« 秋気澄む日々… | トップページ | 秋霜烈日じゃないけれど »

2004/10/13

「蓮と睡蓮」の周辺

 あるサイトの掲示板を覗いたら、睡蓮の写真が載っていた。睡蓮と蓮との違いがよく分からないとも。
 蓮は、俳句では夏の季語である。睡蓮と蓮とは同じ、睡蓮科の仲間だけれど、睡蓮というのは、10月になっても、咲くものなのだろうか。
 ちょっと睡蓮の画像を見てみよう:
睡蓮
 撮影されたのは、夏のようである。睡蓮の英名が美しい。「Water lily」だとか。では蓮は、というと、「Lotus」である。ロータスクラブなどで、耳にしたことがある方も多いだろう。
 上掲のサイトによると、「ハスは、葉や花が水面から立ち上がるが、 睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだまま」だという。
 が、例えば、下記の写真を見ても、違いがよく分からない:
写真」 
 但し、上掲の写真は、説明にもあるように、蓮は蓮でも、「大賀ハス」であり、「古代ハス」なのである。
 さらに、説明は、「古代ハスの研究者、東京大学農学部教授の大賀一郎さんが、千葉市の東大厚生農場 (現、東大検見川総合運動場)で、1951年に弥生時代の地層からこの蓮の実を発見。なんと2000年も前の実だった。そして発芽、開花に成功、その後全国に広まった」と続く。
 小生、以前、ある方のサイトで、古代ハスの写真を見て、思わず、一句、ひねったことがある。紹介済みだが、関連するので、睡蓮の写真を見て作った句と併せて載せておく:

 古代ハス 二千年の 夢と咲く
 睡蓮や泥水を啜って誇らしく

 泥水(煩悩)に浸かり、そんな水の中でも美しい花を咲かせるということで、蓮は仏教などでは、象徴的な花(植物)として珍重される。仏教の盛んなベトナムの国花は蓮だとか。
 一方、睡蓮は、自ら花や葉を泥水から離そうとするので、講話の例には使われないようだ。
 しかし、思うに、蓮や睡蓮に限らず、大凡の植物は泥水ではなくとも、土に咲くのが普通のはずである。水分は、土中から根っ子というストローで吸い上げるわけだ。つまり、理屈の上では、泥水も土でも、似たり寄ったりの環境で多くの植物は育つのである。
 何も、蓮に拘る必然性など、ないわけだ。が、何故か、蓮、なのである。
 やはり、水辺で咲く花というのは、人間の願望として、澄んだ水においてこそ咲いて欲しいというのだろう。
 が、泥水にあって、健気に蓮は咲いている。しかも、多くの睡蓮のように、汚れた水面から少しでも離れようと、伸び上がろうとする。濁り水を毛嫌いし、自らの美しさは、そんな汚れた世界とは無縁なのよと、出自を誤魔化そうとしているように、映ったりもする、のだろうか。
 その点、蓮は、葉も花も、泥水にどっぷりと浸かりながらも、しかし、緑の葉を雄雄しく広げ、美しい花を咲かせる。これは、講話の種には絶好の花、というわけのようだ。
 そんな蓮に思いを寄せる趣味人は昔から多い。かの小林一茶も、蓮に託した句を幾つも残している:

 蓮の香や昼寝の上を吹巡る
 犬の声ぱったり止て蓮の花
 蓮の花虱を捨るばかり也
 大沼や一つ咲ても蓮の花
 福蟇も這出給へ蓮の花

 ネット検索していたら、とても詩情溢れる写真を見つけた。是非、見て欲しい:
枯蓮  茜色さす湖面のオブジェ
 写真に寄せてだろう、句が載っている。句を作ったのは、誰だろうか。やはり、「文・山崎しげ子(随筆家)」とあるからには、山崎しげ子氏ということになるのか。写真と句を併せて味わうのがいい。

 枯蓮のさらにもつれし影水に

 上掲の一文の中に、「江戸中期の代表的な画家の一人、伊藤若冲(じゃくちゅう)は、晩年、大阪の寺の襖に蓮池の水墨画を描いた。哀感たっぷりの枯蓮。だがその横に、なぜか蓮の花の蕾(つぼみ)が描かれている。」という興味深い記述があった。
 小生、かの伊藤若冲の画となると、見たくなる。キーワードを工夫して、ネット検索し、当該の水墨画(だろうと思われる)を見ることの出来るサイトを見つけた:
「蓮池図」 伊藤若冲筆
「蓮の花の蕾(つぼみ)」も、ちゃんと見ることができる。
 このサイトには、若冲の考えなども紹介してある。一部、転記する:

若冲は眼前の事物を観察しつづけることにより、そのなかに潜む「神気」が見えてくるという。その「神気」を捉えることができれば、筆はおのずと動き出すのだ、と。

 40歳になった若冲は、弟に家督を譲り、名も茂右衛門と改めて、画事に専念することになった。これ以後、85歳で没するまで、嫁もなければ子供もなく、画三昧の生涯を送った。

 このサイトでは、伊藤若冲筆の「付喪神図」という、まことに奇抜な絵を見ることができる。これも、見逃せない。
 
 最後になるが(蓮や睡蓮となると、到底、語り尽くせない)、睡蓮というとモネ。モネに全く、触れないわけにはいかないだろう。
 知る人は知るだが、「彼の後半生で熱心に取り組んだのは、「睡蓮」の連作でした。ジヴェルニーの自宅の庭園に睡蓮の池をつくり、制作に没頭し」たという。
 芸術に限らないが、何事も、他の一切を犠牲にしても、やりたいことに専念しないと、一角の仕事は残せないということか。

 さて、恒例になっているので、蛇足とは思いつつも、我が駄句を。今日の収穫は少ないので、サッと読み進めるはずだ:

 鰯雲夜寒の露の身に沁みて
 臥待ちて恋に恋して焼け尽くし
 肌寒し松がさねなる帯を解く

 これらの句は、季語を重ねるという禁を犯している。こういういけないことをやっていはいけないのだ。
 ああ、今日は、休みだったのに、雑事で潰れてしまった。悲しい。仕事に関連するから、仕方ないのだが。

 雨しとど 咲き揃う夢も 悲しげに

|

« 秋気澄む日々… | トップページ | 秋霜烈日じゃないけれど »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/52847/1664552

この記事へのトラックバック一覧です: 「蓮と睡蓮」の周辺:

« 秋気澄む日々… | トップページ | 秋霜烈日じゃないけれど »