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2004/09/30

雨の十六夜

s-DSC00967
 何だか、今日も慌しいうちに過ぎ去ってしまった。十五夜の月は、雲間隠れに何とか愛でることができたが、今日は、東京は雨。時折、強く降ったりして、到底、月影の出る余地はない。
 明日(既に今日だけど)は仕事なので、ノルマとしての掌編書きのチャンスは今日だけ。一昨日までに七つ。今日、一つ、書いておかないとノルマが果たせない。が、夜半になって、頭がスッキリせず、虚構作品を書く気力がまるで足りない。
 なので、ロッキングチェアーで一眠り。気がついたら、一時半。何を書く当てもないのだけど、とにかくパソコンのモニター画面に向かい、あちこちのHPを覗いて回ったりして、その気のやってくるのをひたすら待つ。波が来たところで、波の行方など考えず、とにかく乗る。下手すると、とんでもない波で、沖に浚われていくかもしれない。溺れてしまうかもしれない。
 でも、とにもかくにも、波に乗ることを試みるしかない。
 出だしの一行、あるいは、脳裏を掠める何かの光景、糸口となる観念か感覚、そうした微かなものたちが端緒なのである。
 というわけで、先ほどまで、掌編を書いていた。タイトルは、「透明人間」。変なタイトルだと自分でも思う。また、大方の人は、このタイトルで、常識的に思うことを想像するのだろう。
 が、小生が書いた作品は、妙にシリアスなものになってしまった。そのうちに(多分、一ヶ月以内に)HPにアップしたい。
 なお、日記でも書いた事情があって、配信を見送ってきたメルマガだが、昨夜、やっと配信した。遅れての配信、申し訳ございません。
 
 さて、今日も駄句の洪水が続く。
 既に昨日の日付でも相当量、アップしたのだが、それらに続けとばかりに、駄句の嵐じゃ:

 懐中物 軽さのあまり 身に沁みて
 待宵に顔を洗っての十五夜よ
(「身に沁む」や、「待宵」は秋の季語だとか。下に出てくる、「花野」も、秋の季語)

 素の顔を 化粧の失敗と 言い張って
(化粧の)乗り悪し 心の迷いが 現れて
 化粧はね 根性までは 隠せない 
 厚塗りし お絵かきしての 化粧かな
 化粧落とし 地を晒しての 恋の夜
 花の香は 移りにけりな とっくのとうに
 花の香や 移りしゆえに 浮気バレ

 花野にて 終の棲家を 見つけけり
(この句は、鈴木真砂女の「来てみれば花野の果ては海なりし」を脳裏に浮かべながらのものです。)

>うつ伏せて 孫といっしょに 見る野原 小さな秋や あちらこちらに  さくらえび

                  負いし我 やがて負われて 苦笑い   弥一

>日本海の潮の香清(すが)しこの浜に遊びにし日も現の如し  michio

    谷浜の丘渡る風清々し佐渡を見遣るは良寛さまか  弥一

>日本海の色もて染めしかハマゴウの青く小さき花揺れており  michio

    ハマゴウの群れ為す浜にはるばると吹き渡る風行方知らずも 弥一

 掲載した写真は、火曜日の営業も終わりに近付いている水曜日の未明。彩雲が鮮やかだった。さすがに十五夜の月は、その時間には見つからなかった。翌日の水曜日は、昼頃、ふと目が覚めた頃には、ザーザー降りの雨。十六夜の月は愛でられなかっただけに、十五夜の月を拝めたのは運が良かったということか。

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2004/09/29

昨夜は十五夜

 今は、まだ、徹夜勤務明けの睡眠が十分に取れていないので、昨日からたった今に至るまでに作った句の数々を列挙するだけにさせてもらう:

 薄雲に笹舟流し消えゆくか 
 満月が団子に見えて涎落ち
 ----------------------------------------
 
(昨夜は薄雲を透かして、あるいは時に厚い雲の合間から満月が顔を覗かせていた。辛うじて、東京では十五夜の月を愛でることができたのだ。夜ともなると、ちょっと涼しさの域を超えている。だからだろうか、その薄雲が、薄手のセーターやマフラーなどに見えた)
 お月さん 雲の襟巻き 気持ちいい?

(画像掲示板に戴いた、蘭の花を思い起こしながら)
 蘭の花 妍(けん)を競って 咲き誇る
 蘭の花 気品香らせ 反り返る

(蘭に対抗できるのは、薔薇。じゃ、薔薇の紅は何に喩える?)
 薔薇よ薔薇 赤いけだしに 息を呑む
[参考:薔薇の花 赤いけだしの 幾重にも]

(コスモスの花の中に埋もれて蜜を吸うミツバチを見て)
 コスモスを 揺らし舞い飛ぶ ミツバチよ

 備長炭 恋の熾き火に なりにける
 夜明け前 雨の雫の 揺れやまず
 欄干を 伝い落ちての 秋の雨
 アスファルト 靴音響く 朝の道
 耳を打つ 雨垂れの音 果てしなく
 秋雨に 顔を洗っての 十五夜よ
 十五夜の 辛い別れを 映す月
 
 花野にて 終の棲家を 見つけけり
(この句は、ある句への尻取り句。但し、鈴木真砂女の「来てみれば花野の果ては海なりし」を脳裏に浮かべてもいる)

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2004/09/28

創作三昧ってほどじゃないけど

 それでも、この休みには、掌編を二つ書いた。今月のノルマは、8個なのだが、先週末までに5個しか作っておらず、今月中にあと3つ。結構、切羽詰っていた。そこで、月曜日が休みなのを幸い、朝方に一つ「ディープブルー」を、夕方にまた一つ「縄の記憶 」を書き上げた。
 前者は、映画好きな方ならピンと来るだろうけど、実写版の動物の記録映画。今、上映中(それとも、もう、公開は終わったのかな)。そのタイトルを戴いた。あるサイトで、その映画を見ての感動もあってか、クラゲの絵を描いておられた方がいた。
 そのクラゲの絵が、小生、甚く気に入り、その絵を挿絵にしたい一心で、月曜日の未明に書き上げたもの。が、出来上がった掌編は、意に反して、とてもじゃないけど、絵を挿絵として使わせて、とは言えない代物に。ま、そのうち、さり気なく、HPにアップするだろう。
 後者は、縄文式土器の話を土曜日の営業中、ラジオで聞いた。その際、土器の表面の縄文は、縄だけれど、蛇のイメージがあるという内容に(知る人には常識なのかもしれないけれど)、やや新鮮なショックを受け、エッセイに仕立てるか、それとも、虚構作品に仕立てるか迷ったが、ロッキングチェアーでの居眠りから目覚めた瞬間、元気が自分にあると感じ、力技も可能だろうと踏んで、虚構作品に仕立ててみたのである。
 これも、そのうちにアップするだろう。
 とりあえず、これで、今月作成の掌編は7つになり、ノルマはあと一つ。火曜日の営業が明けた水曜日に何かしら虚構作品を作りたい。もう、今月、作成する日程というと、水曜日しか残っていないから、その日のうちにやるしかないのだ。結構、厳しい。

