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2004/10/17

釣瓶落しの季節

s-DSC01022.jpg

 まさに表題通りの夕刻を実感する季節となっている。ようやく秋晴れを愛でられるけれど、そんな爽やかな空を見せるのを惜しむかのように、呆気ないほど早く、そう、釣瓶落しのごとくに、宵闇に溶け去っていく。
 
 さて、小生、方々のサイトの掲示板にあれこれ書き散らしている。一部だけ、転記しておく。それというのも、それを後日、エッセイなどに仕立てる可能性が十分にありえるからだ:

○  ここで、蓮と睡蓮の話題が出ていたので、あれこれ調べて、なんとなくイメージが掴めたので、掌編を一つ、書かせてもらいました(例によってアップは、ずっと先。「朝顔の宿」も一ヶ月してから、こっそりアップしたっけ…)。
 その御礼参りに来ましたとさ。
 ちなみに、タイトルは、そのままズバリ、「蓮っ葉な奴」。エヘヘ。

「ハスも睡蓮も親戚か従姉妹か、兄弟か、繋がりがあるのでしょうか」
 なかなか難しいですね。あるサイトに次のような説明がありましたが:
「蓮と睡蓮は根が全く違います。どちらも水生植物ですが、蓮は水面に浮く葉と水面から出た葉があり、 花は水面より高くでて開花、葉に水を落とすと水玉になります。睡蓮は浮き葉のみで水面に葉が張り付いている感じで、花は水面近くで開花します。根は蓮は蓮根の通称で知られる形で、睡蓮とは全くちがいます」だって。
 蓮は根が蓮根(レンコン)なんですね。文字通り、蓮の根と書く。蓮は咲きっぱなしだけど、睡蓮は、夜などは花が閉じる(眠っているかのよう。なので睡蓮)。
 だから、睡蓮をかっぱらって来ても、蓮根は採れないのです。
 皆さん、分かりましたか。小生は、未だ、分かってません。
 だって、昔は、「スイレン科ハス属」の中に、スイレンとハスが入っていたのに、最近は、「ハス科 ハス属」として、「最新の分類ではスイレンの仲間からハスだけを独立させて、ハス科という科を設ける場合がある」って言うんだもの。

 濁り水 心の迷い そのままに

○ 「鮭が豊漁だから、ヒグマが、大人しいのかな」
 本土では、山林が荒れていて(人の手が山から離れているので)木々に害虫が付き放題になっているらしい。
 つまり、人が山に分け入っていることもあるけど、山の世話をする人が少なくなり、当然、木の世話もできないので(間伐林など)、害虫が取り付きやすくなっている。結果、木の実が(木の葉も、もちろん)喰われてしまっていて、クマさんの餌が無くなっているらしいのです。
 やはり、山(木、つまりは地方)を大切にせず、資本(や人手)が都会にばかり集中しているツケが来ているわけですね。

 関係ないけど、小生の以前、住んでいた集合住宅の名前は、ダイヤハイツでした。小生は、その秘蔵っ子(?)だったというわけ。
 今は車の運転をしていますので、タイヤのお世話になってます。
 濁点が取れた分だけ、小生、洗練されている?!
[この話題で、害虫云々に言及している。そういう説が、かなり唱えられるようになった。同時に、今年の台風が、本土直撃を幾度も繰り返したことも大きいとか。「特に今年に入って出没回数が増えているのは、もともと害虫や温暖化でナラやブナが枯死してエサが少なくなっていたうえに、相次ぐ台風の上陸で木の実が不作になっているのではないかと言われている」]

