« 「蓮と睡蓮」の周辺 | トップページ | 野路の秋 »

2004/10/14

秋霜烈日じゃないけれど

 また身の程知らずにも秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)なんて、難しそうな言葉を表題に選んだ。教養のない奴ほど、つい、権威や難解な言葉に縋ってしまう。
 急いで、秋霜烈日の意味を大雑把にも説明しておく。ま、ほとんど、自分のために、なのだが。
「広辞苑」(電子辞書)が壊れているので、辞書に拠ることができないので、ネットでこの言葉の説明を捜すと、「秋の厳しく冷たい霜と激しく照りつける太陽。転じて権威・志操・刑罰などが非常に厳しく犯しがたい事」とか、「草木を枯らす秋の霜、草木を焦がす夏の烈しい日」といった説明が散見される。
 かの有名な、しかし今となっては知るひとぞ知るになってしまったかもしれないが、故伊藤栄樹検事総長の『
秋霜烈日』を思い出される方もいるかもしれない。
 大概の方は、検事総長の名前など、知るはずもない。新聞にその名が載っていても、素通りするだろう。小生だって、そうだ。が、この方ほどに巨大な犯罪に立ち向かった人はいないし、また、新聞に名が踊った方も少ないのかもしれない。
 上掲の本の目次の一部を抜き書きすると、造船疑獄事件、日活ロマン・ポルノ事件、連続企業爆破事件、ダグラス・グラマン事件、ロッキード事件などなど。特に最後のロッキード事件で、彼の名前が新聞などマスコミで取り沙汰されることが多かったのである。小生のような役人の名前音痴でさえ耳にタコが出来るほど、目に隈ができるほど見聞きしたものだった。
 このタイトルである秋霜烈日は、これまた、知る人ぞ知るなのだろうが、検察官の付けているバッジのデザインから連想される言葉として、ある意味、検察官の志操の厳しさを象徴する言葉として受け止められることも多いようだ。
検察 Q&A」を読むと、「検察官のバッチの形は,紅色の旭日に菊の白い花弁と金色の葉があしらってあり,昭和25年に定められました。その形が霜と日差しの組合せに似ていることから,厳正な検事の職務とその理想像とが相まって「秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)のバッチ」と呼ばれているようです。「秋霜烈日」とは,秋におりる霜と夏の厳しい日差しのことで刑罰や志操の厳しさにたとえられています」などと書いてある。