 尚、HPには、月曜日に、書評エッセイ(「ヴィンセント・ギャロ展へ/『ドイツ・ロマン主義の風景素描』を巡って 」)をアップし、さらに、掌編(「樹海にて」)をアップ。
 なかなか、HPの更新は侭ならないけれど、ボチボチ、やっている。
 ところで、メルマガの配信が滞っている。言い訳にしかならないが、このブロッグという形式の日記が気に入っていて、場合によっては、メルマガより、このブロッグの日記に全て移行しようか、とさえ、思ったりしている。
 尤も、決めたわけじゃない。なんといっても、コラムやエッセイ、書評の長いものをこの日記に載せるのは、読む方には、負担が大きすぎるだろうし。
 それと、例えば、今週末(10月3日)に我がチームのメンバーが関係するサンバのパレードがあるのだが、その詳細な情報の入手に至っておらず、よって、その情報をネット検索その他で探したが、見つからず、差し迫ったパレードの紹介も出来ないのでは、メルマガ配信の意味が無いと感じられ、配信の気力が湧かなかったのである。
 念のために断っておくと、配信する予定の原稿は手元にあるのだ(勿論、パソコンのハードディスクという意味)。

 さて、汗駄句の川柳を載せておこう。あちこちに書き散らしたもの。経緯(いきさつ)抜きで、列挙しておく:

 >> > かくれんぼ 見つけて欲しくて 隠れるの
 >>  かくれんぼ 見つけて欲しいの どっちなの
  >  かくれんぼ 隠れすぎたら あの世行き(おお、怖!)
     あの世でも 迷子になって 里帰り(めでたし、めでたし)

  思い出を 浜に埋めて 海の秋
  墓洗う 手向けの酒を 待つ人よ

 まるで話の流れに関係ないけど、こんなサイトを教えてもらった。名古屋を自慢し宣伝する
 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~chinsan/nagoya.swf

 読書のほうは、ボチボチ。過日、紹介した五島雄一郎著『死因を辿る』(講談社α文庫)を読了。ついで、つい先日、白石一郎という歴史・時代小説家が亡くなられたと新聞の記事で知った。小生は、彼の作品を全く、読んだことがない。
 が、僥倖というのか、昨年、ひょんなことから入手していた文庫本で、『幻島記』(文春文庫)という短篇集がある。上掲の本を読み終えたことだし、藤沢周平、池波正太郎と、時代小説家の本を読み続けてきた流れもある。思い切って読んでみることにした。
 実は、あまり期待していなかったのだが、表題の「幻島記」を読んだら、読み応えがあるではないか。これは、小生の不明を恥じるしかないと思った。残りの短篇を読むのが楽しみである。
 

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2004/09/27

ナンセンスな詩?

 ここに掲載するのは、まるで意味も体裁も為していない詩(?)。掌編の部屋に載せる性質のものでもないし、日記というわけじゃないけれど、ある種の呟きとして、チラッと載せておく。いつぞや、日記にメモ書きしたことでもあるし…

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 「ナンセンス」


 止まない雨がないように、降らない雨もない。
 始まりのない夏休みがないように、終わりのない夏休みもない。
 始まりのない物語がないように、結末のない物語もない。
 火のないところに煙が立たないように、尾ひれのない噂はない。
 臭いのない屁がないように、実のない屁もない。そんなものは、屁でもない。
 始まりのない恋がないように、終わりのない恋もない。
 そう、命に終わりがあるように、恋の命も燃え尽きる。
 零れない涙がないように、涙のない恋もない。
 嘘のない愛がないように、愛のない嘘もないのかもしれない。
 ああ、だとしたら、オレが吐いた嘘は愛のせいだったのか…。
 嘘だ! あの嘘は、愛の終わりの始まりを告げていたのだ。
 何故なら、愛は始まっていなかったのだから。

                              04/08/25 09:22

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 制作した日付を見て、気付いた。8月25日の水曜日の朝、ということは、火曜日の営業を終え、水曜日の朝、帰宅して、眠れないままに、つい、熱に浮かされるようにして日記に書き連ねたのだった。
 その日は曇りがちで、雨も時折降っていたっけ。誰かの小説か何かの本のタイトル、それとも、謳い文句に、「止まない雨がない」とあった。それは、書店の入り口に貼られた宣伝のポスターにデカデカと。言葉遊びの好きな小生は、その文句に、つい、揶揄めいた絡みを仕掛けたくなった。そう、だったら、「降らない雨もない」じゃないか、と。
 疲れている時の小生のやりそうなことだ。疲れきっていることもあり、纏めきることもできないままに、無理に書き終えてしまったことを覚えている。暑い夏だったよなー。

 さて、例によって、汗駄句川柳の新作を恥ずかしげもなく、列挙しておこう:

 音もなく フロントガラスに 降る雨よ
 窓伝う 雨の雫の 行方追う
 天災は 忘れた頃にやってくる 返済は 忘れないでやってくる
 靴音の 響きばかりが 夜の友

 以上は、土曜日の営業中の作品。
 下記は、あちこちの掲示板の句:

 かくれんぼ 見つけて欲しいの どっちなの
 かくれんぼ 隠れすぎたら あの世行き(おお、怖!)
 雨よ雨 俺の代わりに 泣き尽くせ
 うさぎさん 雨雲の蔭で お昼寝かい(あれ、前、似たようなの、作ったっけ)
 恋しいの そう呟き続けて ン十年(賞味期限切れか?!)

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東京での風聞…

 以下の小文は、或る日の日記。日付はなんと、7月2日。メルマガに掲載しようかと思っていたが、それほどの文でもなく、載せそびれていた。まあ、所詮は日記なのだし、駄文と思って読み流して欲しい。

   -----------------------------------------

 快晴。梅雨の時期なのに、湿度が低く、日陰にいる限り、居心地がいい。風も爽やか。空梅雨と言うけれど、梅雨の真っ最中だとは、到底、信じられない。
 今日は湿度が低く、過ごしやすいけれど、東京はコンクリートジャングルで、やたらと暑くなっている。しかも、汐留や台場、品川など、海沿いの町にドンドン高層ビル群が林立している。
 そのため、海風の都心への吹き込みが妨げられ、一層、都心が暑くなっていくのだとか。
 東京都知事には、都心に運河を復活させるとか、対策を考えて欲しい。屋上緑化とか、渋滞の緩和とか、あれこれやってはいるんだろうけど、抜本的というインパクトを受ける対策は打ち出されていない。

 さて、タクシー運転手をしていると、不穏な、根拠のあやふやな話を聞くことがある。例えば、今、海沿いに高層ビル群が建っているのは、テロ対策だという話を誰かに聞いた。海辺の運河から皇居は間近。なので、高層ビルをドンドン建て、武装勢力が海辺(東京湾岸)から侵入するのを少しでも妨げようとしている、という説。

 他に、遅かれ早かれやってくる関東震災。あるいは東海地震対策で、海沿いに高層ビル群が半ば意図的に建てられている、という噂も漏れ聞いたことがある。
 地震などの災害の際、巨大な洪水・津波が発生する。その洪水が都心に流入する勢いを海辺のビル群に楯になってもらい、勢いを少しでも弱めようという深謀遠慮がある、だから(特に海辺を中心に)規制緩和し、地盤の怪しい土地に巨大ビル・マンションの建設を許可しているのだ、という説も誰かに聞いた。
 いずれにしても、新幹線沿いの都心の変貌振りは凄い!