○ みなさん、こんにちは。
 本来は直接、レスすべきなのでしょうが、的を外す怖れも多分にあるので、自己レスの形で、感じたことを書いてみます。

 俳句と川柳との違いは、人それぞれに意見があり、結局は、自分の考え方で押し切るしかないのかな、というのが結論になるのかなと思います。
 ただ、最後まで問題というか、気になるのは季語の存在。俳句の世界では、季語は非常に重要な存在で、仮に使わない場合でも、むしろ使わない方のほうが、季語への造詣や理解が深く、その上で、大胆な一歩を踏み出そうとしているのかな、という印象を持つことがあります。
 季語は伝統的に培われてきたもの。婀娜や疎かにはできない存在。
 でも、江戸時代、明治時代とは季節感が相当に違ってきているのも、事実。それなのに、何故、季語に引き摺られつづけるのか。
 例えば、秋の季語をつらつら眺めていて、ふと思ったのは、季語を使うだけで、紋切り型であることに自嘲の念を覚えつつも、とりあえずは俳句(体裁だけでしょうが)を作れてしまうことの意味でした。
 とりあえず、自作の俳句モドキを例として示します:

 良夜には月なき夜寒身に沁みて

 鰯雲夜寒の露の身に沁みて

 一読して分かるように、季語を使うだけじゃなく、季語を複数重ねています。それぞれ四つ(多分)。
 前者は、季語が二つだけ意識して使ったつもり(「良夜」と「身に沁む」)が、実は四つだと指摘されました。
 後者は自覚的に(確信犯的に、あるいは実験的に)四つ季語を使っています。
 思ったことは、季節が秋なのだとして、秋にちなむ句を(俳句のつもりかどうかは別として)作ろうと思うと、常識的に季語(乃至はその関連語彙)で表現が可能になるということです。
 何故、可能だと感じるかというと、つまりは、小生のような素養のない人間、型通りの想像力しかない人間が使う言葉は、大体が思い浮かぶ言葉は限られている、つまり、季語にリストアップされている言葉の範囲を出ないからだろうと推測されるのです。
 だからこそ、季語を制限し、しかも、季語を重ねてはいけないというルールを制約として設けることで、季語以外の言葉、表現を工夫するしかなくなるという、創造上の縛り、厳しいけれど、新たな表現を目指すしかないという前向きでもある叱咤的な制約が、生きてくるように感じられるのです。
 勿論、その前に季語を使うのかという問題、何故に季語を使うのかという疑問があるのですが、これは、伝統に連なるという意味で、実際に季語を使うかどうかは別にして、尊重すべき考え方なのだと思います。
 また、季語の知識なしに、表現を試みても、実に紋切り型な表現から抜け出せないし、その範囲で自己満足に陥ってしまいそうな気がします。
 
 さて、その上で、小生はどのような表現を目指すのか、あるいはどんな表現をしたいと思っているのか。無論、暗中模索なのは当然として、いろんな刺激を受けながら、これから追々に試みつつ、楽しんでいきたいと思っています。
 それにしても、5・7・5の形式は凄いなと思います。何が凄いのか分からないのだけど。

 以下の句(?)は、やっぱり川柳なのでしょうね:

 好きなのとひといろの文字なぞる指
 月影や雲のベッドでうたた寝かい?
 蜩(ひぐらし)よその日暮しと笑うなよ
 星屑をけんけん跳んで月の裏
 俳人はかなかなかなと鳴くのかな

◎ 掲載した写真は、週末の朝、近所で撮ったもの。これまた、花の名前が分からない。雨上がりじゃないのに、花房が瑞々しい。

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コメント

こんばんは~
暑い、暑いといっていた夏もいつの間にか終わり朝夕は寒いくらいの季節になりましたね。
日が暮れるのも早いこと。
本当にあっという間。
急に秋が深まってきたみたいです。

季語って日本の言葉ですよね。
日本の心・・・
なんかいいなあって思うこの頃です。
5.7.5で季語も入れたりして心情などを表現するなんてすごいなっていつも思います。
私にはなかなかできないです。

可愛いピンクの花をたくさんつけた植物は「ベコニア・センパフローレンス」と言う名前だと思います。たぶん。。
花びらがとても瑞々しいですよね。

投稿: マル | 2004/10/17 23:31

 マルさん、コメントをありがとう!
 とても嬉しいです。

 いよいよ秋も本格的ですね。部屋にいて、文章など書いているうち、不意に背中がゾクッと来たりして。
 マルさん、風邪を引いたりしないよう、気をつけて下さいね。
 小生は、風邪だけは引かないみたい。
 季語。不思議な存在です。まあ、これらの中に伝統が集約されているのでしょうね。季語を使うかどうかは別にして、季語などを勉強はしておきたいと、日記に一つか二つずつ、使って、味わっていこうと思っています。

