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2004/10/23

錦秋の候の気配が

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 錦秋の候などというと、何か畏まった手紙の書き出しのようである。久しく手紙など書いていないし、実際に錦秋の候という表現を使ったこともない。そんな小生が、この言葉を表題に使ったのは、木曜日の営業が終わり、金曜日の朝、帰宅の途上、近所で紅葉している葉が雨をタップリ吸って緑濃い葉々の中にチラホラとあるのに気が付いたからである。
 といっても、未だ、疎らで、ほとんどの葉っぱは緑色である。晴れた朝だし、近所に目新しい花も見つからず、写真を撮り損ねていたので、せっかくなので朝日を浴びる葉桜の並木道を撮ろうと、カメラを枝葉に向けファインダーを覗いた……からこそ、黄色に変色した葉っぱが混じっていることに気が付いたのだった。
 そうでなかったら、見過ごしていたはずである。
 但し、冒頭に掲げた写真では、画質をかなり落としていることもあり、変色した葉っぱの存在がよく分からないかもしれない。
 何処で読んだか、生憎、忘れてしまったが、『歳時記』の季語の種類を分析してみたら、3分の1以上が植物系の季語だったという。
 このことをどう解釈したらいいのだろうか。残念ながら、分析の詳細を知らない。だから残りの季語にどんなものがあるのか、例えば、動物系なのか、山や海・川などの風物なのか、風・雨・雪・露・霧・雲などの自然現象なのか、月や星などの天体(現象)なのか、などが分からない。
 そもそも、植物系の季語、動物系の季語、自然物系の季語を除いて、どんな季語がありえるのか、恐らくはかなり限られるのではないかと思われ、なんとなく植物系の季語が多いのは当然なような気もする。
 いずれにしても、自然の風物・現象に触れ、感じるものがあったりする、そんな感性に日本の多くの人は恵まれているように思われる。
 ところで、秋の季語に、山粧うがある。紅葉、黄葉で色どられた山を表現しているようである。一方、山笑うという季語もある。これは、春の季語であり、寒さに凍えていた山野に若葉が芽吹いてくる感じを笑うという言葉で表現しているようだ。
 秋の季語としては、山粧うが正解なのだろうけど、紅葉した感じが笑んでいる感じ、綻び出している様子に思え、山笑うも秋の季語だと教えられたら、そうなのかなと素直に思ったりする。
 ところで、大急ぎで断っておくが、錦秋は別に秋の季語というわけではない。錦秋の候という表現が10月の侯の挨拶として使われるというだけである。この錦秋、まさに山粧うの結果としての絢爛たる山々の光景を表現する言葉として、まことに相応しい。

 その季語のこと、あるいは、季語の重ねの問題で、いろいろ教えられることがあった。以下は、大雑把だが、今のところの小生の季語に対する見解である。某サイトの掲示板への書き込みを転記する:

 季語、そして季語の重なりの問題について、いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
 俳句に限らず、歌には長い歴史と伝統がある。別に季語に拘らずとも、新たに歌を句を作るには、そうした重いものを意識しないわけにはいかないし、無視して作るには天才的な力があるか、ただの楽しみ・座興に篭っていくかで、伝統を踏まえるには、相当な勉強が要るわけですね。万葉集の引力圏からなかなか抜け出せない小生には、気の遠くなるような話。
 ところで、一方、小生は、文芸評論家の山本健吉じゃないけれど、俳句については、「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」という三か条をとても、大切なものと感じます(歌は別途)。
 つまり、折に触れ作るのだとしても、情緒を含めた森羅万象を前にして、その機縁に得た感興を即座に(詠われる世界の深さはともかく)軽く詠うのでないと面白くないとも思うのです。
 それゆえ、少なくとも俳句については、一方では、伝統への深い理解と造詣を背負っていないとつまらない(個々の句や季語へのいろんな人たちの思い入れを知悉しておく必要がある)、でも、他方では、何かの時に即興で作らないと白けてしまう(練りに練って句吟に苦吟しているようだと、少なくとも他人にそのように映るようでは、困るわけです)。
 この両者に跨った上で、句作ができたらいいなと思うのですが、なかなか言うは易く行うは難しですね。
                                  (転記終わり)

 尚、前段の一文がある。それは、「釣瓶落しの季節」(10月17日)に書いてある。

 さて、今日(金曜日)は、日記の執筆と新規の掌編などのアップ作業(ホームページの更新作業)に追われた。
 まずは、「輪廻について」という昨年の冬の終わり頃に書いた一文をエッセイの頁に載せた。面白そうな題材であり、まだまだ探求の余地がありそうなのに、入り口近辺で引き返してしまっている。機会があったっら、続編を書きたいものだ。
 ついで、掌編を2篇、連作掌編の部屋にアップした。「金木犀の頃/縄の記憶」である。例によって、<ボク>もの小説である。
 それから、本日は、メルマガを配信した。目次だけ、示すと以下のようである:

   目次:●1.光害(ひかりがい)のこと
      ◎ 我がリベルダージのパレード情報
      ●2.コクリコのこと中井英夫のこと
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 念のため、「光害」について注釈しておくと、光害対策ガイドラインが六年前、環境省により策定されている。なんでも、「環境庁は、不適切な照明による天体観測、動植物の生育などへの影響を防止し、良好な照明環境(望ましい光の環境)の実現を図り、地球温暖化防止にも資するような「光害対策ガイドライン」を策定した」のだとか。
 
 ところで、10月22日(金)朝日新聞朝刊の「私の視点」というコラム欄に、山本茂行氏(富山市ファミリーパーク飼育課長)による「◆クマ騒動 里山消え 人との境界失う」という一文が投稿の形で載っていた。
 里山から人がいなくなってしまい、里山が消失するか荒廃することで、クマと人の間にあった境界線が薄れていってしまい、その過程でクマの人に対する恐怖心も薄らいでいったのではないか、というのが山本氏の主張のようだった。
 この一文に絡め、里山について、簡単にでもコラム文を書きたかったが、果たせなかった。
 22日の日付の内にアップするはずが、23日に食い込んでしまった、日記「十日余の月」において、花鳥風月と日本の風土とを絡めて書いた一文があるが、これが里山論の一端になるはずの小文なのである。
 尚、ネットでは、「大揺れ クマ騒動  『共存考える良い機会』」という一文が見つかった。その中でも、山本氏の意見が紹介されている。
 山本課長はこう提案する:
「人里で見かけた場合は駆除した方がよい。しかし駆除し続ければ自然の生態系が崩れ、最終的には人間の身に降りかかってくる。人の手でかつてのような里山を築いていくのがクマ、人双方にとっての最善策だろう」

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