   -----------------------------------------

 ま、こんな噂を間に受ける人はいないだろうけど、テロ対策はともかく、洪水の対策にはなっている。守られているのは皇居というより、都心一帯なのだろうけど。
 思えば、この一文を綴って間もない頃に、小生、川柳病に罹ったのだった。暑さにやられてしまったのだとしか思えないが、未だに罹患したままということは、暑さの後遺症なのか、それとも、持病として一生、付き合っていくことになるのか……。
 先のことは、分からない。
 そうだ、下記の句を載せ忘れていた。画像掲示板に「ラン」の画像を貰った。その際のレスに付した句なのである。

 花の海 緑の原を 翔ける我
 絶景を 借景で叶える 切なさよ

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2004/09/26

燈火親し

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 あるサイトで、「燈火親し」が季語として使われている俳句を読んだ。
 そこで、川柳病の小生、早速、訳も分からず、とにかくこの言葉を使って句を捻ってみた:

 燈火親し 読書の前に 眼鏡探す
(一昨年から老眼鏡のお世話になっている。読書しようと、本を手にし、手元の明かりを灯し、さあ、読書、と思って本を手にしたはいいけれど、頁を捲ろうとして思い知らされる、そうだ、老眼鏡が無いと読めないんだった! 悲しい現実がそこにはある)

 燈火親し 夜の渋滞 投灯塗れ
(俗人たる小生、仕事は路上。そう、車の運転が仕事。親しむ燈火というと、小粋なそれではなく、街中のヘッドライトなのだ。街は、無情な照射の投灯で溢れている。ヘッドライトの青褪めた白、テールランプの赤、ウインカーの黄色、信号機、ネオンサイン、ビルの窓の灯り、街灯、走りすぎていく自転車の反射板…)

 燈火親し 立入る庭で 浴びちゃった
(最近、そばを通るだけでセンサーが働き、警告灯の灯る家が多い。別に庭に忍び込んだわけじゃなく、家の軒先を掠めるだけで、パッと照らし出される。なんだか、こちらが悪いことをしているみたいで、不愉快)

 燈火親し 浮かび上がるは 魚の目か
(そのサイト主の方が魚の目で悩まれていた)

 ここから先は、思いつき。

 燈火親し コオロギの鳴く 秋の暮れ
 燈火親し 熱いお茶の 湯気愛し
 燈火親し 捲る頁の 紙の音
 燈火親し 頁を捲っての 夢心地
 燈火親し 秋の夜長を 寿いで

 ここから先は、例によって、ほうぼうの掲示板への書き込みに付した句の群れ…:

 雨音は 心を叩く 天の声
(ある人に、小生は雨になると創作意欲が湧くんですね、今度は、どんな作品を書くのですか、なんて、書かれた。確かに、小生、そうだった……けれども、今は、ちょっと違う。今年は、掌編百篇というノルマがあるので、雨の音を聞いた時になって悠長に執筆するというわけにはいかないのだ。ちょっと苦しい状況にある。それでも、雨の音は、そう、小生の胸のうちを、心の奥を直接叩くように、感じられてならないのである)

 かくれんぼ 幾つになっても 隠れてる
(一昨日だったか、「かくれんぼ 見つけて欲しくて 隠れるの」という句を捻った。小生、それこそ中学生になっても、やっていた。それも、登校の途中で。中学一年の時、近所の一年上の兄ちゃんと中学校に通っていたのだが、一緒に歩きながらも、つい、隠れてみたいという衝動が生じる、で、我慢できずに、すぐそこの門の陰などに隠れて、すぐに見つけてもらって、安堵したりするのだった)

(寝る子は育つと昔から申します。何故でしょうか? それは、食べたものを余計な運動で消費したりせず、全て体に還元し蓄積しているから。その意味で、省エネの時代、みんなで寝る子は育つを年を取っても実行していきたいものですね)として、一昨日、以下の句を捻った:

 牛になり 寝る子は育つ 明るい明日

 それに続いて、下記の句を捻ったのだった:
 
 省エネは 喰っちゃ寝に 尽きるのさ

 雪山を 愛で溶かして 禿山に
(百年の恋も冷めちゃうね。尤も、ある句に付した句なのだが…)

 懐の 寒さを隠す 熱燗か
(額が冷えると風邪を引くってのは、小生の持病なんだろうか。懐が寒いと、肺炎になるってのは分かるけど)

 掲載した写真は、土曜日の営業が終わって、日曜日の朝、帰宅途上で撮ったもの。花だけが出迎えてくれる。

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2004/09/25

日々是好日

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日々是好日」は、どう読むか。
 答えはどうやら、「にちにちこれこうにち」のようである。小生は、恥ずかしながら、想像の付くように、「ひびこれこうじつ」と読んでいた。その正解を知って、日の浅い小生である。
「中国の唐未から五代にかけて活躍された大禅匠、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉」だとか。
 読み方において、誤解していた小生だが、語義の理解でも、勘違いしていた。意味合いは、「その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地」を示すのだとか。
 小生はというと、言うまでもなく、「毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味」で理解していたのだった。
「その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地」…、なかなかそうはいかない。そんな境地に達していないことは勿論だが、近い将来においても、到底、達する見込みもない。
 ただ、それでも、あれこれジタバタしてきた挙げ句の今の自分はというと、自分について高を括っている気配もないではない。別に悟りを得たというわけじゃなく、自分に対し、世の中に対しても、極端に失望もしないかわりに過剰な期待も抱かない。
 所詮は、一人一人の人間の集合なのだ。自分のような取り留めのない人ばかりではないのだろうけれど、立派で眩しい存在ばかりがいるわけでもない。自分ができることをコツコツ、やっていくしかない。できるのは、それだけだとは思っているだけなのである。

 ところで、24日の「小夜時雨」に掲げた花の名前を教えてくれた方がいる。日々草だとか。そう、単純明快な思考回路の持ち主である小生、そのあまりに素直な連想で、この「日々是好日」という表題を思いついたのだった。ここまで分かりやすい奴も、今時、少ないのではなかろうか、なんて。

