、忘却の彼方に消え去った、忘失の海に沈みこんでしまった作品のほうが圧倒的なのかもしれない。
 これは、別の角度から言うと、物心付いてから折に触れて感じたこと、美しいと感じた風景、嬉しい・悲しい・辛い・憎い・愛惜すべき個々の場面・光景も、多くは普段は忘れてしまい、無意識の海の深くに沈みこんでしまっていて、よほどの機会・機縁がないと海面上に浮き上がってきたりはしない、が、それでも、遠い日・近い日のいつだったかに心に刻まれたことがあったのは間違いなく、そうした記憶の断片や思い出の化石の堆積した無意識の海を誰しもが胸の中に抱えているのだろうということだ。
 その上で、今日という今日、何かの光景を目にして、多くは花鳥風月なのだろうが、あるいは日常の何気ない風景だったりすることのほうが多いのかもしれないが、たった今、その感銘を受けているその場で句を作る。その際、川柳の方向に走るのか、俳句の方向を選ぶのかはその人次第だろうが、いずれにしろ、胸の底深く浅くに沈んだ情の欠片や化石たちの堆積する土壌の上で、今日ただ今の時点までに培った素養や体験などの積み重ねも含めて、句(や歌)を作る。
 個々の今、作られる句(や歌)は、今の光景などを詠い込んでいるとしても、その言葉の織物を通じて、単に今、眼前にしている現に向き合っている情景を織り込んでいるだけじゃなく、もっと奥深い、使われている言葉は時に象徴的なものに過ぎず、それらの言葉の連なりを通じて描かれ指し示されてる世界というのは、その人だけが直面している光景・情景・場面ということではなく、もっと多くの人の琴線に触れえる、琴線を奏でて止まない一個の存在感に満ち溢れたモノになる。
 作品が作品として成功すると、その作品は、多くの人に、そうだよ、この句(歌)が詠いたかったんだ、この表現を探していたんだ、今の気分にピッタリなんだ、胸の奥底で蟠っていた、なんとか出口を見つけようとしていて見出せずにいた情念・情感の渦巻きが、まるで誂えたかのように、光明を差しかけ、出口を指し示し、岩戸の外の青空のもと、情念が形を得る。ぴたりと決まる。古臭い言葉を使えば、ボーリングした鉄のパイプの先が油源というか鉱床に突き当たったかのように、集合的な無意識の層に突き刺さり、感情・情緒の熱水が地上世界に噴出する。
 小生が口癖のように使ってしまう「海」あるいは「宇宙」に遭遇する瞬間が現実のものとなるのだ。そんな機会が少しでもあれば、素晴らしいと思う。

 花鳥風月という言葉によって、従来はどのような意味を感じ取るのか、そのことに誰にも共通するものがあったのかどうか、分からないが、幾人もの歌人・俳人の仕事(個々の作品の数々)の堆積した山並みを意識しつつ、句(歌)を作るのは、今、この場にいる自分なのだから、自分が今、感じる季節感・現代感を大切にしてのことでないと、どうにもならない。
 季語を学び、大事にしつつ、今の自分が感じる季節感に敏感であること。今の自分が季節を空気を世相を現代の情愛を感じる場面から懸け離れない表現を心掛けること。
 歌は分からないが、前にも書いたが、山本健吉の言葉を借りれば(特に俳句に限定する必要はないと思うのだが、については)「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」の三か条に尽きる。
 ということは、先人の個々の仕事(作品)の数々を意識しつつも、今、この場で、現場で即興で、ある種の軽み(滑稽)を忘れず、また、詠う現場の主人への挨拶なのだということを念頭において句は作られるべきだということであろう。場の主人というのは、宿を提供してくれた主である場合が本来だったのだろうが、広くは、歌を(句を)作りたいという心境に誘ってくれた空間(宿もあるし、吟行の場かもしれないし、友や恋人、親子だったりするかもしれないし、小生などは掲示板を提供してくれる板主である場合が多い、ネットの時代の今は、この場が増えているように思う)から見える風景・写真・情景・場面自体が主である場合も、あるいは多いのかもしれない。
 花鳥風月が場において遭遇しえる句作の機縁である場合が多いが、何より大切なのは、今、自分が感じていることが、或いは感じていることをできるだけ忠実になぞり表現することが、下手であっても、不器用であっても尊重され最優先されるべきだろうということだ。

 長々と書いてきたが、エッセイが思考の試みなのであり、思考のプロセスでもあるのだとしたら、曲がりくねった、時に同じ事を多少は力点を変えながら繰り返すことになるのも、無理からぬことなのだと思う。モンテーニュの『エセー』(随想録)が好きである所以である。

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