 マルさん、また、マルさんらしい句を寄せてくださいね。
 小生が今日、作った句は、日記に載せましたし。
 我ながら恥ずかしい句の数々。でも、恥を掻いて作っていくのです。
 花の名前、教えてくれて、ありがとう。「ベコニア・センパフローレンス」。いろんな事柄は、ネット検索で調べられるけれど、画像(写真)からでは、ネット検索できない。
 小生、お手上げなのです。みなさんの力添えが是非とも必要なのです。これからも、宜しくお願いします。

 

投稿: 弥一 | 2004/10/18 02:35

弥一さんおはようございます。
また台風が来ています。
この前の台風は東京がたいへんでしたけど大丈夫でしたか?
またこの台風で被害がでなければよいのですが。

ところでこの前書こうと思っていて忘れてしまっていたたことがあります。
えっ~とね、「野路の秋」というタイトルのところに載せておられた句、
「野路の秋 真っ赤な木の実 寄り添って」
これとても印象に残っているんです。
なんか秋が深まる頃野を歩くと赤い実が鮮やかに色づいて・・・そんな感じが大好きなんです。
「・・・寄り添って」という所もやさしくて可愛い感じがすきですねぇ~

妹とはちょっと離れているんですが11月の始め頃になると毎年妹と野山に実やツル、まつぼっくりをとりにいったりします。
そしてリースを作るんですよ。
リース作りはあんまり得意ではないけれど色づいた秋の野山を二人で子どものように行くのがとっても楽しいのです。
ちょっと長くなってしまってごめんなさい。

「赤い実」という言葉自体実りの秋や楽しい冬を想像してもわたしにとってわくわくする言葉なんです。
赤い実のリース、赤い実のソース、赤い実のケーキ・・・食べ物が多いですねぇ・・・食いしん坊がバレバレ。

段々寒くってきますね。
弥一さんも風邪をひかれませんよう気をつけてくださいね。

投稿: マル | 2004/10/20 09:52

 マルさん、メッセージ、ありがとう!
 いよいよ台風23号が関東にも近付いているようです。
 被害が少なければいいのですが。

「野路の秋 真っ赤な木の実 寄り添って」が、印象に残ったとのこと、嬉しいです。あの写真、仕事先で、ふと、気になって撮ったもの。
 花でもそうだけど、大きな花は数少ない花たちが誇らしげに咲いているけど、小花だと寄り添うように、集い合い肩を寄せ合うようにして咲くのですね。
 人も、大輪の花のような人もいるけど、大抵の人は、小さな花なのに、事情があって、離れ離れになっている。
 でも、本当は可能なら、寄り添い合いたいものなのでしょうね。
 普段は離れて暮らしている妹さんと一緒に野山へ行って、いろいろする、リースも作る…、そんな時って、一緒に暮らしていた頃の気持ちに戻るのでしょうか。
 花のリース、子供の頃に、田圃の蓮華で花輪を作ったことがあるだけ。童心に帰って、せめて心の中でリースを編みましょうか。
 それにしても、「赤い実」がマルさんには格別なもののよう。何か思い出があるのかな。
 今、思い出したけど、童謡に「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実を食べた」ってのがありましたね。
「「赤い鳥小鳥」北原白秋作詞・成田為三作曲」
 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/akaitorikotori.html

 赤い実や 夜寒の空に なに思う
 赤い実や 夢を燃やして 夜に映え
 木の実たち 寄り集って ぬくもって
 木の実たち 燃え上がるほど 冬思う
 木の実たち 赤く燃えるは 我が夢か
 赤い実や 小鳥啄ばみ 冬近し

投稿: 弥一 | 2004/10/20 20:42

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