 手元不如意で本を買えない小生、貰った本、拾った本、昔、買って読んだ本などを読んでいる。七月・八月は藤沢周平、ついで、池波正太郎だったが、今は、五島雄一郎著『死因を辿る』(講談社α文庫)を読んでいる。サブタイトルとして、「大作曲家の精神病理のカルテ」と付されている。
 多くの天才的作曲家が、存命当時において原因不明の神経や精神の病を抱えていて、一生、苦しみ通しだったことが分かる。無論、そうではない作曲家(天才)もいたのだろうが。病の亢進が創造力を萎えさせることがあるが(それだったら、分かりやすい)、時に、逆に病が憎悪した時に創造力が高まり、爆発的なばかりに作品を生み出す作曲家がいたりする。
 癲癇だったと言われるドストエフスキーのあの作品群。小生は、ドストエフスキーの全集は二揃え持っていて、両者ともに読破している。読み始めたら止まらなくなる、あの一つの世界をとことん、しかも、一気に駆け抜ける描写力は凄まじい。「罪と罰」は英語版も含め五度は読んだし、「カラマーゾフの兄弟」も四回は読んでいる。「白夜」という小品は、七回か八回か。
 ドストエフスキーなど、今時、読まれているのだろうか。もう、古臭い作家に過ぎず、図書館でも埃を被るだけになっているのだろうか。病と創造性、その神秘を最初に痛感させた作家がドストエフスキーだったような気がする。そしてやがて幾多の創造者が、それぞれの病(やまい)、あるいは居たたまれない精神の葛藤や焦慮に突き動かされていたことを知るのに、時間は掛からなかった。
 好きな作家の一人である、夏目漱石もそうだった。今、たまたま漱石門下の寺田寅彦の随筆集を読み始めたので、つい、漱石を思い出してしまった。彼についても、全集を二つも持っている。座右において、常に叱咤され励まされたりしている。
 自分などを偉人に引き比べるのは、野暮だし、おこがましいと思うのだけど、徹底して書くという営為を続けてくると、自分の中にも何か、駆り立てるものがあるのかと、顧みたくなったりもする。書くことは楽しいと思いつつも、年間掌編百篇なんて企てを自分に課してみると、無謀な試みに喘いでいる自分って、一体、何? と思わざるを得ないのだ。
 それでも、やるだけのことはやる。やってどうなるというものではないのだが、持続している間だけが自分なのだという感覚は、もう、病膏肓の域にあるのかなと思ってしまう。
 世界の豊穣さを自分なりに感じたい。その感じ方、得方は人によりそれぞれだろう。自分は、ネタなどまるでないのに、敢えて日々、小品という形で創造することを選んでいる。生きてある世界の尽きることなき豊かさ。それを感じてならないのだ。
 が、悲しいことに、その無尽蔵さを表現する力は、まるで足りない。それは、気の遠くなるほどの断崖絶壁を見上げているような感覚だったりする。絶壁を見上げるだけ、もう、気力が萎えそうになる。自分の力が及ぶはずが無いと、呆気ないほど明確に思い知らされるのだ。数十メートルの大波に立ち向かうサーファー、なんて思ってみたり。溺れることは、海の藻屑になり終わることは、初めから知れている…。
 それとも、本当は、見下ろしても、その最下点の見えない絶壁に立っている心境なのか。そう、本気になって表現するには、思い切って、その崖を飛び降りなければならない。命を賭して、その暗黒と灼熱の世界に飛び込まないといけない。身を捨てないと、得ることはありえない。
 つまりは、そこで問われているのは、勇気なのかもしれない。掌編などを書き散らしているのは、実は、絶壁を飛び降りる勇気が無いから、崖の上の岩場の壁面を、ちろっ、ちょろっと、掻き削って、そうして創造の真似事をして、目先を誤魔化しているだけじゃないかと、つい、思われてしまうのだ。
 存在というのは、不可思議極まるものだ。その存在を問わない限りは、そこにとても自然に、さも当たり前のようにして、在る、居る。が、一旦、その意味を問い始めると、もう、波の引くように、その体躯が消え去っていく。後ずさりしていく。遠ざかっていく。この<オレ>を置き去りにしていく。
 巨大な闇。真っ赤な口を開けた灼熱の世界。隔絶している、それでいて、つい、隣りにある際限のない世界。自分はその世界にいるらしい。あるいは、もう、とっくに溺れてしまっているのかもしれない。溺死しているのに、気付いていないだけなのかも…。
 豊かな世界をこれほどに、ヒシヒシと感じているのに、何一つ手出しができないというのは、あまりに悲しい。やはり、ドンキホーテを気取る訳じゃないけれど、幻の風車を追いかけていくしかないのだろう。

 さて、掲げた写真は、一昨日の朝、仕事帰りに近所で撮ったもの。可憐な花ばかりが小生を迎えてくれる。あと、小生を迎えてくれるものというと、先日、掲げた老いた白猫。昨晩、買い物に出かけたら、その白猫は、同じ場所に鎮座していた。ほぼ、一日中、坐ったままなのだ。別に小生などを気にかける風もない。でも、小生は、勝手に、奴は小生を見守ってくれていると思っている。
 ほかに誰もいないのだから、せめて奴だけは、と思ってしまうのだ。奴がいなくなったら、さぞ、寂しかろうと、今からもう、戦々恐々の心中なのだ。
 そういえば、小生には、「月と老い猫」という作品があったっけ。

 老い猫の 招き待つのは 闇だけか

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2004/09/24

小夜時雨

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 小夜時雨という言葉に出会ったのは、めるがっぱさんサイト「美術館のある町で」の掲示板でのことだった。岩波文庫の「蕉門名家句選」の上巻を時間を掛けてじっくり読まれていた。その読解の一環で、次の句を紹介されていた:

 小夜しぐれとなりの臼(うす)は挽(ひき)やみぬ   野坡

 名前だけは知っていても、ことさら時間を掛けて志太野坡の作品に接することはなかっただけに、この句に出会ったことを契機に、彼の他の作品も味わってみた。
 改めて、「小夜時雨」という言葉を紹介するに当たって、正確な語義を示しておこうと、「小夜時雨」をキーワードにネット検索してみたら、冒頭近くで興味深いサイトを発見した。そこには、子規の句が示された上で、「小夜時雨」という言葉などについて説明してある:

 小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん   正岡 子規

「季題は<小夜時雨>で冬。「小夜」は夜の美称。冬のはじめの頃、さっと降りだしては止む雨を時雨という。」以下、上掲の句の読解が示されている。
 この句に応じる形で、虚子の句も紹介されている:

 すぐ来いといふ子規の夢明易き   虚子

「これは昭和29年の作。子規が逝って既に半世紀の歳月が経っているとは思えぬほど、精神の呼応が感じられる句ではないか。『子規句集』所収。」は、まさに同感だ。
 どうぞ、紹介したサイトを覗いて欲しい。簡潔的確な文なので、一気に読める。

 この「小夜時雨」という言葉を紹介しようと思ったのは、昨夜半過ぎ、まさに「小夜時雨」を経験したからである。もっとも、正確には、「冬のはじめの頃、さっと降りだしては止む雨を時雨」というのだが、暑過ぎた夏が終わって、秋の到来を真夜中過ぎにそぼ降る雨に実感していたので、公園の脇に車を止めて、雨に濡れる木の葉などを眺めていると、つい、この言葉を思い出してしまったのである。

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2004/09/23

秋の雨

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 掌編のこと
 小生は、あまり考えないで川柳(と称していいのかも分からない)を作っている。風景を見たり、写真を見たり、何かのメッセージを読んだり、時に、思い出の中の光景を脳裏に思い浮かべたりして、そのイメージを句に置き換えている。
 そこには、もしかしたら、思わず知らずの作為が働いていないとは言えないのだろうけれど、小生としては、ほとんど考えもしないで、せいぜい語数(5・7・5)だけには多少、神経を払う程度で、即興でひねり出す。
 その意味で、所謂、創作というには、ちょっと安易過ぎるものなのかなと、感じている。
 しかし、それでも、ひねり出す一瞬の作為の中に、創作というのは大袈裟なのだとしても、何かしらの創造の作用がないとは言えないようだ。
 小生は、掌編を相当程度、書いている。今年も今のところ、73個、作った。全て、基本的には創作。実話に基づいているように見えて(読まれる方に、実話に見えてくれるなら作者冥利に尽きるのだが)、実際には、実体験から端緒(契機)を戴いているだけ。
 実際のところは、徹底して虚構の営為であり、虚構空間での現実空間の創出を懸命に企図している。その、あるようでいてない光景を叙述するのは、なかなかに難しい。目で実際に見た光景ではまるでないのだから、ない世界をあるかのように描かねばならない苦労は、並大抵でなかったりする。

