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2004/10/16

荻の声

 金曜日の仕事は、不況の最中にあっても、比較的忙しい。さすがの小生も、昨日の営業中には、一つも駄句を捻出できなかった。
 それは忙しさもあったけれど、水俣病の最高裁判決が出たせいもある。
 最高裁の関西訴訟において、最高裁がやっと、水俣病に関して、国や県の責任を認め、行政の責任を認める判決が確定したのである。
 思えば、悲惨な事件であった。チッソなどの加害企業に一義的な責任があるのは勿論だが、民間企業の一部には、良識に欠ける経営をするところもある。が、この事件の場合、行政側の怠慢が悲惨さを倍加させたのだった。
 小生が中学から高校の頃、富山県ではイタイイタイ病が話題になっていたが、同時に、テレビなどでは水俣病が取り沙汰されていた。
 その中で、小生は、企業が碌でもないことをする、だけじゃなく、隠蔽もし、しかも、それを国や県が手助けすることがあることを知ってしまった。判決では、行政側がやるべきことをやらなかった、という責任を追及することに成っているが、実際には、行政は怠慢だっただけではなく、企業の論理、経済の論理、行政側の都合の理屈を積極的に推進していたのだ。通産省(旧)は、その急先鋒だった。患者のことは、(結果として)無視以上に虐待したといって過言ではないだろう。
 虐待は、企業や県・国側だけではなかった。地域住民さえもが加担した。虐待は、差別にさえ至っていた。
 そんな現実を目の当たりにして、小生は、ある意味、人間不信に陥った部分もある。ぼんやりな自分だったけれど、我が中学や富山県における進学競争熱(成績でクラス分けをするなど)、安保(70年)自動延長で安保論争熱が高まったことなどがあって、小生は、単純な算数(幾何学)や数学・物理好き(理系)から、次第に文系(社会問題)に関心を変えていった。
 それが昂じて、ついにはこうした社会問題は、単に具体的に解けるような問題ではなく、もっと人間の根源に関わる問題ではないかと思われてきて、哲学にまで関心が移り、高校三年の夏、八月一日に大学を哲学科に絞ったのだった。
 そんな自分の感懐や思い出はともかく、水俣病の問題の性格は、ハンセン病や薬害エイズの問題にも繋がる。行政側は、都合が悪い問題には、徹底して患者や住民・被害者を無視・圧殺する。マスコミも(一部は宗教界)なども差別する側に立ちつづけていたことは周知のことだろう)。ハンセン病(患者)への偏見は今も続いている。行政側がほとんど動かないという現実は、何ら変わっていない。
 差別の問題に立ち向かうことは勇気が要る。偏見の根強さには、常識も良識も通用しない。
 そんな世界に立ち向かう被害者達の勇気には敬服する以外にない。小生のような根性なしだと、世を拗ねて、変な宗教に走るか、自殺するか、いずれにしても、壁の巨大さに沈黙するのが関の山だったのだろうと思えて、情ない限りなのだ。
 それにしても、患者の認定基準を狭いままに、一切、基準を変える考えがないという小池環境相の発言は、判決の趣旨をまるで無視したものだ。怒り心頭である。これでは、被害者を救う気はないという、官僚側の発想をただ追随しているだけではないか。患者認定におけるダブルスタンダードは、患者サイドに立って、断固、見直すべきだろう。
 そんなことを思っていると、駄句どころではなかったのである。