 突然、柄にもなくこんな身分不相応な言葉を出したのは、何も検察のことを話題に出そうというわけではない。秋霜烈日に限らず、多くの言葉(熟語)の語義をやや、あるいは相当に換骨奪胎して意味を嗅ぎ取ってしまう小生のこと、この日記を書こうと思って、さて、表題を何にするかと、秋の季語を物色しているうちに、不意に秋霜烈日という言葉が浮かんできてしまったのである。
 一旦、何かの言葉が浮かぶと、使いたくてたまらなくなる性分の持ち主である小生、脈絡など何のその、とにかくっ表題にでも、あるいは文中にでも使う。文脈だって、その言葉を使うように勝手次第に曲げる。
 秋霜烈日は、本来は、責任ある立場の人が、自らを戒める意味もあっての言葉である。というか、そのような文脈で使われる。上掲の検事もそうだ。
 が、年を取ってくると実感することだが、日々が秋霜烈日なのである。辛いこと、面倒なことを避けようと思っても、どんなに居心地のいい環境を作り出そうと思っても、そこには、体か心か人間関係かは別にして、どこかしら不具合を抱えた自分がいて、もうどうにも逃げようがないわけである。
 今年はとりわけ夏の日々は暑かったし、暑さが長引いた。暑さが年々体に堪えるし、しんどくなる。何をするにも億劫になる。つまりは、平平凡凡たる自分のような者でも、何も自戒しようなどという殊勝な心掛けを持っていなくても、日々の気候も何もかもが身を焦がすようであり、身を凍て付かせるようであり、なんとなく丁度いい頃合いだなと思える瞬間というのは、実に稀になってしまう。
 なんといっても、体(心)が思い通りにならないのだから、どうにもならない。
 逆に言うと、だからこそ、季節の移り変わりに敏感になるし、ほんのちょっとしたことの中に喜びや発見や、驚きの念を覚えてしまうのである。仕事柄、夜中に人気のない公園の脇に車を止め、車を降りて、伸びをしながら、空を眺め上げたり、公園の木々の様子を愛でたり、近くを流れる河の水面を見遣ってみたりすることが多い。
 そんなとき、草葉を伝わる露などが目に飛び込んでくる。真ん丸くなっている雫をまるで初めて見たかのような気分で見つめている自分がいたりする。
 水滴の一粒が、緩やかな風に揺れる木の葉の動きにつられてか、こまかく揺らぐ。プルプルッという微妙な揺らぎ。僅かな街灯の明り故に、水滴の向こう側を見通すことはできないはずなのに、水滴の中に、その先の風景がまるごと封じ込められたかのように、一個の濃紺の宇宙があるように感じられたりする。
 壺中の天という言葉があるように、一滴の水の雫にも、一個の宇宙全体を感じ取ったとしても、決して不思議ではないような気になってしまう。どんな小さな世界であっても、その世界に寄り添うように、息を潜めるようにして、そう、愛惜するようにして、見遣るならば、その小宇宙の中には、想像の限りの宇宙が含まれている……はずなのであって、そうした宇宙を感じ取れるかどうかは、結局は自分次第なのだと、思うのである。
 ナンバーワンとオンリーワン。
 ナンバーワンというと、一夏の夢のように過ぎ去ったオリンピックを思い出す。出場する選手たちは、ナンバーワンを目指す。トップになれずにナンバーツー、スリー、あるいは、入賞に終わった人は、爽やかに貴重な、得難い経験をしたとコメントを発する。
 それはそれで決してウソではないと思うけれど、その人は、ナンバーワンになるために頑張ってきたはずなのである。
 ナンバーワン。その象徴が百メートルなどの短距離走になるのだろうか。コンマ1秒どころか、百分の1秒を争う。そもそも、何故、早く走らなければいけないのか、その意味が分からない。けれど、しかし、いざスタートラインに立つと、誰よりも早く走りたくなる。
 そして、誰かが頂点に立つ。この短距離走は、ある意味、近代あるいは現代の象徴の面を持つような気がする。何が故に一番でなければ、あるいは誰よりも速く走らなければいけないのか、分からないが、しかし、スタートラインに立つと、そうせざるをえない本能のようなものに火がつく。
 とにかく早いことが快感なのであり、誰よりも早いこと、トップであることは、快感なのである。しかも、名誉でさえある。賞賛されたりもする。トップ。
 現代とは、誰もが、どんな場にあっても、家庭という団欒の場であってさえ、スタートラインに立っているかのように、焦っている、尻に火がついたように無闇に駆り立てられている時代とも言えそうな気がする。ゆっくりしたい、のんびりしたい、ゆるやかにかろやかに、風に吹かれて一歩一歩を噛み締めながら歩いていきたい、隣りの誰彼と親しく語り合いたい、損得抜きに付き合いたい……、そんな気持ちを持っている、持っているはずと思う
 けれど、時代の圧力は、そんなことを許さない。効率とスピード、合理性、そして何より独自性を求められる。
 独自性。オリジナリティ。なるほど、素晴らしい。個性があることは素晴らしい。
 でも、どうして人と違っていなければいけないのか、それが分からない。人と同じでいいじゃないかという発想は罪なのか。そもそも、人と同じように、目も耳も二つあり、鼻があり口があり、二本の腕、二本の足、健康な胴体、アレルギーのない体を持っていたら、もう、それだけで、ありがたき奇跡なのではないか。そのような平凡な人間であることは、とんでもなく僥倖なことだと、どうして思えないのか。
 ここにオンリーワンが被さってくる。そう、最近、作詞・作曲した槇原敬之自身が歌っている「世界に一つだけの花」で歌われている世界。
 少なくとも日本など先進国は、一人っ子、せいぜい二人きりの子どもが多い。一時期、オンリーワンという歌が流行ったが、今の子供たちは、親たち(両親、二組の祖父母、小父叔母、隣近所、学校の先生)に、耳にタコができるほど、あなたはオンリーワンなのだと耳打ちされてきている。掛け替えのない子供、大事な子供。
 あなたはオンリーワンなのだから、大切な人間なのだからと、乳母日傘(わー、古い言葉!)で育って、それでいて、社会は、ナンバーワンを求める。競争や評価を学校では避けても、一歩、社会へ出たら、オンリーワンなどという悠長なことは、冗談にも言ってくれない。
 そう、冗談じゃないのだ。鎬(しのぎ)を削る苛酷な日々が待っているのだ。オンリーワンは、昨日のこと、今日からはナンバーワンであらねばならない。
 ぬるま湯から一歩、外に出ると、常在戦場、あらゆる場所がナンバーワンの自分であるかどうかが問われる環境となる。
 現代とは(少なくとも日本においては)、オンリーワンとナンバーワンとの両方が、過度に要求される社会になっていると言えようか。
 オンリーワンとは、何だろう。 
 オンリーワンとは、自分が掛け替えのない人間なのであり、他に代わりのない大切な人間だと自覚すること、人にも、そのように扱ってもらうことなのだろうか。
 ここには想像力が欠けているような気がしてならない(誤解して欲しくないのは、別に槇原敬之の歌の世界を批判しているのではなく、非現実的なまでにオンリーワンが強調される風潮を思っているだけである)。
 オンリーワンなのは、全ての人なのだということ。当たり前のことだけれど、この認識なくして、オンリーワンなど決して存立しえない。すぐに崩壊するか、壁にぶつかる。
 そうではなく、オンリーワンなのは、世の中のすべての人間が、そうなのであり、出会った、出会っている、これから出会うだろう、全ての人間がオンリーワンなのだという想像力こそが大事なような気がする。
 たまたま今は、その人がホームレスであっても、今は病の床に臥している人であっても、服装が、見かけが貧相であっても、それぞれがオンリーワンの生活をしているオンリーワンの人々なのだと理解すること。想像すること、自分が自分を大事と思うなら、人も全く同じように自分を大事に思っているし、日々、楽しく、あるいは懸命に生きているということ、そのことに思い至ることが大切なのだと思う。
 このことをもっと敷衍すると、そう、秋霜烈日なる思いに繋がるのだと思う。人間だけがオンリーワンなのではないのだ。目の前にある壁も、ポスターも、車も、路傍の石も、雨に濡れる木の葉も、吹き飛ばされ道端に吹き溜まる枯葉も、ペットも、野山の熊も、それこそ、ミミズもカラスも鼠も蛙も、さらには、水滴でさえもが、オンリーワンなのでる。
 それぞれが叡智の限りを尽くしているのだ。
 目の前に流れ落ちていく水滴と出会うこと、そのことが、オンリーワンの体験を今、していることなのだ。
 歴史は繰り返すのかどうかは、知らない。が、繰り返さない歴史があるとしたら、この瞬間を生き抜いたか、誰よりも深く感じ取ったか、心に受け止めたかどうかに懸かっているような気がする。
 日々の全てが、秋霜烈日、つまりは、己が深く細やかに広く感じ、考え、思い、想像し、共感し、愛惜しているかを問うているのだと思う。
 