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2004/09/22

日傘の女…

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 七月の上旬から罹った川柳熱が、二ヶ月あまり経った今も、亢進したままである。
 そんな小生に付き合ってくれる人もいる。大変だろうけど、お相手してね。
 尚、表題の「日傘の女」というのは、意味深そうだが、昨日、車中から見かけ、印象的だった女性がいたので、つい、表題にしてみただけ。なーんだ、だが、まあ、床しくてならないので、仕方ないね。

> かなかな・・シリーズ3      なずな
>
> さかなは はるかな かなたへ いった
> かなしみ かなたへ はこんで いった
> ひぐらし かなかな なく ひるま
> かならず かなう ねがって ごらん
> ゆめみた こころ ゆたかな おもい

「俳人は かなかなかなと 鳴くのかな」から、ここまで来るとは凄いね。さすが、なずなさんだ。あっしは、詩は書けないので、ナンセンスな言葉遊びを(早口言葉じゃありません!)。

 かなた は たなか
 さかな は なかさ
 かなかな は なかなか
 さかなかな は なかなかさ
 なか は かな
 かな は なか
 なかのかな
 なかなかな
 かなうなか
 なかろう と うろかな 
 はかない は いなかは
 となかい と いかなと

(余談だが、小生、このナンセンスなる言葉遊びに二時間も費やしてしまった!!その努力に免じ、これらの平仮名言葉に漢字を当て嵌めてみて。他にも、「かな」を使った言葉遊び、誰か試みて欲しいな。)

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2004/09/21

猫と睨めっこ

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 猫と睨めっこ
 月曜日の夕方、買い物に出かけた際、そろそろ半月に近付いているはずの月影を求めたけれど、夜空には見当たらない。マンションや工場(こうば)が建てこんでいる一角だから、仕方ないのだろうか。それとも、空が曇っていたのだけなのか。

 半月の 片割れ探し 夜の旅
 
 ところで、買い物を終え、我が邸宅もそのうちにある団地に入り、階段を登ったら、目の前に猫がいた。その猫は、向かいの工場のブロック塀の上に立って、じっと、こっちを見ている。
 警戒しているようにも見えるけれど、なんとなく、瞳の中に、好奇心でこちらを眺めているような感じも見受けられる。小生も、猫ちゃんと目が合っていて、その目を逸らすことができないでいる。しばし、階段上で立ち往生。
 猫は、淡い茶色の雑種の猫。仔猫とは呼べないが、大人にもなりきっていないようだ。
 仔猫の無警戒とも違う、といって、警戒して、場合によっては、フーと毛を逆立てようという気も、ないらしいその猫、一体、どういうつもりで我輩を眺めていたのだろう。

 猫よ猫 瞳の奥の 夢見せよ
 
 焦れて先に動き出したのは、小生のほうだった。階段を上がりきり、踊り場を曲がろうとしても、猫は、ずっとこちらを眺めたまま、身じろぎ一つしない。不思議な猫だ。
 なんとなく、エッセイ「猫と扇風機の思い出」を思ってしまった。

 駄句の洪水だ! 
 さてさて、掲示板にも書いたけど、駄句の洪水がやまない:

 以下は、いずみさんサイトでの書き込みに付したもの:
(コーヒーが恋しいと聞えるということで)
     コーヒーで 恋しい思い 暖めて
(財布をポットントイレに落とした思い出に絡めて)
     我が財布 今ごろ何処で 使われてる?!
(画像掲示板に安見さんより大台ヶ原の画像が。その写真を見て)
     大台ヶ原 神の吐息の 垂れこめて
     大台ヶ原 虹の橋さえ 神の道

> かなしいかな かながき かなもじ かたかなことば
> きゅうかな しゅうじょし(終助詞)のかな いまのこわかるかな
(以上の、なずなさんの言葉遊び文を受けて) 

     悲しいわ… 叶わぬ恋と 嘆くかな
     ひらがなで つづることばは よみづらい
     カナガキデ ツヅルコトノハ ヨリツライ
     け(きゅ)ふかなで つづることのは もふよめぬ

 掲載した写真は、以前にも画像掲示板で紹介した東京のとある運河の夜景。時折、小生は、この運河に沿ってある公園脇に車を止め、休憩する。風がなかったりすると、波が穏やかで、その波間に月影がちらついて、疲れた神経を癒してくれるのだ。
 ところで、その画像掲示板、また素敵な写真の投稿があった。嬉しい。特に、あるフラッシュの画像(349)は、豪華且つ可憐である。必見だ。

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2004/09/20

週末は徒然なるまま創作三昧

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 土曜日に少し無理を押して武蔵境で行われた祭りに出かけた。その後に、鍵にまつわるトラブルがあったりして、その疲労などの後遺症が、ずっと尾を引いた。今日も休みだったのだけれど、ずっと、寝たきり。昨日から、ほとんどロッキングチェアーで過ごしていた。
 それでも、週末の連休には、この夏場、ずっと読みつづけていた藤沢周平の本の十冊目を読破し、池波正太郎の『雲霧仁左衛門 上・下』(新潮社)も読了することが出来た。この夏は、両大御所の時代小説三昧だったわけだ。
 その合間には、山本健吉の俳句の本、芭蕉の「おくの細道」などをつまみ食いしながら、俳句とは川柳とは、なんて、つらつら思いをめぐらしたりしていた。
 さて、小生、今年は米百表ならぬ掌編百篇の精神で、自分なりに頑張ってきた。六月までに50篇を書き上げ、7月は8篇、8月は10篇と書きつづけ、先月末までで68篇。
 が、先月末から今月に懸けては、サンバパレードにギャラリーしに行き、そのレポート作成、さらには苦手な写真のアップ作業に時間が奪われ、肝腎の掌編がなかなか手が付けられないでいた。
 そこで、昨夜は「彼岸花の頃」を曼珠沙華(彼岸花)を狂言回しに使って書き、今日の午後は、アガパンサスという花をトリックスター的に使っての「アガパンサスの花言葉」という掌編を書き上げた。

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2004/09/19

夏の或る日の日記から

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 以下は、八月の終わり頃に書いた、やや戯作調の日記。一読すれば分かるように、浅草サンバカーニバルが終わって、なんとなく虚脱感が漂う。夢の世界から現実に、引き戻され、戸惑っているような、何処か投げ遣りな雰囲気が漂う:

 ヒグラシ日記
 支払い期限が31日。郵便局で支払いしたんだけど、驚いたことに、窓口で一切待たされることなく処理してくれた。最速だ。これはこれで物足りなかったりするけど、贅沢な思いだね。
 ああ、それにしても、なけなしのおカネが呆気なく消えていった。自分のものでありながら、自分のものではなかった、なけなしのあのおカネ。まるで勝手に恋人と思い込んでいた人が立ち去っていったようだ。

 " 蜩(ひぐらし)よその日暮しと笑うなよ "
 支払いに行く途中、何処かの民家の石塀から緑滴る木々が。ふと、先月、スクーターで帰省し、我が郷里に付いて、高速を下り、一般道を走っていて、道路上から脇に青々と実る稲穂の田を連想してしまった。
 
 " 秋の田や大海原と競うごと "

 そういえば、北陸自動車道に入り名立谷浜近辺に近付くと海が見える。夏の海。貧しい青春を送った小生だけど、それでも、何一つ思いでがないわけじゃない。
 
 " 底深く思いを沈めて北の海 "

 浅草でスタッフとして手伝いをした。大蛇の目などの制作に立ち会ったり。その大蛇の目を見て、ふと、遠い昔、田舎の何処かの田圃で見た蛇とカエルの睨みあいを思い出した。

 " 蛇の目に竦むカエルよちびるなよ "

