夜明かし
休みの前の日となると、椅子で夜明かしする習慣が付いてしまった。といって、ずっと起きているわけではなく、居眠りしては、ハッと目が覚める、の繰り返しである。
正直なところを書こう。読書をと本の活字を追うと、すぐに目が疲れるもので、ちょっと目を休めようと、目を閉じると、すんなり睡魔の優しい手に導かれ、無明の境を彷徨うらしいのである。
七月、八月と、貰った藤沢周平の時代小説を十冊、立て続けに読んだ。その流れというか、今、昨年、ゴミ置き場で拾ってきた池波正太郎の『雲霧仁左衛門(上・下)』(新潮社)を読み始めたのである。
一昨日は、二十数年前に読んだ北山茂夫著の『万葉群像』(岩波新書)を読了した。ずっと車中で、ちょびちょび読んできて、あと僅かとなったので、自宅で残りを読みきった。『万葉集』には、学生の頃から関心を抱いてきたが、この十数年は、一層、興味深く読まれる。大伴家持という、藤原氏らにより傍流に追いやられた名門の総領が、浅からぬ思いを抱きつつ、律令国家の形成の陰で苦しむ庶民や、権力闘争などで泣き、あるいは非業の死を遂げた宮中の人々の思いを綴る歌を拾い集めた本。
そう、普通なら消え去るべき本。立派な国家を作る過程での、闇の部分を抉り表現するような本など、あってはならない本。傍流とはいえ、一応は権力者の末尾にあって、広く言の葉を拾い集め、編集し、且つ、保存・温存・秘匿に努めることができたからこそ、奇跡的に生き延びることができたのだろう。
無論、宮中の奥深くで、密かに(公然の秘密?)読み次いできた、そうした貴族等の思いもあったのだろう。
一方、今は、車中では、またまた芭蕉の『おくのほそ道』を読み始めている。いろんな版で再々に渡って読み、もう、何度、読んだか分からない。
思えば、『万葉集』のあとは、『古今集』や『明月記』などを読もうと思っていたのに、時折、拾い読みするだけで、小生は、ずっと『万葉集』に引き止められたままである。同時に、芭蕉以外の俳諧にしろ和歌にしろ、ほとんど、読んでいない。
感性が、それらに合っているから(?)と思いたいけれど、まあ、学習能力に問題があるのかもしれない。もっと、幅広くと思いつつ、これからも、『万葉集』と芭蕉を中心の古典めぐりとなりそうだ。
薄暗かった空も、今は薄明となり、スズメだろうか、鳥の鳴き声も聞えてくるようになった。夜明かし。ちゃんと蒲団で寝たほうがいいのだろうとは思うけれど、翌日は休みと思うと、ダラダラのんびりまったり過ごしてしまう。せめてもの贅沢がこうした生活なのかもしれない。
かの9・11のこと、あれこれ考え、コラム的なことを書きたいと思いつつ、取り留めのないことを綴ってしまった。
掲載した絵は、なずなさんに戴いたもの。八月一杯、なずなさんの主宰・管理・幹事により、「黒毛祭り」が行われていたが、その祭りに参加したお礼だという。こちらこそ、逆に労いの何かをしなくてはいけないのに、反って恐縮である。そのうち、肩でも揉んで差し上げたいものである。
なずなさんサイト:
http://www.h6.dion.ne.jp/~nazuna/index.html
昨夜、捻った句を少々。これらは、掲示板にマルさんがコメントを寄せてくれたので、そのレスとして書いた文章に付したもの:
急かされて 描いた世界に 茫然自失
ない袖を 振り絞っての 一句だよ
携帯に 虫の音入れて 風情かな
我がライフ 最初の絵画は 蒲団にて
川柳は いのちマルごと 手の平に
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