 なんだか、大袈裟な話になってしまった。ま、焦らず、日々を大切にということで、取り留めのない稿を閉めておく。
 ついでに蛇足の駄句を一つだけ:


 水滴の伝い行く先の床しくて

|

« 「蓮と睡蓮」の周辺 | トップページ | 野路の秋 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

弥一さんこんにちは~
ご無沙汰しています。お元気ですかぁ?

日記を拝見させていただきました。
オンリーワンとナンバーワン。
誰もがそして小さな虫も水滴もオンリ-ワン。
そんなふうに深いところまで感じていらっしゃる弥一さんの言葉に感激しました。そしてドキリとして自分を振り返った私です。
そんなところまでいつもはなかなか意識しないでいるけど、感じられるようになりたいなあ。
自分の人生、自分らしく一生懸命生きていきたいものです。

お天気の良い日に図書館に行かれたんですね。
せっかっくいかれたのに休館日だったんですね。
これって私もよくあるんですよ。(^^;)
しょっちゅう。
いいかげんに何曜日が休館日だか覚えれば良いのにいきあたりばったりなのでお休みによくあたってしまいます。
決まった休みだけじゃなくて図書館て結構お休み多いみたいですよ、広島では・・・


投稿: マル | 2004/10/15 13:55

 マルさん、こんにちは。 
 久しぶりです。お元気でしたか。

 自分で書きながら、半分は自分に言い聞かせています。森羅万象に感じられるようでありたいと思っていますが、つい、惰性に流れるのも人間。日々、秋霜烈日です。

 図書館。今はもう、本を買えるような環境ではないので、本はもらうか拾うか、昔の本を読み直しています。
 でも、新しい本、気になる本も読んでみたい。何冊もの本を並行して読むこともあり、本を読むのが実に遅い小生、図書館の本は(選ぶ余地が少ないし、開館の時間帯が短い)敬遠してきたのですが、これからはそうも言っていられないようです。
 秋の夜長、冬の夜の友は本ですし、ね。
 コメントをありがとう。ここでコメントをもらうのは、とても嬉しいのです。

投稿: 弥一 | 2004/10/16 21:41

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/52847/1680092

この記事へのトラックバック一覧です: 秋霜烈日じゃないけれど:

« 「蓮と睡蓮」の周辺 | トップページ | 野路の秋 »