 それにしても、山車押しの疲労は取れたけど、今になってふくらはぎや体の節々が痛む。
 
 " 浅草の思い出詰まるふくらはぎ "

 作り物めいた日記文の転記は、ここまで。
 以下は、この一両日に作った、これまた戯作調の句の数々:

 曼珠沙華 いずみのほとりで 咲き乱れ
 曼珠沙華 秋の訪れ 寿いで
 曼珠沙華 目覚めろ弥一と 怒るよう
 曼珠沙華 お下がりの饅頭 饅頭下げ
 饅頭は 包む皮より 餡子だぞ
 饅頭食べ いのちのいずみ 湧くーってか

 木下利玄の「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎているしづかなる径(みち)」に添えて:

 曼珠沙華 彼岸を萌やして 咲く花か    弥一

 以下は、あるサイトの掲示板への書き込み

 小生、昨夜も性懲りなく、同じ失敗をやってしまった。バイクのトランクに鍵の閉じ込め。惨めー。情ないー。気のせいか、失敗のサイクルが縮まっているような…。行末はどうなることやら。

 秋の暮れ あっしのドジに 呆れてた
 小夜時雨 降るは弥一の 胸の中
 ドジ加減 これで打ち止めと 思いたい

 ああああ、涙雨が、降るーーーー!

 掲載した写真は、或る日或る場所での朝焼け。
 我が人生は傾くとも、そんな小生にお構いなく、日々に新たに日が昇る。朝日が眩しい!

 日は昇る 誰に断りなく 日々新たに……ああ、切ない!
 

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ひたすらに

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 土曜日は徹夜明けを押して、三時間ほどの睡眠をとっただけでサンバパレードを観に行った。感激もしたけど、トラブルもあって、体は疲労困憊。夜の十一時近くに帰宅し、シャワーを浴び、仮眠を取ってから、未明になって、パレードなどについてのエッセイ文を交えたレポートを書き上げた。
 いろいろ悲しい、辛い、憤懣に耐えない事件などが報道されるけれど、パレードで若い人の元気な姿を見ると、感じるものも少なくない。ひたすらに楽しさの実現に向って頑張っている。眩しいほど。以前、ひまわりの画像を貰った際に、付した句を多少手を加えて、再度、掲げておきたい:

 まっすぐに 眩しいほどに ひたむきに

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2004/09/18

汗駄句駄句

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 金曜日であり、多くの人には三連休を控えているということもあって、必ずしも暇というわけじゃないけど、信号待ちの時などに、寸暇を惜しんで(?)川柳などを捻ったりして:

 行く夏を命の限りと蝉の鳴く 
 悲しみを千筋に分けて行く雲よ 
 ダダダダダ!これがサンバだ!ダダダダダ! 
 鈴虫は涼み松虫は待つ虫かも
 俳人は かなかなかなと 鳴くのかな

 帰宅して、掲示板などにも、性懲りなく駄句に駄句を:

 秋の夜 何をするにも 楽しくて   弥一
 柿を食い 虫の音聞いて 書を開く   michio
(狐火や この世を夢と 知らすごと   弥一)
 狐火は 鬼火を知らす 先行きか michio

 狐火は、雨模様(天気雨)の夜に見えるという。つまりは、土中の燐(動物の屍骸から発生するものなど)が雨(水)に反応して、青白い炎のようなものが上がる。それが狐火の正体だと言われる。完全に雨降りだと、狐火(鬼火)は鎮火させられるし、雨に煙って見えないのだろうね。
 ということで、鬼火は、狐火と同じモノだと思うのだけど(同じ対象の別名?):

 狐火や 未練の思いを 火に変えて   弥一

 白猫と 黒猫合わせ 斑(まだら)猫?   弥一
 斑(まだら)猫 出生の謎 問うて鳴く   michio
 斑(まだら)猫 相手求めて 鳴きしきる    弥一


 添付した画像は、昨年の味の素球場でのブラジルデーでの一齣。
 子供ポルタの勇姿!

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2004/09/17

文章と絵のコラボレーション

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 このところ、エッセイや小説に挿画を使わせてもらう機会が増えている。前から、少しずつは試みていたのだが、絵と文章との相乗効果を期待しての試みは、ますます増えていきそうである。
 エッセイもそうだが、特に小説を書く場合には、自分の脳裏に虚構の空間を描いている。それは、小説のドラマの場面でもあるけれど、もっと抽象的には、物語のイメージを象徴するような、ある意味、現実にはありえない(非日常的な)光景だったりもする。
 自分に絵を描く才能や情熱があれば、時間を掛けてでも可能性を探ってみたいのだが、それより、実際に日々、絵に携わっている方に、なんらかの世界を描いてもらうほうが、的確に表現してもらえる。
 九月に入ってからだけでも、エッセイ「猫と扇風機の思い出」になずなさん、掌編「狐の嫁入り」などにkeiさんの手になる絵を載せることができた。

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2004/09/16

天高く…意気低く

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 池田小事件の宅間死刑囚(40)が、14日、死刑執行された。「主任弁護人に送った手紙でも刑事訴訟法475条で規定された「6カ月以内」の執行を訴えていた」とか。つまりは、本人の望みどおりに死刑が執行されたということか。
 死刑の執行が早すぎるという意見がある。小生もそう、思う。場合にっては、今は謝罪の気持ちも、罪の意識もないとしても、一定以上の死刑を待つ刑務所生活の中で、後悔の念に見舞われる可能性があるからだ。
 一方、早くはない。早い執行は当然だという意見もある。彼のために、貴重な税金が使われるのは無駄だ、とも。
 小生は、死刑の執行が早いか遅いか、という問題よりも、むしろ、そもそも執行をどの段階を行うかに関して、裁量の余地が国(法務省?)にあること、そして、どういう判断で死刑の執行が早められたり、何年も遅らせられたりする、その判断の根拠の曖昧さに危惧を抱く。
 法務大臣や法務省の役人等の裁量に任される…。当然のように見えて、どうも、釈然としないものがある。
 そもそも、本当に宅間死刑囚の犯行は、彼の個人的な事情によるものなのか。何か背景があるのでは。そんな闇の部分が、全て葬られてしまったという気がするのだが…。

 さて、昨日も仕事が閑散。悲しいかな、またまた、駄句の嵐となった:

 考えて考えた挙げ句の居眠りさ 
 待たされて待った挙げ句の待ちぼうけ 
 鶏頭やこの世萌やして咲くなるか
 水銀の 白々として 淋しけり
 夜明け前 悲しみまでが 目覚め待つ
 夕暮れを 黄昏(誰そ彼)と呼ぶ 今宵かな
 夕暮れを 黄昏(誰そ彼)と呼ぶ 伊達男
 後れ毛に 息吹きかけて 武者震い
 川下り 腹下りに 聞こえるね
 幽霊さん アンヨもなしに 出歩くな
 リンゴ一個 二人で分けて 喧嘩する
 ブランコや 揺れて軋んで 誰を待つ
 公園に 忘れられたか 靴一つ
 砂場にて 掘り起こしたる 夏日かな

 掲載した写真は、小生が仕事で朝帰りすると、近所で出迎えてくれる(?)猫。体毛は白。もう、老いていて、ほとんど身じろぎ一つ、しない。先日、道路をのそりのそり渡る姿を見て、感激したものだった。