 閑話休題
 「蓮と睡蓮」の周辺 という日記を数日前、書いた。この関連で、調べる余地が未だ、随分とあると感じている。
 が、今まで調べた分(書いた分)だけでも、エッセイや掌編の題材に事欠かない。
 ということで、本日、夕方、「蓮っ葉なのは」という題の掌編を書いた。例によって、<ボク>もの。この掌編で、今月は四つ目となる。
 掲示板でもある人と遣り取りしたが、言葉や事柄を調べるうちに、いろいろと発想の輪が広まる。で、エッセイに、あるいは場合によっては小説に仕立てるのだ。言葉を調べるのは、単に知識を増やすためではない。それだったら、小生の場合、無意味だ。
 なぜなら、小生は、記憶力に相当に弱点がある。渋々だが、しかし、歴然たる事実なので、高校に入る頃には、自分の能力に落胆していた。だったら、連想力、あるいは想像力で勝負だ、と行きたいところだが、それも、結構、難しい。
 それでも想像力の事柄である小説に挑戦し続けるのは、書くのが楽しいし、その際、エッセイやコラムも楽しいが、リアリティのみが要諦である小説(虚構作品)にこそ、最も挑戦し甲斐のある未踏の領野がある。それは、発見した者の、切り取り次第の、取りあえずは荒地であり、砂漠であり、ただの原野なのである。
 そんな雑草どころか、苔も生えないような世界に分け入って、たとえ、猫の額ほどの土地だろうと、精魂篭めて整地し耕し水を引き、水を撒き、肥料を蒔き、それなりの沃野に変えていく。そういった作業を架空の時空で行っている。誰もいない世界というのが、いい。
 人と一緒にいたい。仲間が欲しい。パートナーが欲しい。そう思いつつも、一人であるしかない自分。不器用なので、結果的に一人を選ぶしかない。寂しさも、何十年の吐き気のするような砂を噛む日々を続けると、もう、感覚が分からなくなる。
 それでも、錆びた頭の中に想像の花を咲かせるには、かなりしんどい、頭をギリギリ絞るような努力も要る。そうして得られた成果というのは、乏しいかぎりだが、ま、それは能力の問題があるのだから、仕方がない。大切なのは、試みを続けることなのだろう。
 
 さて、今夜、過日の我がサイト5万ヒットを祝して、久しぶりにピザを注文して食べた。ピザは今年二回目だが、注文して食べたのは昨年以来だ。
 こんな文章しかない、デザインも含め地味なサイトなのに、よくぞ、ここまで来たと思う。その意味でも、自分は自分に対し、よくやったと労ってやりたかったのである。
 この先、どこまで続くか分からないけれど、とことんやっていくまでなのである。

 小生もメンバーであるサンバチームのダンサーの方が、14日、誕生日を迎えていたということを、知り、本日、午後、怠っていた、八月の武蔵小金井でのパレードレポートへの写真アップ作業を一気に行った。
 小生、文章を書くのは好きだが、アップ作業などは苦手。特に写真のアップはつらい。
 でも、今年の半ば頃、写真の画像サイズ縮小ソフトをある人に教えてもらって、写真のアップ作業が随分、楽になった面もある。
 ということで、武蔵小金井のレポートに、そのダンサーの方の写真も含め、十六枚ほど、アップしたのである。

 そうそう、今朝、我がホームページを開いたら、ブログ日記にコメントがついていた。小生、このブログにコメントがつくのが嬉しい。ブログの文章を読んでいる証明になるし、そもそも、ブログは、コメントと関連する文章が一目で見渡せるのがいいのだ。
 掲示板への書き込みは、ブログ以外の文章を読まれたり、一般的なメッセージを書くのに適している。適宜なコメント・メッセージが嬉しいのだ。

 写真は載せていないが、表題である「荻の声(おぎのこえ)」について、一言。
 これは、「荻の葉が風の吹くごとにたてる寂しい葉ずれの音」だという。タクシーの仕事をやっていて、真夜中過ぎに公園の脇で休憩していると、よく、風を感じることがある。水面がかすかな風に揺らいでいる。木の葉も、さわりという音も立てずに揺らぐ。
 さすがに、吹く風がちょっと冷たい。秋が深まってきたとはいえ、晩秋というには早すぎる。でも、荻の声のような、寂しい葉ずれの音は聞えてくるような気がするのである。

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