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2004/09/15

汗顔の極み

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 またまた今日も駄句のオンパレードとなった。いつまで続く、駄句の嵐よ、である。
 以下の句の数々は、いずれも、掲示板にレスとして書いたもの。経緯は、掲示板を御覧下さい。

 いいんです 楽しく美味しく いただけば
 赤トンボ 燃えて灰までの 恋心
 赤トンボ 身を粉にしても 夢叶え
 火のように 恋い焦がれての 紅い空
 熾き火より 埋み火のごと 恋う我か
(↓この句は、画像掲示板に、のり巻きさんから、胡蝶蘭の写真を戴いたので、その返礼に付したもの。胡蝶の逸話については、画像掲示板を参照のこと)
 夢うつつ 蝶の舞う空 見下ろして

 以下の句は、いずみさんサイトの掲示板に書き込んだもの。
 あまりの駄句ぶりに、汗顔に耐えないが恥を忍んで掲載しておく:
「珈琲館Good Day Web SITE」
 http://homepage2.nifty.com/good_day/

 鍵が無い! ないはずだよね 差したままじゃ
 傘が無い! ないはずだよね 差してるじゃん
 金が無い! ないはずだよね 稼いでない
 運が無い! ないはずだよね 運の尽き!
 品が無い! ないはずだよね ヒヒーン!(午年なもので)

 さて、一週間ぶりとなるが、メルマガを配信した。参考までに、目次だけ示しておく:

   目次:●1.鶏頭となるも
      ◎ 我がリベルダージのパレード情報
      ●2.小島英煕著『ルーヴル・美と権力の物語』
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 表題の中で、「鶏頭となるも」は、わりと楽しい駄文系かも。

 添付した写真は、今朝、仕事で朝帰りした際に、近所で撮らせてもらったもの。
 花の名前は分からないけど、ご婦人が毎朝、丹精篭めて世話されている。

 最後に、即席の句を一つ:

 夜明け前 木の葉までもが 夢の中

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2004/09/14

茜空

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 夏も終わりなのだろう。蝉時雨も何処か間が抜けているような、焦っているとでもような感を受ける。
 といって、秋になったとも言い難い。季節の狭間。夏の終わりと秋の始まりとが混在している。
 会社の倉庫では、コオロギが鳴いている。会社の人の話だと、例年通りなのだとか。鳴き声を聞いて驚き、姿を探し求めたが、とうとう、見つけられなかった。鳴き声はすれども姿は見えず、である。
 一方、車で何処かの深い緑の木立を抜けると、蝉時雨が凄まじい。仕事が暇だったこともあり、駄句をついつい捻ってしまう。

 月の裏見つけちゃったヌイグルミ(ナンセンスな句。ヌイグルミ…。勿論、ウサギちゃんのだよ)
 しんちんと暮れゆく空にはぐれ雲  
 君が身に我が身重ねて更けていく(町角で見た若い男女。羨ましいね)
 蝉時雨沁み入る岩の眩しくて  
 風に揺れ憩う木の葉の緑濃く

 帰宅して、掲示板に寄せてくれたメッセージへの返事として書いた句の数々。
 こうした句を作った事情などは、掲示板を御覧下さると、分かります。

(michioさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 赤トンボ 夕焼け空に 負けるなよ
 トンボ追う あの日の空は 彼方へと
(emilyさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 石舞台 悲劇の歴史 内に秘め
 明日香村 棚田のごとく 積む歴史
 ヒガンバナ 思い出さえも 紅く萌え
 赤トンボ ヒガンバナとの ツーショット
(のり巻きさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 夢うつつ 蝶の舞う空 見下ろして
(マルさんのメッセージへのレスに添えたもの)
 どなたでも ユズティー作って 譲ってぃー
 果汁はね いのちのエキス 詰まってる

 掲載した写真は、仕事中、未明に撮ったもの。東京の某町の茜空。
 せっかくなので、この空を見ての句を捻っておこうかな。

 茜空 胸の思いの 萌えるごと
 茜空 忘れた思い 炙り出す

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2004/09/13

夏が去っていく

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 今日の日曜日は、前にも書いたように、ひたすら休養に充てた。少しは疲れが抜けたような気がする。掌編を書く元気が出たのも、休んだお蔭なのだろう。HPの更新も多少は出来た。やり足りないことをあげれば切りがないけれど、無理はせず、のんびりやっていこう。
 今日も、方々で駄句をばらまいてきた。

「K君や 言葉少なく 静かなり 秋の夕べに 愛の言霊」 さくらえび
  
                言の葉は 問わず語りに モノを言う   弥一

「K君の 時折見せる 別世界 脳をかき分け 我れ入りたや」 さくらえび

                心とは 世界を入れる 器かも    弥一

 さくらえびさんのサイトは:
 http://homepage3.nifty.com/AKO

 安見さんが、画像掲示板に、ひまわりの写真を載せてくれた。そのお礼というわけではないが:
 
 ひまわりの 視線の先に 何がある
 まっすぐに 眩しいほどに まっすぐに

 安見さんのサイトは:
 http://homepage3.nifty.com/narumi~46-47/

 他にも、付け句ということで、サイトに載せられている俳句に付するコメント的な寄せも試みてみたり:
 http://www.h6.dion.ne.jp/~nazuna/index.html
 ↑の中の「投稿掲示板」にて。

 掲載した写真は、我が家のもと田圃の実情。そう、昨年までは田圃だったのだ。が、稲作に携わる手もなくなり、今では、こんな有り様なのである。そういえば、そんな光景を思って、こんな句を捻ったものだった↓:
 
 去年(こぞ)の田は夢かとばかりに飛ぶトンボ


 

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2004/09/12

まったりの一日

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 仕事のほうがスケジュールが厳しい。その合間を縫って、サンバパレードにギャラリーしに行くので、このところ、体への負荷が過剰気味。そこで、今日は、完全休養に当てた。とにかく、ひたすら何もしない。
 秋の日を感じさせる散歩日和の今日を、ホコリ塗れの部屋の中で過ごすのは、勿体無い。一昔前の自分なら、バイクに跨り、秋風を一杯吸うために、多摩川の土手か、今のように整備される前のお台場などへ向かったものだ。
 部屋の中では、ひたすらロッキングチェアーで居眠り。合間には、池波正太郎の『雲霧仁左衛門』を読んでいる。未明に上巻を読了し、下巻に突入。藤沢周平の時代小説とは違う世界を堪能している。
 さて、小生の本分というと、書くことだけ。
 というわけで、このところ遅れ気味だった掌編作成に勤しんだ。先月までで68個。今月は、月初めに、「案山子とボクと」を書いただけだった。そこで、この休みを使って、一つは朝方に「真夏の夜の出来事」(仮題)という得体の知れない掌編、もう一つは、書きかけだった黒猫ネロモノ第六作となる、「イチジクのネロ」(仮題)を書いた。
 これで、今年に入っての掌編は、通算で71個となる。年掌編百篇という目標に向って、道はまだまだ遥か。いよいよ、胸突き八丁という感じもある。読まれるかどうか分からない、というより、ほとんどが見過ごされていく掌編の数々の山を築いてどうするという気も起きたりする。
 でも、「創作の意味?」での反省で思ったように、書きたいから書く、表現の可能性を自分なりに尽くす、真冬の雪の朝の雪原を一人歩くように、誰ひとりいない薄明の領野を何処までも歩いていく。書くことは楽しみである以上に、ただただ生きる証しであり、さらには、ただ歩くその一歩一歩、大地を踏むその感触を確かめるため、ただそれだけのために書いている。
 小生は絵を描きたいという欲求はあるが、当面はその機会を持てそうにない。その分、数知れない絵画作品を見てきた。これからも見ていくだろう。油絵、水彩画、墨絵、ペン画、と手法だけでも絵画の世界は多彩だ。その中で、一番、静謐さと魂の透明なる緊張を覚えさせるのは、銅版画のようだ。
 今、自分は、虚構の空間という画面に向って、虚構の銅版画を、虚構のペンを使って刻み付けている。その筆舌を尽くしがたい快感。我が魂の輪郭に刻み込まれていく線描の示すものは、一体、何なのだろう。自分でも分からない。分からないけど、歩けるところまで歩いていく。ただ、それだけ。

 掲載した写真は、この七月の帰省の時に撮った我が家の庭の一部。緑豊かのように見えるかもしれないが、実は、雑草が生い茂っていて、近くで見ると、見るも無慙なのである。その有り様を見て、草むしりに励んだのも、無理はないのである。

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夜明かし

yamato-nero.png
 休みの前の日となると、椅子で夜明かしする習慣が付いてしまった。といって、ずっと起きているわけではなく、居眠りしては、ハッと目が覚める、の繰り返しである。
 正直なところを書こう。読書をと本の活字を追うと、すぐに目が疲れるもので、ちょっと目を休めようと、目を閉じると、すんなり睡魔の優しい手に導かれ、無明の境を彷徨うらしいのである。
 七月、八月と、貰った藤沢周平の時代小説を十冊、立て続けに読んだ。その流れというか、今、昨年、ゴミ置き場で拾ってきた池波正太郎の『雲霧仁左衛門(上・下)』(新潮社)を読み始めたのである。
 一昨日は、二十数年前に読んだ北山茂夫著の『万葉群像』(岩波新書)を読了した。ずっと車中で、ちょびちょび読んできて、あと僅かとなったので、自宅で残りを読みきった。『万葉集』には、学生の頃から関心を抱いてきたが、この十数年は、一層、興味深く読まれる。大伴家持という、藤原氏らにより傍流に追いやられた名門の総領が、浅からぬ思いを抱きつつ、律令国家の形成の陰で苦しむ庶民や、権力闘争などで泣き、あるいは非業の死を遂げた宮中の人々の思いを綴る歌を拾い集めた本。
 そう、普通なら消え去るべき本。立派な国家を作る過程での、闇の部分を抉り表現するような本など、あってはならない本。傍流とはいえ、一応は権力者の末尾にあって、広く言の葉を拾い集め、編集し、且つ、保存・温存・秘匿に努めることができたからこそ、奇跡的に生き延びることができたのだろう。
 無論、宮中の奥深くで、密かに(公然の秘密?)読み次いできた、そうした貴族等の思いもあったのだろう。
 一方、今は、車中では、またまた芭蕉の『おくのほそ道』を読み始めている。いろんな版で再々に渡って読み、もう、何度、読んだか分からない。
 思えば、『万葉集』のあとは、『古今集』や『明月記』などを読もうと思っていたのに、時折、拾い読みするだけで、小生は、ずっと『万葉集』に引き止められたままである。同時に、芭蕉以外の俳諧にしろ和歌にしろ、ほとんど、読んでいない。
 感性が、それらに合っているから(?)と思いたいけれど、まあ、学習能力に問題があるのかもしれない。もっと、幅広くと思いつつ、これからも、『万葉集』と芭蕉を中心の古典めぐりとなりそうだ。
 薄暗かった空も、今は薄明となり、スズメだろうか、鳥の鳴き声も聞えてくるようになった。夜明かし。ちゃんと蒲団で寝たほうがいいのだろうとは思うけれど、翌日は休みと思うと、ダラダラのんびりまったり過ごしてしまう。せめてもの贅沢がこうした生活なのかもしれない。
 かの9・11のこと、あれこれ考え、コラム的なことを書きたいと思いつつ、取り留めのないことを綴ってしまった。
 掲載した絵は、なずなさんに戴いたもの。八月一杯、なずなさんの主宰・管理・幹事により、「黒毛祭り」が行われていたが、その祭りに参加したお礼だという。こちらこそ、逆に労いの何かをしなくてはいけないのに、反って恐縮である。そのうち、肩でも揉んで差し上げたいものである。
 なずなさんサイト:
 http://www.h6.dion.ne.jp/~nazuna/index.html

 昨夜、捻った句を少々。これらは、掲示板にマルさんがコメントを寄せてくれたので、そのレスとして書いた文章に付したもの:

 急かされて 描いた世界に 茫然自失
 ない袖を 振り絞っての 一句だよ
 携帯に 虫の音入れて 風情かな
 我がライフ 最初の絵画は 蒲団にて
 川柳は いのちマルごと 手の平に


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2004/09/11

川柳とは

kodaihasu-1.jpg
 川に流れる木の葉のようなもの。あちこちに書き散らし、梢で一瞬、輝いて、でも、
風に吹き飛ばされ、あっという間に舞い落ちていき、いつしか、地の糧になるか、そ
れとも、川に落ちて流されていく。
 放っておくと、散逸するので、気が付いたものは、拾っておかないと…。

 めるがっぱさんのサイトで、向井潤吉の絵が話題に出ていたので:
 http://homepage2.nifty.com/melkappa/
 http://www.ntkr.co.jp/art/kouza/mukai.html

 古民家や 藁葺き屋根に 残る雪
 さわらびや 苔むす屋根に 萌え出でて

 のり巻きさんに、ある花の写真を画像掲示板に戴いた。その花の名前が(多分)分
かったので、その連絡のため、のり巻きさんの掲示板に書き込みをした際に:
 http://homepage3.nifty.com/sennbei/
 http://www.hana300.com/hanato.html

 花の房 虎の尾よりも 紫蘇らしく
 紫や 葉っぱの海に 輝きて

 なお、掲載した写真は、旧HNがmokoさん(現・安見さん)に戴いた加工画像。moko
さんが、ご自身の撮られた写真に小生の句を載せてくれたのである。


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秋の気配

 昨日も、夜は暇だった。夜半の仕事で売り上げのアップを期しているのに、現実は厳しい。
 それでも、朝方になって、中距離、長距離のお客さんが付いたので、また、帰宅が遅くなった。
 そろそろ終わりという頃にお客さんが付くのは、嬉しいけど、辛い。嬉しい悲鳴ということか。
 掲示板にいろんな方が来てくださり、賑やかで、とても嬉しかった。
 けれど、出先なので、レスを付けられないのが歯痒い。
 さて、例によって、休憩(待機)中に川柳を作っていた:

(日中は、のんびり、まったり)
 秋の日の麗らかについ眠くなる
 微睡みを誘うがごとき秋日かな
 コオロギや虫の息まで聴く夜かな
(昨日も、仕事が暇だった。朝になって、ちょっと忙しかったけど)
 豊漁だ!仕事じゃなくて川柳が?! 
 ない袖を振り絞っての涙かな 
(未明に空を見上げたら、薄い雲が広がっていた)
 群雲(むらぐも)は天蓋覆う布団綿  
(タクシーの営業で)
 間違えた!でもそのほうが早かった?!

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